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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

その日私は

投稿しない理由がなくなったのでぱらっと投稿。

 ぶおん、ぶおん。


 恐ろしい風切り音が辺りに鳴り響く。それはまるで、容赦も慈悲もなく罪人の首をはねるギロチンのようだった。そう思うと、さながら自分が断頭台に立っているかに思えて、私は身体を震わせる。


 だが、震えない。小刻みに身体が動くことなんてまるでなく、それは私の身は石にでもなってしまったのかと思ってしまうほどだった。手を小さく揺らしてみようと考えても動いたという感触はまるでなくて、いうことを聞こうとしない身体に私はいらだちを覚える。一体、なんだというのか。


 空気を切り裂く重苦しい音は相変わらず鳴っている。それは不規則に途切れながらも、決して止まることはないようだった。それがささくれだった私の心に毒を塗りたくる。まさしく神経を逆撫でするというのがぴったりで、私はいうことを聞かない身体への不満を募らせる。


 視界は古い写真を思わせるセピア色をしていた。すべてが淡い褐色。それでいて明暗ははっきりとせず、なにか動くものがあるのだとは分かってもそれがなんなのかはおよそ不明瞭であるまま、変わることがない。


 身体さえ動けば。そんな考えが頭の中を駆け巡る。どれだけまわりが見えなくとも、近づけばそれがなんなのかくらいは理解できるはずだ。ただ私は、彫刻のごとく固まってしまっているわが身に、なけなしの憎悪やら怨嗟をぶつけるしかなかった。


 ふっと、なにかが切り替わった気がした。それと同時に、うんともすんともいわなかった身体が動き始める。視界はどうやっても昭和の写真のままだったが、辺りの様子ていどならば充分に見えるようだ。言葉にしがたい歓喜が私の身を包む。


 木と、土と、高層ビル。それに蟻。私の瞳に映ったものはそれらだった。それにしても視線が低い。私は土にでも埋まってしまったのだろうか。


 そう考えて、私は違和感に支配される。なにもかもがおかしいようだった。近くに植えられた大きな木を見て私は思う。葉や枝ではない。根っこから、違っているのではないか、と。


 都会の住宅街で土がむき出しになっている場所は広くない。首をめいっぱい上に向けようとも終わりが見えないビルなんて私は知らない。巨木がこんなにも乱立しているなんて考えられない。


 手足が六本あるだなんて、人間ではない。


 周囲の蟻は驚きのあまり動きを止めた私を気にした様子もなく、せっせと働いていた。大きな顎で白い何かを咥えて、一つ一つを大切そうに運んでいる。何十、何百という蟻が私のまわりでせわしなくその六本足を動かしていたのだ。


 なにが起きているのだという思いと、どうすればいいのだという思いが私の身体の内で暴れる。規則的であるようで不規則なそれは、遠くから轟くギロチンの音に酷似していた。それが目の前を動く幾千という足の動きと重なって、私の思考は飽和する。


 辺りが黒に染まった。淡い褐色は焦げ茶色をはるかに超えて墨のようになっていた。それは影であると、私は誰にいわれるでもなく理解した。


 ゆっくりと後ろを振り返る。緩慢であると思っていたその動きは、私の想像以上に高速だった。六本ある手足が鋭いステップを踏んで、私が見たいと思ったものを視界に納める。


 小さな子供だ。あどけなさの塊であるというべきその子供は、赤い帽子をかぶっていた。その事実がよりいっそう、子供らしさを引き立てている。


 子供の下半身が動いた。それに伴って、月も星もない夜より暗い影が移動する。


 私のかたわらでは、まだ大量の蟻が小さな歩みを進めていた。彼らがこの闇を作り出した者の動きに気がついた様子は見られない。


 子供の下半身が動くにつれ、私にもこの邪気の感じられない子供がなにをしているのかが分かってきた。私の目には子供用の靴、それの底が見えていた。底一面に彫り込まれた溝はそのほとんどが擦り切れていて、かろうじて残った部分も砂利などが挟まって既に当初の機能を失っているようだった。ゆっくりとそれが、私に向かって近づいている。


 まるで隕石でも落ちているのかという、ギロチンなどよりもよほど恐ろしげな音を立てて子供の足は私に向かってくる。私はそれをひたすら凝視していた。死ぬのだ。そんな思いが浮かんでは消え、代わりに死にたくないという人間の醜い部分が顔を覗かせる。それでも、私は私の瞳をその靴底へと注いで話さない。


 ぶおん。ギロチンが迫る音が、やけに大きく聞こえた。



 その日私は蟻だった。






 もしギロチンが生き物であったなら、今日は元気がないようだった。何度も何度も連続してその刀身を落としていたはずなのに、今となってはずいぶんと間が開いていて、しかもその音は耳を澄ませなければ聞こえることがない。


 そんなことはどうでもいいのだ。そう、私は自分に言い聞かせた。あんなおぞましい音は、聞こえない方がいい。私を脅かす音だ。


 私は殻に篭って眠っていた。固い硬い、とても堅い殻に。


 ここの中ならば安全だ。そう思うと私はとてつもない幸福感を感じる。誰にも邪魔をされない自分しかいない空間。中の壁はつるつるで、居心地もいい。腹が減れば少し、ほんの少しだけ頭を出して食べ物をあさる。何もしたくなければ、寝ていればいい。


 ああ、なんて楽園なんだろう。誰かを気にする必要はない。誰かに干渉されることもない。ただたまに食事をしては、寝ていればいいのだ。


 私は今まで生きてきた中でもっとも幸せを感じた。これが幸せなのだと、実感した。今まで私が得ていたものは幸せではなく、ただの無駄な時間だ。そう思う。


 ひたすら殻に篭り続けた。ただひたすら延々と殻に篭って惰眠を貪る。私にとっての食事とは睡眠であると、そう錯覚してしまいそうになるほど、私は怠惰に過ごした。


 殻の外は真っ白だ。それは嫌な感じはしないが、なにかが違うのだと私は思っていた。その白は私に安寧を与えてはくれない。そこに出たが最後、私はこの幸せを失ってしまうのだと直感していた。でも食べ物はその白の中にしか存在しない。本当に難儀なことだった。だから私は、少ししか身体を殻しか出さない。決してすべて出してはいけないのだ。ちょっとだけ出して食べられそうなものを回収すると、すぐに引っ込める。


 白の中には水が浮いている。真っ白な中にぽつぽつと浮かんでいるのだ。それに手を伸ばして拾っては、私はそれを口に運ぶ。それとない美味しさを私の舌は脳に伝えたが、私はそれを信用していなかった。これは毒なのだ。この水に殻が浸食されてしまえば、私は生きていけないに違いない。だから私はこの白の中に浮かぶ水には一際注意を払っていた。


 ギロチンの音はもうごくまれにしか聞こえない。だがそれがむしろ私の恐怖感を煽っていく。嵐の前の静けさ。そんな言葉を思い出す。だから私は視覚も聴覚も味覚もなにもかもを遮断して、眠る。それが私にできる唯一の抵抗だったからだ。眠り続けて、幸せを求める。ただひたすらに。


 それを崩して葬ったのは、金属同士をぶつけたがごとき音だった。


 かんかん、かんかん。


 殻の中で幾重にも響くそれは確かに、殻が外から叩かれる音だった。


 ぞわりと総毛立つ。それが鳴り始めたのはちょうど私があの水を手に入れようと、この手に掴んでいたときだった。震えが走った私の腕は白の中から得たそれを殻の中へとこぼしてしまう。


 かんかん、かんかん、かんかん。


 水がぶるりと、まるで生物のように動く。そのまま、私の身体にまとわりついた。私は、悲鳴を上げる。そうして、幸せで溢れていたはずの安全な殻の中でのたうちまわった。


 ああ、やはりこれは毒なのだ。混乱して荒い息と共に途切れ途切れの喚き声を吐くばかりの口から、水は私の体内へと侵入した。この毒はギロチンの代わりなのだ。最早声にもならず、私は地面を転げまわって呻く。


かんかんかん、かんかんかん、かんかんかん。


 音が鳴る度、毒の責苦はより強く私を蝕んでいく。苦しめていく。息さえも、もう出来ない。ただ手や足でもがくしか、私にはできなかった。


 かんかんかんかんかんかんかんかんかんかんかんかんかんかんかんかんかん。


「あれ、割れちゃってるよ、これ」その声だけ、不思議と明瞭に私の耳へ届いた。



 その日私は貝だった。







 もう動きたくない。


 私はそう思って、地中深くまで広く根を張った。がっちりと地面を掴んで離さないそれは、もう私がそこから移動する気などないのだと、はっきり示していた。


 もう苦しみたくない。


 枝を猛然とした勢いで伸ばしていき、私は葉を何百と生やして息をする。もうあんな毒はこりごりだった。あんな苦痛は二度と味わいたくなかったのだ。だから空気を吸う。白なんて、視界に入れたくもない。


 もう襲われたくない。


 幹を太く、太く、成長させていく。皮は固く、そして厚く。小さく薄いから、安全ではなかった。あの幸せか仮初で、偽物だったのだ。だからより強固に、より安全に、より幸せであるために、私は自分を育てていく。


 ギロチンの音はまるで聞こえない。山奥にあるからなのかなんなのか分からないが、私にとっては好都合だった。あれもまた、もう聞きたくないものなのだから。私をいつも殺す、死神の足音なのだ。きっと、違いない。


 周囲の草が枯れた。私の根に追われて、生きていけなくなったのだろう。罪悪感は、一片の欠片たりとも感じなかった。私が幸せであるための糧のなったのだ。感謝されることこそあれど、恨まれることなどありはしない。


 周囲は木で溢れかえっていた。私の根の広がりを邪魔するものもあった。それらをすべて抑えつけて、私は、私だけがまっすぐ天に向かって大きく伸びていく。それは得難い優越感を私に与えてくれた。それは心の底から自分は幸せだと、神に感謝したくなるほどの幸福感だった。


 満足する気はさらさらなかった。優越感も、幸福感も得た。だが満足感は得られない。それはなぜなのか。私はその原因は、安全ではないからだと考えた。


 私は安全でなければならない。そうでなければならないのだ。誰にも邪魔されず、幸せをかき抱くために。あんなちっぽけで危険に囲まれたものから抜け出したのだ。私は自分で自分の安全を作って、幸せになるのだ。


 もっと枝を空へ伸ばせ。


 もっと葉の数を増やせ。


 もっと根を地中深くまで広げろ。


 もっと幹を誰よりも太くしろ。


 こうすれば安全なはずだ。誰にも、どうすることもできない。私を殺せない。


 そうやって、私は初めて本当の幸せを味わうことができるのだ。


 ああ、あと少し。あと少しだ。あと少しで、私は幸せになれるのだ。苦しみから逃れられるのだ。そう思っていた。


 私は気づかなかった。ギロチンは私に静かに忍び寄っていた。


 人間がいた。私よりもはるかに小さい、塵芥のごとき人間が。もうどうすることもできまい。私は人間をせせら笑った。私の身体は強固で、頑健なのだ。人間には手も足も出ない。そう、思っていた。


 痛い。


 痛みを感じた。それは私には有り得ないはずの感覚だった。感じるはずのない、絶対に感じてはならないものだった。それを、私は感じてしまった。


 私の自慢の幹が削られていく。私だけの枝が、手折られていく。私しか持たない根が掘り返される。巨大な機械は、いとも簡単に私というものを殺していく。そこには優しい感情はどこにもなくて、代わりにあるのはただの作業という虚無だけだった。私を無慈悲に殺す、ギロチンだ。


 嫌だ、にたくない。そんな思いは誰にも伝わらない。


 ギロチンは既に、私へ届いてしまっていた。もう抵抗したところで、どうにもならない。それは私がつい先程まであの小さな人間たちへ抱いていた感情である。


「ほんと、邪魔な木だよなあ」


 ぽつりとつぶやいた人間の思いは強制的な一方通行だった。



 その日私は木だった。







 身体にかかっていた布団を、私は蹴り飛ばした。全身に、鳥肌が立っている。なんだかとても気持ちが悪くて、左右の腕で互いの二の腕をかきむしる。そうしないと気が狂いそうだった。叫びだしたくなるのを、ほんの僅かに残った羞恥心と社会の常識で抑え込む。


 息が荒い。それが落ち着くことはないのだろう。私の額には玉のような汗が幾つも皮膚から染み出て、目の焦点はまるで合わない。寝間着の背中がぐっしょりと濡れていて、それがすべて自分の身体から出た水なのだと思うと、私は小さく悲鳴を上げながらそれを脱ぎ捨てた。


 水が私を殺した。どれだけ泣き叫んで暴れても、私から離れなかった水が。


 かんかんと音が聞こえて、それが幻聴であると分かっていても耳を毟りとりたくなる。それを行ったところで私の望む結果が得られないことは分かりきっていた。だから代わりに、手で耳を塞ぐ。そうすれば、まだましになると信じて。


 ふと、私の視線が机へと向く。なんのことはなく、ただ本当にそちらをたまたま私は向いたのだ。


 向いてしまった。


 小さな黄色い車の模型。誰から貰ったのかさえも忘れたそれは、確かに私を殺した重機の一つだった。


 もう我慢できなかった。部屋に大きな悲鳴がこだまする。間違いなく、近所にまで響きわたったことだろう。だがそんなことを気にする余裕なんて、既に私には存在していなかった。しているはずがない。そんなことは不可能だ。


 そのままの格好で、私は部屋を飛び出す。耐えられるわけがなかった。あのまま部屋に篭っていれば、私はどう考えても狂人と化していたことだろう。いや、もう既に手遅れなのかもしれない。悲鳴を上げて涙と鼻水とよだれで顔をぐちゃぐちゃにしながら、大きな足音を立てて家を駆けずり回るのは、常人のすることではない。そんな外聞を気にすることも、私にはできなくなっていた。


 家を走れば、嫌でも水が目に入る。キッチン。トイレ。洗面所。蛇口。それらを見るたびに私は巨大な悲鳴を上げてほうほうのていで逃げ去る。この家にいることさえ、私にはもうできない。


 玄関から逃げようとして、私は今日何度目となるかという叫び声を出した。きちんと揃えられたスニーカー。


 その足裏で、私を踏み潰したのだ。


 その瞬間自分が何をしているのか、私でさえ分からなくなってしまった。ただとても聞いていられないような奇声を上げて、怯えて逃亡する獣のごとく走る。


 ぱりんと音がした。窓硝子が割れた音だと気づいたのは、私の上半身に鋭い痛みがまるで、ひびの入った壺のように走ってからだった。その痛覚がより私に襲いくる死を思い出させて、私の悲鳴と走りを強烈なものへとさせていく。


 足が棒のようになるまで走って、喉が枯れるまで叫び、血塗れで私は外にいた。


 ぶおん。


 何よりも私が恐れ、恐怖した音が私に向かってくる。もう身体は動かない。声も、出ない。ただ首を少し動かして、音の正体を見極めるしかできることはなかった。


 煌々と光るヘッドライト。銀色の躯体。傷一つないバンパー。フロントガラスだけは、雨で汚れていた。


 私に迫るギロチンは、高速で突進する鋼の箱だった。容赦なんて微塵も感じさせずに、私の命を刈り取っていく。


 世界中が止まった中で、私の視界だけが動く。今にも目の前の車は私を轢き殺してしまいそうだ。視線が移動する。近くの道に小さな子供がいた。帽子をかぶった、あどけない子供。目が回転する。道路に面した家に女性がいた。ついさっきまで乗っていたのか、駐車場に停めた車から熊手と大量の貝が入ったバケツを下している。視界が元に戻る。車に乗っていたのは、壮年の男性だった。驚いた表情こそしているが、その顔を私は忘れていなかった。「ほんと、邪魔な木だよなあ」彼の言葉が私の頭の中で再生される。


 そうか。私は彼の言葉に止まった世界で納得した。私は常に邪魔だったのだ。そこにいた人間にとって、殺してしまいたくなるほどに。私はいつも邪魔者だったのだ。


 時が動いた。



 その日私は邪魔者だった。



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