09
ロレーナが爽やかな笑顔で無視を決め込むので、拗ねたり騒いだりすることを諦めたナディアは、ふと思い出したように気になっていたことを訊いた。
「なんでロレーナはあんなに怒ってたの?」
ナディアは事情を訊かれるだけ訊かれて、自分はほとんどなにも聞かされていなかったのだ。唯一聞かされたのは、自分が何者かに襲われたということだけだろう。まあ、話題を反らしてしまったのはナディア自身なのだが。
「ああ、それはナディアちゃんが襲われたからだよ」
ナディアの質問に、ロレーナが答える前にスメールチが答えてしまう。ロレーナが何かを言う前にスメールチは「あとは」と続けた。
「ナディアちゃんを襲った犯人が、シャンテシャルムの印象を悪くするような奴、だからかな」
「それはぁ……だって、クリムちゃんがやったことを、全否定しているみたいですからー……」
「僕からしてみれば、お姉さんじゃなくてブランテ君の功績だと思うけどね。ただ、そこに腹を立てるのは同感だよ。これでまた、全部が元に戻ったら、ブランテ君とお姉さんは犬死にだ」
スメールチの声は何時もよりかなり低く、冷たさを感じさせるものだった。それはスメールチが怒りを感じていることを意味する。表情は相変わらず動かないが、それ以外の部分は中々表情豊かな男である。
そんな二人の会話に、戸惑っている人物が二人いた。一人はビアンコ。これは当然だ。彼女がここで話についてこれていたら、それはとてもおかしな話になる。もう一人は、事情を知っているはずの人物。ナディアだった。ナディアは二人の話している事実を初めて知ったような顔をしている。ブランテのことならまだしも、クリムのことは目の前で起こった事実だというのに。
「……何て顔をしてるんだい、ナディアちゃん。そんなに驚くような話だったかな?」
まだ怒りが抜けきれていない声でスメールチがそう訪ねると、ナディアは震える声で呟くように答えた。
「……あたし、その話、知らない」
一瞬空気が固まった。スメールチとロレーナは、ナディアが何を言っているのか、その意味が本気で分からなくなる。二人は何度も頭の中でナディアの言葉を繰り返し、ようやく飲み込むことができると「はあ!?」とすっとんきょうな声をあげた。
「なんでですか!? ナディアちゃん、あの場にいたじゃないですか! そのとき私たち、喧嘩までしたのに!」
「そうだよ。あんなことが無かったら、ブランテ君は分からないけど、お姉さんは生きてたのに」
捲し立てるように言う二人。ナディアはその二人の言葉を聞きつつ、頭痛をおさえるように頭を抱える。そして「分かんない! 分かんないよ!!」と叫んだ。目には涙すら浮かべている。
「分かんない! ……全部、分かんないよ……! ロレーナと喧嘩したのも、よく考えたらクリムちゃんが死んじゃった理由も、それどころか、クリムちゃんがいた頃も全部……、全部、分かんない……ッ」
叫ぶように言って、ナディアは頭をおさえて呻く。
「……なんでかな、昨日まで、わかってたはずなのに……。ちゃんと理由があって、クリムちゃんと仲直りしたいって思ってた筈なのに…………あたし、クリムちゃんに何をしちゃったんだろう……どうして、こんなに、苦しいの……! なんで昨日まで知ってたこと全部、分かんないの……!?」
ボロボロと涙をこぼし、自分を責めるようにナディアは訴える。昨日まであったはずの記憶がすっぽり抜けている。謎の恐怖感がナディアを襲っていた。
そんなナディアに三人は何も声を掛けることができず、ただ黙る。重い沈黙が流れ始めていた。
沈黙を最初に破ったのはロレーナだった。思い付いたことをポツリと呟く。
「……忘却術……」
ロレーナは、『人間』として生きている頃も、なるべく自分のこと、魔術のことは知っておこうと本などで知識をつけていた。いざというとき、自分の力を使えるように備えていたのだ。そしてその努力は、自分の正体を明かしたときは勿論、ネロが骨折したときにも活用されていた。ロレーナが包帯代わりに巻いた髪を結ぶ白いリボン。あれには、ロレーナにも扱える治癒術などの魔術がたっぷりと含まれていた。だからネロの骨折の治りが早かったのだが、彼はその事実を知らない。
そうやって得た知識のなかに、忘却術があったのをロレーナは思い出した。
忘却術。その名の通り、忘れさせる術。まだ正体を明かす決心がついていないときにバレてしまったら、そのときは忘却術で忘れさせることができたらいいなと考えていた。しかし、その術はロレーナには高度すぎた。それは、普段から魔術を扱っているような者でも難しいものだったのだ。したがって、忘却術を使える者は極わずかだ。しかし、その極わずかのなかに忘却術を得意とするものがいたら、ピンポイントで記憶を消すことも可能だろう。
「血を奪い、意識を奪い、記憶を奪う……か。犯人の目的は一体何だろうね?」
「それは、わかりません。でも目星はつきそうな気がしてきました」
ハッキリとした口調でロレーナは言う。
「私、犯人探しをします」
どう考えても、いかなる理由があろうとも、ロレーナには犯人を許せる気がしなかった。クリムに関する記憶を消すという行為は、ロレーナのなかで二年前の事実を抹消するということとイコールで繋げられていた。それが本当なのだとしたら、シャンテシャルムの印象を悪くするどころの話ではなくなる。また戦争が起こってしまう。
「それはいい決心だと思うよ。応援する……っていうか、協力する」
ロレーナの声に答えたのは知らない声だった。声の主を探すと、四人の前に見知らぬ少年がいた。