16
チェルヴィ家を飛び出したロレーナは宛もなくフラフラとさ迷うように歩いていた。とにかく一人になって冷静になりたい。しかし飛ぶ気分ではなかった。ルーナのような人外を見るような目を向けられるのはごめんだ。あれを多くの人から向けられていたクリムのことを思うと心が痛む。
「……あれ? ロレーナさん……ですよね? 一体、どこに」
一人になりたかった筈なのに歩いた先にはビアンコがいた。ロレーナはどうしようかと悩む。どうやったら一人になれるのか。今誰かと一緒にいてもいいのか。しかし、ここで何も言わずにビアンコから逃げてしまってもいいのか。そんなことをしても結局家で顔を会わせるではないか。
なんて悩んでいると、心配そうな表情でビアンコが更に話しかけてきた。これでロレーナは益々逃げられなくなる。そう思っていたのだが、
「私でよかったら、なんでもお聞きしますよ」
ロレーナに微笑みながら言うビアンコの言葉に甘えてしまい、気が付くとロレーナの口からボロボロと今まで起こったことが零れていった。
「……いつかは消えてしまう記憶のためにそこまで怒れるなんて……大切な人だったんですね」
ロレーナの話を聞いたビアンコの第一声はそれだった。決して他人事のようには言わないその口振りには、何か裏があるような気がした。例えば、ビアンコ自信が経験した記憶にまつわる過去とか。
「いつか戻ってくる……なんて、無責任なことは言えませんから、私はここでひとつ提案をしようと思います」
ビアンコはピンと人差し指を立てて言った。「記憶をなくしてしまった方に、思い出話をしてあげたらどうでしょう」
「……思い出、話」
「はい。取り戻し方が分からないのなら、もう一度作ればいいんです。誰か一人でも覚えていて、誰かに聞かせることができたなら、その人の記憶は消えません。……そりゃあ、おぼろ気なものにはなってしまうと思いますけど」
ビアンコはそう言って苦笑した。ロレーナがまだ黙っているのを見ると、ビアンコは「それに」と更に続けた。
「今、ロレーナさんが私に話をしてくださったおかげで、私はその二人を知ることができました。これで、もしロレーナさんが忘れてしまっても、私が教えることが出来ますよね?」
自分よりも少し身長の高いロレーナの顔を覗きこむようにしてビアンコは言った。その仕草の可愛らしさに、ロレーナは思わず笑ってしまう。不器用な人だ、とも思った。ただ、ロレーナを励まそうと一生懸命なのはよく伝わった。
「ありがとう、ビアンコさん」
だからロレーナはお礼を言った。とても不器用な励まし方だけれど、思いは伝わったと本人に伝わるように。
「あ! ロレーナ見つけた!」
どこからか聞き慣れたよく通る声が聞こえた。声のした方を見ると、オレンジ色の人物がパタパタと走りこちらに向かってきているのが分かった。ナディアだ。ロレーナを探していたらしい。
「どうしたんですかー、ナディアちゃん?」
「うん……あのね」
大分息がきれているため、それだけ言うのも苦しそうだった。脇腹に手を当てて何度か深呼吸をしながら、空いてる方の手をロレーナたちの方に向けて、ナディアは無言で待ったをかける。
ナディアの呼吸が大分落ち着いたところで、ロレーナはもう一度「どうしたんですかー?」と訊いた。
「ルーナさんが心配して、ロレーナを探してたんだよ。それで、ロレーナを見つけたら『ごめん』って言っといてほしいって。吃驚しちゃっただけだからって。不意討ちじゃなければ、余裕で返り討ちに出来るからって」
最後の一言が余計な気もしたが、ルーナらしいと笑うしかなかった。ルーナはロレーナが人外だろうとなんだろうと、怖くなんかないと、関係ないと言いたかった訳なのだが、騎士時代の実力もありロレーナを討伐するという宣言にも受け取れてしまった。笑えない笑える話である。
「ロレーナは何でそんなに怒っちゃったの?」
「ジェラルド君が襲われてぇ、クリムちゃんだけじゃなくブランテ君の記憶まで消されちゃったから、ですかねー」
でも今はビアンコさんのお陰で冷静になりましたよ。とロレーナは言った。ビアンコはそれを聞いて、それは良かったと微笑む。この数日間で、随分ビアンコも笑うようになった。
そんな和やかな空気を、ナディアは再び怖し、凍りつかせてしまうことになる。
「……ブランテ、君」
口元に軽く手を当てて、言い慣れなさそうにその名前を呟くナディア。
そう、ナディアもクリムのみならず、ブランテの記憶すらも奪われてしまっていたのだ。