【第2話】 晴れのち曇り ところにより冤罪
―――冤罪。つくづく俺はそういう星の下に生まれているのだと思う。
思い返せば、初めての不幸は中学三年生の秋だった。学校帰りに行きつけの書店に立ち寄った際、自動ドアの向こうから猛ダッシュで駆けてくる女子学生の集団とぶつかった。一人目、二人目は上手く俺の横をすり抜けていったが、三人目と肩がぶつかり、俺は店の前で尻餅をついた。そのとき彼女の手から、何かキラキラしたものが落ちるのが見えた。
俺にぶつかった女子が一瞬足を止めたが、前方から「行くよっ!」と冷たく言い放つような声が聞こえて、女子集団は僕を介抱することもなくそのまま走り去ってしまった。何が起きたのかも理解できないまま、俺は強く打ち付けた臀部をさすって立ち上がり、その時ついでに女子学生の落し物を拾った。それは猫のキャラクターがついた黒い手鏡だった。まじまじと鏡を見つめていると、突如、後ろからその手を捻りあげられた。痛みに身を捩りながら背中越しに確認すると、青い作業エプロンをつけた中年女性が鬼の形相で俺を睨みつけていた。
「今日という今日は、絶対に許さないよっ!」
弁解の余地もなく、俺は事務所の裏側に引っ張り込まれた。店主と思しきその女性は俺をパイプ椅子に座らせると、早口で何事かを捲し立てた。どうやら俺は、運悪く万引き犯に仕立て上げられてしまったらしい。彼女の一方的な勢いに圧倒されて何も言えずにいると、そのことで気を悪くしたのか、彼女はさらにヒートアップしてついには警察を呼ぶと言い出した。「さすがにまずいな」と思いながらも、声を上げることもできない状況に半ば諦め、俺はただ、その場で縮こまっていることしかできなかった。
丁度その時、騒ぎを聞きつけたのか、非番の警察官だという中年男性が現れた。ベージュのジャケットを羽織った背の高い人で、なんだかトレンディ俳優みたいだった。およそ警察官には似つかわしくない風貌だが、本人が言うからにはそうなのだろう。もはや逃げることもできない最悪の事態。泣きっ面に蜂とはまさにこのことかと運命を呪った。しかし、その警察官の口から出た言葉は意外なものだった。
「その商品はどう見ても女性物ですよね?彼がそんなものを盗むとは思えないのですが。」
店主の女性は第三者からの思いもよらぬ指摘を受けて、急にしどろもどろになった。
「で、でも…。そうよ、恋人か誰かのために盗んだに決まっているわ!」
そんな相手がいるなら是非ともお目にかかりたい。そして盗むべくはその人のハートだろう。そんなことを考える心の余裕ができるほど、思わぬヒーローの登場は心強いものだった。
「実は、犯行の一部始終を見ていました。犯人は女子学生だったと思いますよ。なんでしたら防犯カメラの映像を見てみてはいかがですか?」
「そ、そうね。ちょっと待っていてくださいね。」
そう言って店主の女性は、そそくさと事務所の扉から出て行った。その様子だと、防犯カメラの存在は把握していたらしい。敢えて自分からは話題に出さずに、確たる証拠もなしに俺を犯人だと決めつけたのか。そう思うと、なんとも甚だ腹立たしい。
店主を待つ間、落ち着かずに目線を泳がせていると、トレンディさんと目が合った。
「まったく、非道い目に遭ったね。そのことは心から同情するよ。」
「助けていただきありがとうございます。」
「いや、大したことではない。正義を貫くことが私の使命だからね。冤罪は何としても阻止しなければいけない。」
「我ながら、運が悪かったです。」
「でも、君もよろしくないね。きちんと話せるんじゃないか。」
思わぬ言葉に虚を突かれた。
「黙っているだけじゃ何も解決しないよ。黙秘をするのは逮捕されてからで充分。まずは間違っていることは間違っていると主張しなければいけない。君のその口は、真実を叫ぶためにあるんじゃないのかい?」
怒るでもなく、悟るように、その警察官は俺に説いた。俺は自分の不甲斐なさが恥ずかしくなり、つい下を向いてしまった。理路整然と事態を解決して俺に正義を説くそのヒーローは、あまりにも眩しすぎた。折しも多感な中学生。将来この人のような警察官になりたいなと思ったことは、いまでも心の裡に秘めている。
やがて店主の女性がビデオテープを持って再び現れた。事務所のモニタで映像をチェックすると、果たして三人組の女子学生が走り抜けていく姿が映っていた。
「あらぁ、確かに女の子たちだわね。ごめんねぇ、ここ最近万引きが多いから、おばちゃん焦って間違えちゃった。」
店主は先ほどまでと百八十度態度を変え、猫なで声で謝罪する。本来なら怒っていいところだと思ったが、先ほどトレンディさんに諭された手前もあって、いまは幾分、晴れ晴れとした気分になっていた。
「いえ、自分もきちんと弁解できなかったのが悪いですから。それより万引き犯、早く捕まるといいですね。」
「そうね。丁度あなたと同じくらいの年の子たちが、何食わぬ顔で商品を持っていくのよ。おばちゃん、怒りを通り越して、ちょっと悲しいわ。」
おばちゃんのお怒り、通り越すどころか、まっすぐ俺にぶつけられたんですが―――。
さりとて、無罪放免となった以上は長居は無用と、俺は椅子から立ちあがった。
「お巡りさんも助けていただき、ありがとうございまし…。」
去り際にトレンディさんに礼を述べようとして、思わず語尾が小声になってしまった。トレンディさんの様子がただならぬ雰囲気だったからだ。
トレンディさんはまだ一心不乱にモニタを見つめていた。その目つきは先ほど俺に向けられた柔和な表情とは明らかに異なる、憂いを帯びた警察官の目だった。
「いやー、さすがにお姉ちゃんも、今回ばかりは無傷とはいかなかったぜよ。」
夜、自室でくつろいでいると、向かいの窓が開く音がしてアカネさんが顔を覗かせた。肘に消毒綿を当てながら、これ見よがしに傷口を見せつけてくる。今朝、駅前の坂の直前で変わり身の術を弄した際に、自転車からの飛び降りに失敗して擦りむいたらしい。
「これだけは断言させていただきますが、完っ全に、自業自得だと思いますよ。」
手負いだから、これでおあいこだとでも言いかねない姉に対し、真っ向から反論してやった。
「でも、おかげで捕まらずに済んだでしょ?」
「はい、おかげさまで二人乗りの罪は逃れられました。その代わり、一歩間違えれば更に深い罪を負うところでございました。」
髭田巡査と二人、まぁ傍目から見たら俺の腰に抱き付いている人形を加えた三人か。異様な取り合わせに、なんだなんだと野次馬が集まってくる。
「コホン。まぁ、君の趣味のことをとやかく言うつもりはないが、紛らわしいことはしないように。今回は咎めないけれど、次は署まで同行してもらうよ。とりあえず人目もあることだし、さっさとソレを片付けなさい。」
髭田巡査に頭を下げる。さっさとその場を離れたかったが、人形をその場に捨てていくわけにもいかず、やむなく一旦自転車のスタンドをかけて、人形の空気を抜く作業を始める。しかしこの人形、もう一つ邪悪な罠が仕掛けられていた。空気穴がちょうど背中のところにあるので、腹部と背部を両側から圧迫しないと、空気が抜けない。作業中のこの体勢を、一般的な言葉で何と言うのだろうか?恐らく日本語では「抱擁」、英語では「ハグ」だ。
髭田巡査と野次馬の冷たい視線の中、女性を抱きしめる高校生。どんどん萎んで、小さくなっていく女性。群衆の注目を一心に集めるといえば聞こえはいいが、あまりの恥辱に頭が沸騰し、顔から火が出そうだ。
集まりし皆の者よ。後生だ。後生だから、オレをスマホで撮らないでくれ!
「あはは、それはとんだ災難だったね。お姉ちゃんその後の事態まで想定してなかったわ。ごめんごめん。」
「ごめんで済んだら警察は要りません。むしろ警察のほうがアナタよりも優しく気を使ってく
ださいましたよ。」
「でもね、なかなかいい経験だったと思うよ。だって、ほら」
ピロリン、と着信が鳴った。トーキングアプリの着信音だ。発信元は、―――アカネさん?
「シロくん、とってもいい顔してる。」
スマホの画面に映し出されたのは、どう見ても女性を抱きしめて赤面している男子高校生の姿。まったく、想定外とは良く言ったもので―――。
アカネさんや、なんでアンタがその写真を持っているんですかい!
「まったくもう、金輪際こんな危険なことはやめてくださいね。」
スマホを操作して送られてきた写真を消去しながら、アカネさんのほうを見遣った。
「そうよね、もう私ひとりの体じゃないんだもんね。」
「なにをわけの分らぬことを仰いますか。」
「もう、つれないな。シロくんのいけずー。」
そう言ってわざとらしく頬っぺたを膨らませる。果たしていけずはどっちだと問い質したい。
「でもさすがに、ちょっと今日はやりすぎたかな。お姉ちゃん、反省反省。」
そう言ってアカネさんは眉根に皺を寄せ、困り顔を創る。本気で反省していないのは一目瞭然なのだが、―――あぁまったくもう、どうしてこの姉はこうも男心をくすぐるのだろうか。
「その罪滅ぼしと言っちゃぁナンだけど、シロくん、週末の日曜日は空いているかい?」
「今週末ですか?えっと、特に予定はないですけど。」
あ、ひとつあったか。むしろ、だからこそのお誘いか。
「あれあれー、誕生日なのに、お祝いしてくれる彼女もいないのかい?何とも寂しい話じゃないかい。ここはひとつ、哀れな若者のために、お姉ちゃんが一肌脱いであげようじゃないか。」
「結構です。」
「シロくんやい、お姉ちゃんの心からの善意を四文字で拒否しないでくださるかな。」
「左様ですか。では、恐悦至極に存じますが、謹んで辞退させていただく所存でございます。」
「よろしい。いや、よろしくない。」
「だいたい、どこが心からの善意なんですか。多感な高校生をたぶらかさんとする悪意の塊にしか聞こえないんですが。」
「うわっ、自分で多感な高校生とか言っちゃったよ。聞きました、奥さん?シロくんってば、多感なお年頃らしいですわよ。まったく、破廉恥ねぇ。」
片手を口元に遣りながら、もう片方の手をパタパタと仰ぐ。いわゆる井戸端会議をする主婦の再現か。つくづく持ちネタのバリエーションが豊富だなこの人は。
「それで本題。お姉ちゃん、シロ君の誕生日をお祝いしてあげたいんだよ。」
「それはまぁ、ありがとうございます。」
「でもさ、多感なお年頃の青年が何を欲しがっているのか、正直良く分からないのさ。」
「まだ引っぱりますか。」
「だからさ…」
また八重歯が覗いている。この後に続く言葉は大方想像がつく。きっと「お姉ちゃんをアゲル」とか、そういった意味合いのことだろう。そう先読みして返答を考えていると、
「シロくん、一緒に買い物行こ!」
ごく普通のお誘いが来たので、思わずキョトンとしてしまった。らしくないな、というのが率直な感想だ。アカネさんとの付き合いの深さが、一見「普通」であることに対し、逆に普通でないものを感じさせる。世間一般の男女であれば、恐らくこれが普通のやりとりなのだろうが、アカネさんの場合は「公園で焼き芋しようよ!」のほうが彼女らしい。かえって何かあるんじゃなかろうかという邪推を禁じえない。
しかし先ほどのやり取りからして、素直に俺の誕生日をお祝いしようとしてくれているのだろう。アカネさんの善意を疑うのは、それこそ無粋というものか。
窓の向こうのアカネさんに対し、俺は大げさに親指を立ててポーズを送ってみた。
「決まりだねー。ニカカッ。」
悪戯っ子の笑みに、やっぱり何か裏がありそうな気がして、背中を冷たいものが流れ落ちた。