僕らの感情はルールを守れない
ケイ・ラチショは全知凡脳の人間だ。
いや、人間とは、もしかしたら呼ぶべきではないのかもしれない。それは、彼女の全知が、世辞や安易な煽り文句として使われているのではなく、本当にこの世の全てを知っている――ということになっているかららしい。本当にそんな人間がいれば、科学の進歩も人類の進化も常軌を逸した早さで進むだろうが。しかしそういう現実がないのもまた、彼女が凡脳と呼ばれる所以であった。
今この瞬間、夜の公園のベンチで、瓢箪型の大きな池を眺めながら、近所のスーパーの「揚げ物の日限定価格」定価五十四円のカボチャコロッケを無心に頬張っているケイ。隣で僕も同じものを食べている。やっぱりうまいなぁ。コロッケといえば、日本で偉大な進化を遂げている調味料、ウースターソースをかけるのが一般化しているが――このコロッケにソースは必要ない。一口かじった断面から、橙とその中に緑や黄が散見する。歯の裏側に微かに残った練りカボチャが、次の一撃に備えて唾液部隊に発破をかけた。焦り慌てた唾液第一部隊が足を滑らっせ、口内の食べカスと共にのどを滑り落ち、食堂をにつついて刺激した。敵の進入を覚悟していた胃が、肩すかしを食らいグゥと音を漏らす。ケイは既に二個目のコロッケに食いかかっている。くそ、なんでこんなうまいものをそんな無表情で食えるんだ。カボチャの甘い香りに惑わされ、唇の城門を開きそうだ。今日は、このコロッケを一緒に食べながらケイと話そうと思っていたのに、このままではなにも話さぬ間に食べ終わってしまいそうだ。それはダメだ。意味がない。彼女は食事中が一番おとなしく話を聞いてくれる。だから腹持ちがよくて、なおかつうまい――ああ、うまいんだよなああ。くそぉ、食べたい食べたい。こんなことなら、ご飯がないと食べにくい牛肉コロッケにしておけばよかった。これだとおやつ感覚ですぐに食べきってしまいそうだ。だがしかし、そろそろ僕もケイからいろいろと聞き出さなくちゃいけない。そう。そのためなら、今しばらくコロッケを食べるのを我慢するくらいできるはずだ。よし、一旦このカボチャコロッケを手から放そう。またな、コロッ……と、目を向けたのがいけなかった。見えてしまった。かじり口から覗くコーンの一角が。衣を噛み切って溢れ出す、あの舌に馴染むようにして溶けていく甘いクラッシュカボチャ。質量感のある口当たりに満腹感を覚え、広がる甘み、カボチャの皮を噛んだときのごく微量の苦みが、さらに甘みを引き立て、そして極めつけにこのコーン。内包された量が少ない為、数回に一度だけ、コーンの甘皮をプチと破るあの快感に奥歯が欣喜雀躍し、突如池に小石を落としたように生まれる別の甘みの波紋。それを必死に探りたくなる舌。唾液部隊の疲弊度は半端ではなくなる口内全面戦争の火蓋。そのコーンが見えてしまった。ああ、もうダメだこれは。唾液第二部隊、最前列に配備。歯の隙間に敵兵は残っていないか。第三部隊の補充を急げ。上の歯の裏側も見落とすな。準備はいいか。剣を取れ。城門が開くぞぉおお。うおおお。きたあああああ。衣が唇に触れた。慌てるな、まだ早い。もっとだ、もっと。もう少し引きつけろ。やばい、鼻孔のダメージが。押さえきれない。いけない、城門が勝手に閉まる。しまるぞおおお。かかれえええええええええええええええええええええ。
三年食らい……じゃなくて位、経つだろうか。已然「自分には五つの会話ルールがある」とケイは言った。たった一度だけ、僕の前で言った。
そのルールはさながら、全知である代償の様に、彼女を役立たずに落とし込んでいた。相変わらず無表情で、ショッキングピンクのキャミソールに明るいデニムのホットパンツから伸びる脚をベンチの上で抱えて、体育座りのような格好で三個目のカボチャコロッケを食べている。走ってスーパーのカボチャコロッケを買い占めてきた……。
ルールその一。
「なあ、ケイ。そのキャミソールはどこで買ったんだ?」
「……」
「髪の毛はどのくらいの周期で切ってる?」
「……」
「積分ってなんだっけ?」
「……」
「織田信長はなんで死んだの?」
「……」
「コロッケはうまいか?」
「……」
質問には反応しない。
この第一のルールゆえに、ケイの全てを知っているという突出性が潰れてしまっている。全宇宙の模範解答であるケイ・ラチショは、決して答えを見せてはくれないのだ。
ルールその二。
「コロッケ一個ちょうだい」
「デザートが食べたい」
「そこの池で裸で平泳ぎして見せて」
「筧は鬼籍に入ってほしい」
「僕に『好き』って言ってよ」
「好き」
お願いをすると、それと(多分)同等、同価値の希望を言う。そして、希望を叶えるとお願いをきいてくれる。
って、今の会話、突っ込むべきところだらけだが。
「ねえ、なんで最後だけ希望がないの?」
「……」
おっと、これは質問か。まあ深く考えても仕方ないことなのかもしれない。彼女については謎だらけだ。僕なんかに好きって言うこと事態に価値がないと判断されたのかもしれないし……。
ルールその三。
「ねえ、ケイ。僕の名前は筧四算っていうんだよ」
「知ってる」
「恐竜は絶滅したんだよ」
「知ってる」
「地球は明日なくなるんだよ」
「知らなかった」
「純水は電気を通さないんだよ」
「知ってる」
「太陽は冷たいんだよ」
「知らなかった」
何かを教えてあげると二通りの返事をする。
全てを知っている彼女に、ものを教えるというのもおかしな話だが。知らなかったと答えた場合は、言ったことが間違いだということはわかる。だから物量作戦で「地球は一万年以内に滅びるよ」「五千年以内に滅びるよ」「あと三千年は滅びないよ」みたいな会話をしていけば、そういう単純な真相は簡単に明らかにできてしまうのだけど。それはあまりにも恐ろしいのできいていない。だから、この第三のルールを誰かに教える気もない。僕が三年かけてやっと解読した三つのルールだ。まあ、第一の「質問に答えない」に関しては、知っているヒトはたくさんいるけれど。しかし、残りの二つは、僕も未だにわかっていない。だからこそ、僕はこうして定期的に彼女と会話の時間を設けているのであった。
……だって、全知の力を味方に着けたら、超すごいじゃん。怖いもんなしだよ。きっと一生遊んで暮らせる。そのためなら、僕の青春なんて、いくらでもこの無表情な少女に費やしてやるさ。
とは思っていないけど。いや。まあ。おこぼれがもらえたら嬉しいな、くらいには思っているけれど――そうじゃなくて、ただ僕は、三年前、ケイが自分のルールについて教えてくれた日、彼女に誓ったというか、決意したというか、約束したというのか、「君の友達になる」という言葉を嘘にしたくないだけだった。それが可能なのか不可能なのか、ケイに訊いても、やっぱり答えは返って来ないけれど。当時の僕には、全てを知っている事くらいしか能がない少女が。無感情的で言葉を自制した少女が、ひどく寂しそうに見えてしまった。
ケイは、僕と同じ十七歳だけど、身長は百四十センチ位しかない。相当の細身で、比較物のない写真なんかで見るとモデルでもしていそうな頭身のバランスだが、隣で見ていると小学生にしか見えない。常に影が差しているような色素の薄い肌に、うっすらと赤茶の混じった黒髪。訊いても答えてくれないからわからないけれど、肩甲骨の辺りまで伸びた毛先は、それ以上長くなることも短くなることもなく、忠実に手入れをしている事が伺える。あまり身だしなみとかに関心がありそうにも見えないけれど、まさか髪が伸びない体質とかでもあるまい。あまり彼女を神格視してはいけない。彼女は、とてつもないだけで、ちゃんと人間なのだから。「ケイ、君は人間だよ」と話しかければ「知ってる」と返してくれるさ。そんなこと、試さなくてもわかる。わかるし、僕だけは、彼女が人間であることを疑いたくなかった。だから今日も、ただ楽しくおしゃべりするだけさ。瓢箪型の池をぼーっと見つめて、ケイは四個目のカボチャコロッケをちびちびと噛み始めた。
「そのコロッケ好きなの?」
「……」
いや、訊くまでもないか。
「でさ、直行がハイキング行こうぜとか言い出してな。今時ハイキングって、むしろハイキングって何だっけみたいな。現実でハイキングとか言ってる奴生まれて初めて見たわ。結構いろんな奴に声かけてたみたいなんだけどさ、当日誰も待ち合わせ場所に来なかったんだと。あいつ次の日教室来て何を言い出すかと思えば、独りでハイキングした思い出を語り出して、そもそも独りでしたのかよ、って。いじけて帰らないのが流石だよな。しかもなんか、その話がめっちゃ楽しそうなんだよ。弁当を川に全部落としたとか、山道で脚を滑らせて咄嗟に近くのもの掴んだら、お地蔵さんの頭もいじゃったとか、ヒッチハイクしてみたら乗ってたのがヤクザだったとか……」
一時間程。本当にどうでもいい様な、生産性のない話をし続けた頃だった。だんだんとケイのコロッケを食べるペースも落ちてきて、目の前の池には、昼間は姿を見ない水鳥が、何種類かどこかから飛んできて小魚を狩っていた。へえ、あんなでかい鳥、東東京にもいるんだ。普段と違う公園のを見るのも、なかなかいいものじゃないか。なんて思っていると、珍しくスマホに電話の着信があった。
「あ、ちょっと電話でるな」
「うん」
「はいもしもし」
「筧。ちょっと聞いてくれよ」
「なんだ直行、僕は今ケイと楽しくおしゃべりしてるところなんだけど」
「はぁ。それ楽しいのおまえだけだろ」
「んなことねーよ。ケイだってずっとおいしそうにしてるよ」
「おいしそう?」
「いやなんでもない」
「そんなことよりさ、ちょっと聞いてくれって。なんかさ、二美がさらわれちゃってさ、人質に取られて、俺どっかにつれていかれてんの。ケイちゃんいるならちょうどいいし、何とかしてくれね」
「は、何いってんの」
また、直行が意味不明な事を言い出した。クラスメイトの二美がさらわれた? そんで自分もどこかに連れてかれてるって。どうしてお前電話なんてしてこれるんだよ。
「だからさぁ」「おいてえめぇ、ほんとに電話してやがんのか」「女ぶっ殺すぞ」「おとなしくしやがれ」「ごるぁ」
……電話口から何かが聞こえてきた。何それ、さくら?
と思っていたら、通話が切れた。気になるから折り返す。しかし、今度はいくらコールしても、のんきでアホな男の声には繋がらなかった。なんか、マジっぽいなぁ。直行、アホすぎて、いろんなところでよくわからない恨まれ方とかしてそうだしなぁ。
「ねえケイ、直行と二美が危ないらしいんだ」
「そう」
これがただの悪戯ならそれに越したことはないし、直行を軽く殴り倒してお終いなんだけど。
「アホな奴らなんだけどさ、あいつら友達なんだよ」
「知ってる」
僕が行ったところで何かできるかはわからないし、ほぼ確実に役立たずだと思うけど。だからといって、ハイキングと違って放って置くわけにもいかない。
「だから、ちょっと助けてくるわ。ごめんな帰り送ってやれなくて」
と言っても、さてどうしよう。手掛かりがない。しかし、ここに立ち往生していても仕方ないし。というか、ベンチに座っているから立ち往生すらしていないけれど。やはりこのままでは座りが悪いので、兎に角、動き出さないとな。と、ベンチから立ち上がると同時に座り下げられた。隣を見る。どうもケイに服を引っ張られたらしい。なんだろう、多分八個目くらいのコロッケを頬張りながら、薄い目でそっと僕を見ていた。
「私も行く」
私も行く? 僕に着いてくるって事か? 確かに、ケイの知識は役に立つし……まあ教えてくれないけど。でも一緒に居てくれればそりゃあ、心強いけど、でも。
「いや、危ないよ」
「知らなかった」
ん? それは危なくないって事? 確かに、直行ものんきに電話なんか掛けてきている暇もあったらしいし。何より、喧嘩みたいな事になるとしても、直行だったら十対一でも勝ちそうなくらい飄々《ひょうひょう》としているけれど。
「でもなぁ」
流石に、見た目小学生のケイを危ないところに連れて行くのは気が引けるというか、倫理的にどうなのかという感じが。
「大丈夫」
そう言うとケイは、裸足のまま近くに転がっていた漬け物石に使えそうなサイズの石ころのところまで歩いて行き。かかとを乗せると。
「私、強い」
そのまま石を踏み砕いた。
「知らなかった……」
「筧。教えてあげる」
そのセリフを聞くのは、実に三年振り。ケイがルールを教えてくれる直前に言った言葉だった。
池にひっそり集まっていた水鳥たちは、石が砕けた音に驚いてグワァグワァとか鳴いたり、バチャバチャと飛沫を飛ばしながら離れたところに飛んでいった。流石、夜中にしか現れないだけあって、ドイツもコイツも臆病だ。かく言う僕も、ケイにベンチに座らされてなかったら、驚いて尻餅を着いていたかもしれないが、運良く体裁は保てた。ふう。
「電話から聞こえた音。さっきのスーパーの近く」
「え、ホントに?」
「……」
じっと目を合わせても答えは返ってこない。いつの間にか手に下げたスーパーの買い物袋から、また一つコロッケを取り出し、一口。あれ? 僕の分の袋がなくなってるんだけど……。
「なあケイ。僕のコロッケを返せ」
「……」
もぐもぐ。
「こら無視すんな」
「知らない」
もぐもぐ。
なんか、今日でいきなりキャラ立ったなこいつ。今後、会う度にコロッケ食ってそうな気がする……。
「はぁ。まあいいか。行こう」
手を取ろうと思ったが、コロッケとスーパーの袋で両手が塞がっているので、ポンポンと、頭に手を置いて言ってみる。なんかちょうどいい位置にあるな、この頭。もぞもぞと動いて、手の下からケイが僕をのぞき込んだ。
「どこ」
「ん。ああ。なんかあのスーパーの近くにね、すごいものがあるんだよね。ホント嘘みたいのもの。マジで、思い出してビックリした。ある意味あれは歴史を感じるというか、ヤンキー漫画の文化遺産みたいなもんがさ、今ちょうどあるはずなんだよなぁ」
廃工場。
いやいやいやいや。
「そんな顔するなって。僕だって冗談かと思ったよ? でもしょうがないじゃん。スーパーの近くって言ったのケイじゃん」
廃工場の前まで連れてきたら、なんかすごく嫌そうな顔で見られた……違うかな、この顔は、僕を蔑んでる顔かな?
もう少し場所考えろと、僕だって言いたいけれど、どうやらここで間違いはなさそうだ。中から結構な人数の声が聞こえる。廃工場の中からヒトの声が聞こえてくるのは実に不合理だ。不合理な事態にはだいたい悪い行いが関わってる、でしょ。多分。両開きの鉄の扉には、錠の様なものは掛かっていなかった。試しに軽く取っ手を横に引いてみると、カシャと、鎖の様なものが擦れ合う音がして、扉は開かなかった。内側から開かないようにされているな。やはり、どう考えても中に誰かいる――まあ、なんか現在進行形で、うめき声とか叫びみたいなのが漏れ聞こえてきているし、ヒトが居るのは明白なんだけど。というか、荒事になっているとしか思えないのだけど。
「開ける?」
扉の前でどうしよっかなぁ、と考えていると、ケイがそう尋ねてきた。
「え、うん、まあ、開けた方がいいかな。でも、鍵掛かってるよ」
「知ってる」
ここをなんとかこじ開けたとしても、僕は喧嘩に自信なんてないのだけど、ケイが加勢してくれるとも限らないし。頼めばしてくれるかな。すぐにかなえられる希望ならいいんだけど。でも内側から鎖かなんかで閉じられているっぽい、この超アナログなロックをどうやって解除するんだろう。それこそケイの知識があれば、先端技術を使った電子錠なんかの解錠はできるかもしれないけれど。この場合もう知識でどうなるものとも思えない。もぐもぐとコロッケを口に仕舞い込み。スーパーの袋を僕に預けると、扉に近づいた。ちょっと様子を見て、すぐに左右の取っ手を掴んだ……ん? そしてそのまま無理矢理両側へ扉を引く。ガジャン、と鎖が大きな音を立てた。廃工場の中が、本来あるべき静けさになる。ガジャン……ガジャン……ガジャン……。ケイは、何度も扉を無理矢理引っ張り続けた。
「って。ごくせんかよ」
「もんもぐごもぐほあんまんぐもおううう、ごほっ」
「咽せるならちゃんと飲み込んでから話しなさい」
おそらく今、ケイは「単純なパワーの方が簡単に解決する事もある」みたいなニュアンスの事を言いたかったのだと、雰囲気から察せるが。なるほど、さっき公園で見せつけられたパワーを思い出せば、納得のいく行動だ。しかし、それは強者の理論であって、普通は無理だぜ。
「え、筧。それにケイちゃんも。何してるの……」
ほらケイ、僕と同じように極めて普通なクラスメイトの二美も、ごくせんのヤンクミよろしく、鎖の掛かった鉄扉をガジャンガジャンしている姿を見て唖然としちゃってるよ。
「って、二美――なんでここにいんの?」
「なんでって、私はそこのスーパーに買い物に来た帰りだけど」
みれば。ジャージ姿に、後ろで髪をまとめた部屋着スタイルの二美の手には、僕が持たされているケイの(僕が買った)コロッケが入った袋と同じ印刷がされた袋があった。
「ちょっと待ってよ。それはおかしい。だって二美は今、この中に居るはずだろ」
「いや、私はここに居るんだから、そん中に居るはずないじゃん」
言われてみれば、どうやっても覆しようもないほどその通りだ。裏面の無いコインみたいに完璧な理論だ。じゃあ、さっきの直行からの電話はやっぱり悪戯だったのか? と疑問を口にする前に、ケイが扉引き開けた。バギンッジャラジャラジャジャジャジャジャ……と鎖が引き擦られながら鉄扉が左右に開いていく。そして、僕は、ケイの頭越しに、三十人近い生服姿の男達の真ん中に突っ立っている直行と目があった。
「遅かったな」
どうやら悪戯と言うわけでもなさそうだが。
「どうなってんのこれ?」
と僕は三人の顔を見回す。
「……」
ケイは答えない。
「私は何も知らないわよ、卵買いに来ただけなんだから」
家庭的だな。
「いや、俺は悪くないぜ、騙されたんだ。こいつらに」
直行の周りには、三十人近い男達が倒れていた。
んん。わからん、まてまて、一回整理したい。章を変えよう。だがその前に一つだけ。
「ケイ。なぜ不満そうなんだ?」
「……」
見せ場を取られた主人公のような顔をして、やっぱりケイは答えない。
直行はいつものようにぺらぺらぺらぺらと、聞いてもいない内にあることないこと語り出した。
「いや、俺もついさっきそこのスーパーに寄ってさ、今日揚げ物の日だからあのカボチャコロッケでも買っていこうかなと思ってたらなんか、他の種類はぜんぜん残ってるのにカボチャコロッケだけ一つもなくてさ、別のを買ってくのも負けたみたいで気にくわないからそのままなにも買わないで店出たんだよ――で家帰ろうとして、こことは反対方向にしばらく歩いてたらこの男達に囲まれて『おまえの知り合いの女を預かってる、おとなしくついてこい』とかいうから、もしかして二美のことかって訊いたら、そうだ、そうそう二美だよ、ってゆうから、じゃあしょうがないなってついってたんだけど、なんか、こいつらまたスーパーの方に向かって、同じ道逆戻りさせられてムカつくから、警察に電話しちゃうぞって言いながら筧に電話したりしてすぐにここに到着して、したらよ、なんと二美がいないんだよ、ああこれはもしかして騙されたなぁ、と思ってたらぞろぞろたくさんサンドバッグが出てきて、ちょうどいいからぶっ飛ばしてたらお前らが鎖引きちぎって登場したんだけど、って筧、お前が持ってるのカボチャコロッケじゃねえかよ、よくも買い占めやがったな、一つ寄越せ」
直行が伸ばした手を、バチンとケイがはたき落とした。
「私の」
僕の手から奪い取って両腕に抱く。直行は、ケイの意外な一面に面食らっている。僕は、ケイと友達になる宣言をして以来、しつこく付きまとっていたから、性格とかも徐々に理解できて来てはいるけど。直行や二美は、普段完全に無口無表情のケイに、感情的な行動をとることがあるとは思っていないのかもしれない。おかげで、直行の聞くに耐えない一人語りが終わってくれたのでよかったけれど。つまり結局は、直行がアホじゃなければ、僕たちは平和に公園でお喋りしていられたし、二美も卵を買って普通に帰るだけだったということか。いや……やっぱいいや。もう直行が三十人近い高校生の集団をサンドバッグと称して廃工場の床に沈めた事は気にしないことにしよう。ケイだって鎖を千切るくらいだし……脳ある鷹は爪を隠しているものだし――あれ、でも直行はアホだな。どうしよう、納得の着地点が見つからない。
「はぁ。帰りましょうか」
二美が言う。
「そうだな。ケイ、もう遅いし僕たちも帰ろう」
小さく頷き、僕と二美の後に続く。
「おいおい待てよ、俺も帰るって」
「あんたの家逆方向でしょ」
「寂しいこと言うなよぉ。俺も一緒に帰るっ」
「直行は一人でハイキングでも行ってればいいのよ」
「そうだ、ホントマジ、おまえら何で来なかったんだよ。二人くらいは絶対来てくれると思ってたのによおお」
賑やかな奴らだ。そして相変わらず、ハイキングがなんなのかよくわからない。なんなんだ、ハイキング。まさかバイキングと間違えてるわけじゃないだろうな。その方が納得いくのだが。
「というか、僕は誘われてなかったよな」
「えぇ……そうだっけ?」
「つーか私も誘われてなかったわ」
「は……そんなはずは」
あっれぇ、そんなはずは。と、フクロウの様に首を傾げる直行。すごいなそれ、どうやってんの。
「じゃあ、また行こうぜ。今週末、どうよ」
めげずにまた企画を立ち上げる直行。
「はあ、まあ私は別に忙しくないけど嫌よ」
「嫌なのかよっ。忙しくないならいこうぜぇ」
「そもそもハイキングってなんなのよ」
同感。今、これだけ娯楽があふれている時代にするような事なのか、ハイキング。お散歩のお洒落な言い方じゃないの?
「ふ。バカだな二美は」
「は、何よ」
バカな直行にバカにされて、渋柿にあたってしまったような目で睨みつけた。
「ハイキングは何なのか。俺たちはその答えを知るためにハイキングに行くのさ――って事で、土曜の朝八時に二美んち集合な」
「はぁ、だから行かないって言ってんでしょ」
「いや、お前はちゃんと集合場所に来るね」
「そりゃ、集合場所が私の家だからな」
二人がコントを繰り広げる後ろで、ちょんちょんと、僕のシャツが引っ張られた。
「ん、どうしたケイ」
「行く」
土曜日。
なんか遠くの公園まで連れてこられた。
なんとこの公園『ハイキングコース』なるものがあるのだなんだそれ。
やることと言えば、本当にただしゃべりながら歩くだけ。一番の事件と言えば、それはケイがこのお遊びに参加していることくらいで。あとは直行がスズメバチに追いかけられたり、当たり屋に絡まれたりと、実にいつもの光景だった。
しかし、ケイも変わったものだ、三年前なら、ルールに抵触しない会話でさえまともにしてくれなかったというのに。相変わらず無表情ではあるが、どこか満足気に今日もコロッケを食べている。もしかしたら、この変化が残り二つのルールを解き明かすヒントになっていたりするのだろうか。
例えば、僕がケイのように全てを知って生まれたとして。その知識を守るために、己にどんなルールを課すことができるだろうか。
質問に無反応。
お願いと希望。
知識の有無。
?????。
?????。
いまわかっている三つだけでも、僕は守り通す自信なんてない。そこまで徹底して感情を殺して、ルールに全て従って生きる事なんてできる自信はないよ。質問には答えたり答えたくなかったりするし。お願いは相手によってはきいてあげたいし。新しい事を知ったら、話を掘り下げたい。そんな自分の感情を一生殺して生きる覚悟が、物心ついた頃のケイにできただろうか。質問しても、きっと答えは無反応なんだろうな。でも僕なら――同じ人間として意見すると、僕なら無理だ。きっと逃げ道を作ってしまう。そうだな、五番目のルール辺りに『ルールは守らなくてもいい』とか、そんなルールを作って隠しておくかもしれない。
ケイはそんなダサいことしてないのだろうけれど。まあ、ゆっくり付き合っていこう。今は、なんとなくこうして一緒に遊べるだけでいい。いつかちゃんと友達になれる日まで。気楽に語りかけていこう。
「ケイ。楽しいか?」
「……」
やっぱり、ケイは答えない。それが彼女のルールだから。
「……………………うん」