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198X年 夏――
「君たち、暇?」
海水浴に来ていた高杉俊と小松洋一は振り返った。
(でかい!)
俊は思わず胸のうちでつぶやいていた。相撲取りのようなおばさんが仁王立ちして、二人を睨みつけている。見るからに安物そうな、ぺらぺらの袖無しワンピース。ワンピースから突き出た太い腕。ワンピースの上からもわかる三段腹。首に巻いた小汚いタオル。
おばさんは俊と目が合うとにこりともせず近づいてきた。
「ね、暇かい? 暇なら手伝ってくれないかい?」
「あの……」
二人が怪訝そうな顔をすると、おばさんは続けた。
「バイトの子が急病で来られなくなっちまってさ。店を手伝っておくれでないかい? そこの海の家をやってるんだ」
おばさんはみすぼらしい小屋を指さした。看板に「フィッシュボーン」とあった。
「僕ら遊びに来てるんで、バイトする気はないんです」俊が答えた。
「そう言わずに今日だけでいいんだけどね。時給千円だすからさ。午後から混みだすんだよ。私と娘だけじゃあ、手が足りなくてさ」
「仕事は何をするんですか?」洋一が聞いた。
「ウェイターだよ。焼きそばやかき氷を運んでくれればいいのさ」
その時、若い女の声が聞こえた。よく通るきれいな声だ。
「お母さん、早く戻ってきて。お客さんよ!」
「あいよ、今行くよ」
おばさんは海の家に向って咆哮すると、二人に向き直った。
「手伝ってくれる気になったら、来ておくれ、ね」
おばさんはゆさゆさと体を揺らしながら店に戻って行った。
「俺はいやだぞ! せっかく遊びにきたのにバイトなんて! 洋一、なんだって仕事の内容なんか聞いたんだ」
俊は不機嫌な声を上げた。
「いや、その、娘が気になって」
「ナンパな奴だな。あのおばさんの娘だぞ。母親が横綱なら、娘だって関取に決まってるじゃないか!」
「それは偏見だぜ。きれいな声だったじゃないか、もしかしたら可愛い娘かもしれない」
洋一は鼻の下を伸ばした。
「ああ、もう勝手にしろ!」
「そう言うなよ! ちょっと、どんな娘か見て来るからさ!」
洋一は、パラソルにひっかけておいたアロハシャツを羽織り、海の家に向かって歩きだした。俊は、仕方ないなあと思いながら、そのまま御座の上にどさりと横になった。
俊と洋一は桐野新生大学、略して桐新大の学生だ。二人は同じ経済学部で、何度か顔を合わせる内に友人になった。俊は、男のくせに髪を長く伸ばし女の子に気軽に声をかける洋一を軽い奴だと思っていたが、洋一が剣道の有段者だと聞いて一目置くようになった。剣道の有段者には一朝一夕でなれる物ではない。ただの軽い奴ではないのだろうと俊は洋一を見直した。
洋一の方は、女の子に声をかけると必ず俊に辿り着いた。整った顔立ち、切れ長の目、濃く長い睫毛、すらりと伸びた足、バランスのいい身体。女の子達は遠くから頬を染めて俊を見ていた。俊の側にいれば女は自然に寄って来る筈と洋一は思った。しかし、俊を目当てに寄って来た女の子達は洋一に目もくれなかった。洋一はがっかりしたが、俊とつるむのは面白かったのでそのまま友人になった。
俊はどちらかというと口数の少ない男だったが、洋一が気軽に話しかけると結構のって来た。洋一がジョークを言うと、俊はそれは面白くないと言って笑った。
俊は、運転の疲れが出たのか、御座に横になるや、うとうとと眠ってしまった。
眠りにつく直前、俊は今朝、父親と交わした会話が頭をよぎった。夏休みだからドライブに行ってくるという俊に父親は、「そうか……、小遣いは足りてるか?」と言った。「親父、俺、二十歳過ぎてるから」と苦笑混じりに俊が言うと、父親はまじまじと母親によく似た美貌の息子を見た。
「図体だけは大きくなったな……、いつ帰るんだ?」
「日帰りのつもりだけど、行き先決めずに行くから、明日になるかもしれない」
「……どこに行くんだ?」
「房総半島の方」
「……モデルの佐伯君と行くのか?」
俊はもう一度苦笑いをした。
「佐伯さんとは別れた。洋一と行くんだ」
「昨日もおまえに手紙が来てたな? 女の子からだろう。遊ぶのもいいが、よそ様のお嬢さんを傷つけるんじゃないぞ」
俊は頭をかいた。父親が何を言おうとしているのかよくわかった。
「親父……、安心して、俺、不純異性交遊はしてないからさ」
父親は俊のものいいにちらっと眉をしかめ、ため息をつきながら言った。
「ああ、そうしてくれ」
父親の啓介は知っていた。俊が決して同じ大学の女子学生と付き合わない事を。俊の相手がいつもとびきりの美人であり、年上だという事を。男と女の恋愛ゲームを知っていて、いつか別れる事を、綺麗に別れる事を互いに了解している、そういう女。俊の相手はいつもそういう女だった。
父親の啓介はほーっとため息をついた。成績もよく、スポーツにしろ何にしろ優秀な息子が、一体何時になったら真面目な恋をするのだろうと啓介は俊の将来を心配した。やはり母親の行状のせいかと啓介は思ったが口には出さなかった。
「……気をつけて行ってこい。スピードを出し過ぎるなよ」
俊は出て行く父親の背中に向って心の中で言った。
(さっさと再婚すりゃあいいのに……)
母親が他所に男を作って出奔したのは、俊が三つの時だった。
俊は祖母と田舎で暮らした。最初は母親のいない淋しさに泣いたらしい。祖母は俊に「母親は死んだ」と嘘をついた。父親は東京で忙しく働いた。父親は高度経済成長で沸く日本を背負う企業戦士だった。繊維関係の商社を経営している。しかし、正月になると父親の啓介は必ず帰省し祖母と俊を喜ばせた。俊は運動会や授業参観が嫌いだった。友達がそれぞれ母親や父親と楽しそうにしているのに、自分には祖母しかいない。自分がよそと違うのだと強く意識した。それが嫌だった。
或る日、クラスのいじめっ子から、「お前の母親は男と逃げたんだってな」とからかわれた。違うと叫んでいじめっ子に飛びかかった。取っ組み合いになった。結局、いじめっ子が嘘だと認めて喧嘩は終わった。しかし、家に帰って祖母に問いつめると、「死んだも同じだ」と険しい顔をして言われた。ほどなくして、祖母が死に、俊は父親に引き取られた。東京に出て来て以来、俊は学校の友達と距離をおいた。母親が生きており、家族を捨てて出て行ったという事実は子供の心にどこか影を作った。俊は父親が朝早くから夜遅くまで仕事をする姿を見て、父親に甘えてはいけないと思った。俊は親から自立する道を子供の頃から選んでいた。なんでも一人でやった。父の家には通いの家政婦が来たが、家政婦の作る料理は祖母の味とは違った。俊は自分で料理を作るようになった。父親に出し巻玉子を作って出すと、父親が感激した。
「お袋が作ったみたいだ」
父親の啓介が、目頭を押さえた。
以来二人は、親子というより共に生活をする同志として暮らしている。
俊は気配を感じて目を覚ました。起き上がると、洋一が戻って来ていた。後ろに女の子を連れている。長いストレートヘアーをお下げにした女の子。大きなトンボ眼鏡、横縞の赤のTシャツ、ブルージーンズの短パン。ほっそりした娘で、関取には程遠かった。ただ、胸だけは、横綱の娘だと主張していた。
「俊、紹介するよ、相沢京子さん。海の家の娘さん」
「こんにちは。相沢京子です。私、経済学部の二年なんです」
容姿に似合わない綺麗な声だ。
「おれ達の後輩だってさ」
「高杉です。宜しく」
「俊、悪いな、俺、ちょっと手伝ってくる。これ、差し入れ」
洋一はプラスチックの皿に入った焼きそばとラムネを出した。
「洋一、おまえは?」
「俺、京子ちゃんと一緒に食べたから。おまえ、よく寝てたからさ。じゃあな、また、後でな」
洋一と京子は店に戻っていった。俊は仕方なく一人で焼きそばを食べた。
(くそー、せっかく遊びに来たのに)
俊は焼きそばを食べ終ると、煙草を取り出して一服した。ぼんやりと浜を見る。青い空。真夏の太陽がちりちりと照りつけている。砂が太陽の熱と光を反射して痛いくらいだ。海は濃く青く波頭の白さが眩しい。潮の香り。砕ける波の音、風の音。人々の笑い声。
俊は一人で泳ぐ事にした。シュノーケルのセットを身につけ海に入る。俊は長くのびやかな手足を思う存分動かして浜から沖に向って泳いだ。海中を覗くと小魚が泳いでいるのが見えた。体の横に赤い斑点のある魚がいる。俊はその魚を追いかけて泳いだ。
(ゲームだ。どこまでついていけるか)
そんな事を思いながら泳いでいると人とぶつかった。あわてて、立ち泳ぎに切り替え、ゴーグルをはずして謝る。
「すいません。気がつかなくて」
「あら、こちらこそ」
褐色の肌をしたエキゾチックな女だった。柔らかくウェーブした髪を肩あたりでカットしている。波の下にオレンジ色のビキニが見えた。俊は思わず目をそらした。ひもがほどけている。
「えーっと、その……、水着が」
「あら、ごめんなさい。」
女は波の下の胸を抑えた。俊に背を向けると急いでビキニの前のひもを結ぶ。それから、もう大丈夫よと俊に声をかけて泳いでいった。俊が振り返ると、女は連れの男達の方に泳いで行く途中だった。俊は、大きく息を吸うと浜辺に向かって泳いだ。パラソルの下に戻り、ぼーっと浜辺を眺める。先ほどのオレンジ色のビキニを着た女が、連れの男達とビーチボールで遊んでいるのが見えた。
女がボールを受け止める度に、ビキニのひもがほどけるんじゃないかと見ている俊の方が心配になった。だが、女は全く気にしていない風で、無邪気に遊んでいる。見るともなしに見ていたが、気がつくと、浜辺にいる男達の大半が彼女を見ているのがわかった。やがて、女は疲れたのだろう、自分達のパラソルの下のビーチチェアに座った。男達の一人が、早速、飲み物を届けている。よく見ると、女の横にもう一人、別の女がいる。ビキニの女の連れらしい。こちらは黒のワンピース水着、黒のサングラス、腰にはやはり黒のパラオを巻き付け、麦わら帽子を被っている。長くまっすぐな黒髪が帽子の下に見えた。女はパラソルの下、ビーチチェアに座り雑誌を眺めている。二人の女の周りには四人ほどの男達が侍っていた。女の機嫌をとろうとしているのがみえみえだ。
俊が女達の様子を面白そうに眺めていると、昼の書き入れ時が過ぎたのだろう、洋一が戻ってきた。洋一は、俊の視線を追って、二人の女を見やった。
「俊、あの女達……なんだかえらく目立つな」
「ああ……」俊は上の空で相づちを打った。
俊と洋一が見ていると、男の一人が黒の水着を着た女に話しかけた。と、その女はどこかおどおどとした様子で軽く頭を下げて、立ち上がった。俊は女の立ち姿を見て、スタイルの良さに目を見張った。オレンジの水着を着た女が彼女に話しかけたが、黒の水着を着た女は軽く手を振ると歩き去った。洋一が言った。
「どうした? 気になるのか? あの美人、ナンパするつもりか?」
「え! 違う、違う。面白いなと思ってさ。あのオレンジ色の水着を着た女より、黒の水着を着た女の方が美人だ。だが、まわりの男達は、オレンジの水着を着た女の方に夢中だ」
「そりゃあ、そうだろ。オレンジの女の方がセクシーだし」
「ああ、確かに、黒の水着を着た女よりセクシーだ。だが、もの凄い美人じゃない。顔は十人並みだ。ボディも普通より太めかな。十人並みの女が男を夢中にさせている。それも四人だ。何故だと思う?」
相変わらず理屈っぽい奴だなと洋一は心の中で思った。
「さあな、俺にはわからん」
「やれるかもしれないって期待さ」
「おい、それは言い過ぎじゃないか、何故そう思う」
「さっき、誘われた。泳いでいる時にぶつかったんだ。その時ビキニのひもがほどけていた。波の下に胸が見えそうだった……。本当にいるんだな。ああいう、無意識に男を誘う女」
洋一が色めき立った。
「で、おまえ、お誘いを受けるのか? 俺に遠慮しなくていいぞ」
「何を言ってる。あんな女に引っ掛かってみろ。人生台無しにされるぞ」
「余裕だな、俺なら受けるぞ」
「余裕? じゃなくて選んでるだけさ」
「そうだろうよ、よりどりみどりだからな、おまえは。さ、もう一泳ぎしようぜ!」
「何をいまさら! 女の子をナンパしてたくせに!」
「俺はおまえみたいにもてないからな、声をかけまくるのさ」
軽口をいう洋一の後を追って俊も海に飛び込んだ。
その日、二人は相沢京子から花火が上がると聞いて、京子の家が営む釣り宿に一泊する事にした。