ずるいのは誰?
義妹は、いつも同じ言葉を使った。
「ずるい」
最初に言われたのは、母が亡くなった翌年だった。
父が再婚し、家に新しい母と、一つ年下の少女がやってきた。
わたくしはまだ母の死を飲み込めずにいた頃だ。
義妹は最初こそ人見知りを装っていたが、数日もしないうちに日課のように言い始めた。
「ずるい」
まるで呪文だった。
義妹にとって「ずるい」は魔法の言葉だった。そう言えば、欲しいものが手に入る。ただ、それだけだった。
「お姉様のお部屋、広くてずるい」
まだ母の香りが少しだけ残る部屋だった。窓辺に置かれた椅子。刺繍枠。母が選んだカーテン。
わたくしは少しだけ唇を噛んで、それでもうなずいた。
「では、こちらを使う?」
義妹の顔がぱっと明るくなる。
「いいの!?」
後ろで義母が目を細めた。
「まあ、優しいこと」
父も微笑む。
「姉なのだから、譲ってやりなさい」
そうしてわたくしは、小さな客室へ移された。
次はドレスだった。
「お姉様ばかり綺麗なドレス、ずるい」
母が仕立ててくれた春色のドレス。裾に小さな花の刺繍がある、お気に入り。
「妹なのだから仲良く分けなさい」
父が言った。
義母は困ったように笑う。
「この子、今まで苦労してきたの。あなたはたくさん持っていたでしょう?」
わたくしはうなずいた。
譲った。
一着、また一着。
鏡の前で嬉しそうに回る義妹を見ながら、なんとなく、自分が薄くなっていくような気がした。
けれど我慢した。持っているから、譲るべきなのだと思った。
やがて婚約者もそうなった。
「お姉様ばかり素敵な人がいてずるい」
冗談だと思った。
けれど父と義母は真顔だった。
「彼も若い。気が変わることもある」
「可哀想でしょう? 妹にはなにもないのよ」
婚約者は、最初こそ困惑していた。だが父に呼ばれ、義妹に甘く笑われ、義母に「お願い」と涙ぐまれ……気がつけば、義妹の隣に立っていた。
「すまない」
その一言だけだった。
(何が、すまないのだろう)
(譲れと言われて、本当に譲っただけなのに)
わたくしには最後までわからなかった。
それでも父は満足そうに言った。
「平等になったな」
義母もうなずく。
「あなたはたくさん持っていたもの。譲れるでしょう?」
義妹は嬉しそうに笑った。
「ずるくなくなった!」
わたくしは笑えなかった。でも泣きもしなかった。もう、感覚が薄くなっていた。
そして、とうとう譲るものがなくなった頃。
義妹が言った。
「今度はお友達ちょうだい」
昼食の席だった。銀食器が陽に光る。
父が紅茶を飲みながら言う。
「うん、それがいいな」
義母もうなずいた。
「あなたには友達がいるでしょう? この子にはいないの」
義妹が唇を尖らせる。
「ずるいもん」
そのとき、なにかが切れた。静かに、本当に静かに。
わたくしは紅茶のカップを置いた。
「では」
三人がこちらを見る。
わたくしは、できるだけ穏やかな声で言った。
「わたくしも、ずるいと言ってよろしいですか?」
父が眉をひそめる。
「なんだ急に」
「お義母様」
義母を見る。
「あなたにはお母様が生きていて、ずるいです」
この間、この人のお母様が遊びに来て一週間泊まって行った。がはははとうるさい人だった。
義母の顔から笑みが消える。
「……え?」
今度は義妹を見る。
「あなたもです」
「わ、わたし?」
「わたくしには、お母様がいません」
静かな声だった。だからこそ響いた。
「あなたのお母様は生きている。ずるい。ずるいです」
義妹が目を見開く。
父の顔が引きつった。
「平等にしましょう」
わたくしは微笑んだ。
「持っている人は、持っていない人に差し上げるのでしょう?」
しん、と静まり返る。
「わたくし、お母様が欲しいのです。平等にしましょう」
わたくしは微笑んだ。誰も否定できない理屈だった。
「持っている人は、持っていない人に差し上げるのでしょう?」
義母が青ざめる。
「な、何を言って……」
「平等にしてください」
父を見る。父のほうの祖母も生きている。誕生日にプレゼントを贈ってくる。
「ずるいのです。わたくしだけ、お母様がいないなんて。三人ともお母様がいます」
誰も、なにも言えなかった。だって。今まで彼らがわたくしから全てを奪うために使ってきた理屈を、そのまま鏡のように返しただけなのだから。
沈黙が食卓に満ちていた。
その中で、わたくしはふっと、胸の奥から湧き上がるおかしさを堪えきれなくなった。
「あら。ごめんなさい、うっかりしておりましたわ」
口元にそっと手を当て、わたくしは笑った。凍りついた食卓に、その声だけが妙に明るく落ちた。
「忘れておりました。わたくしのお母様は亡くなって、今は天国で美しい天使となってらっしゃるのです。生前、とても信心深い方でしたから。きっと今も毎日、神様のすぐお側で、親しくお話ししてらっしゃいますわ」
それは、この場を収めるための言葉ではなかった。ただ、この歪んだ家族のルールに、決定的な最後の一手を投じるためだけの言葉。
義妹の肩が、びくりと跳ねた。
「天使……?」
その瞳が、奇妙な熱を帯びて爛々と輝きだした。彼女の頭の中にあるのは、常に一つだけ。姉が持っていて、自分が持っていないものへの執着。それがたとえ、死者の世界のものであろうとも。
「ずるい……」
ぽつり、と義妹が呟いた。
義母がハッとして「何を言って」と遮ろうとしたが、もう遅かった。
「ずるい、ずるい! お姉様ばかり、天使のお母様がいるなんて、ずるい!」
義妹は椅子を蹴立てて立ち上がった。銀食器がガタガタと音を立てた。
「ずるいもん! わたしのお母様はただの人間なのに! お姉様だけずるい! ずるい!」
「落ち着きなさい!」
父が声を荒らげたが、一度火のついた「ずるい」は、もう誰にも止められない。その言葉だけで全てが思い通りになってきた、彼女の生涯を賭けた呪文だったから。
義妹は、青ざめて固まっている実の母親を、らんらんとした目で見据えた。
「お母様も、今すぐ天使になって!」
「……え?」
義母の声が、恐怖で引きつる。
義妹は母親の肩を掴み、狂ったように揺さぶった。
「わたしも天使のお母様が欲しい! 今すぐ天使になってよ! お姉様と平等にして! ずるい、ずるい、ずるい――!!」
叫び声が食堂に響き渡る。
我が子の手の平に怯える義母と、ただ呆然とそれを見つめることしかできない父。
わたくしはただ、静かにそれを見ていた。
冷え切った紅茶は、もうすっかり、美しい琥珀色に澄んでいた。




