Prologue
俺が聞きたかったのは、そんな優しい言葉じゃない。
画面の向こうで、彼女は今日も完璧に微笑んでいた。
「みんな、お疲れ様。今日も最後まで聞いてくれて、ありがとう」
透明感のある歌声。
その声。
スピーカーから流れてくる。
画面に映る少女——Vdle「カノン」は、白いドレスに身を包み、ふわりとした髪を揺らしながら、視聴者に向かって優しく手を振っていた。
キラキラと輝く瞳。
完璧な笑顔。
まるで天使のような……佇まい。
配信画面の右側には、リアルタイムで流れるコメント欄。
『カノンちゃん今日もかわいい!』
『歌声に癒される〜』
『天使すぎる!』
褒め言葉ばかりが流れていく中、俺の指は震えていた。
匿名のアカウント。
誰にもバレない安全地帯。
そこから俺は、今日もまた毒を吐こうとしていた。
『完璧すぎて、気持ち悪い』
エンターキーを押す前に、俺の手が止まった。
「みんなの笑顔が見えるだけで、わたしは幸せだよ。辛いことがあっても、きっと大丈夫。幸せはきっと来るよ。みんな幸せになれるはずだから」
カノンの言葉が、俺の心臓を鋭く突き刺した。
幸せはきっと来る——?
みんな幸せになれる——?
ふざけるな。
俺の指が、勢いよくキーボードを叩いた。
『綺麗事ばっかり言ってんじゃねーよ。現実を知らないガキが偉そうに』
『そんな薄っぺらい言葉で救われるとでも思ってるのか?』
『完璧な偶像気取りもいい加減にしろ』
エンターキーを連打する。
画面の右側に、俺の匿名コメントが流れていく。
他にも似たようなアンチコメントがちらほらと混じっている。俺だけじゃない。俺と同じように、彼女の完璧さに苛立ちを覚える人間がいる。
『消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ』
指は止まることなく、俺の闇を吐露する。
でも。
なんで、俺はこんなことをしているんだろう。
なんで、彼女の言葉にこんなにも腹が立つんだろう。
——三か月前、両親の離婚が正式に成立した。
理由は単純だった。
父の浮気、母の育児ノイローゼ、そして俺への愛情の欠如。
「この子さえ……いなければ、わたしは」という母の言葉を、俺は偶然聞いてしまった。
無垢そのものだった妹とは切り離された。
親権がどうなったのか、どう話がついたのか、中学生の俺にはわからない。
親戚の家を転々とし、最終的に母方の祖父母の家に預けられた俺は、毎日が灰色だった。
学校では友達もいない。
家では祖父母に気を遣う。
居場所なんて、どこにもない。
そんな時に出会ったのが、Vdle「カノン」だった。
最初は何となく見ていただけだった。
でも、彼女の完璧すぎる笑顔、完璧すぎる歌声、完璧すぎる言葉の全てが、俺の心を深く抉っていく。
幸せすぎて、見ていて鬱になる。
なんで、俺はこんな人生なんだ。
なんで、彼女は、そんなに幸せそうなんだ。
なんで、彼女は、そんなに簡単に「幸せになれる」なんて言えるんだ。
俺の現実は違う。
幸せなんて来ない。
両親は俺を愛さなかった。
友達もいない。
居場所もない。
だから……やがて、俺は、彼女を憎んだ。
いや——憎んでいたかった。
画面の向こうで、カノンが少しだけ悲しそうな表情を浮かべた。
コメント欄に流れるアンチの言葉を見たのだろうか。
「……そうだね。わたしの言葉が、全ての人に届くわけじゃないのかもしれない」
彼女の声が、わずかに震えた。
「でも……それでも、わたしは信じていたいんです。言葉には、人を救う力があるって」
その瞬間、俺の中で何かが引っかかった。
遠い記憶。
幼い頃、近所に住んでいた女の子。
俺が泣いていた時、優しく背中をさすりながら言ってくれた言葉。
『大丈夫だよ。辛いことがあっても、きっと幸せは来るよ。みんな幸せになれるはずだから』
あの子の名前は、なんだったか。
転校してしまって、もう会えない。
でも、あの言葉だけは、ずっと俺の心に残っていて——
気のせいだろう。
でも、カノンの言葉は、あの時の言葉とまったく同じで——
俺は慌てて配信を閉じた。
そして気づいた時には、もう手遅れだった。
翌日、ネットは炎上していた。
アンチコメが炎上の原因なのだろう。
「カノンの偽善的発言」「所詮は金目当て」「ファンを馬鹿にしている」「明かされる真実、カノンについて」——匿名掲示板「ナナシー」には、カノンを叩く書き込みが溢れかえっていた。
その中には、俺の書き込みも含まれていた。
消えろ。
スクリーンショットされ、拡散され、燃料として使われていた。
一週間後、カノンは活動休止を発表した。
「配信をお休みさせていただきます。ご心配をおかけして、申し訳ありません」
画面の向こうで、彼女は泣いていた。
俺が憧れていた、あの完璧な笑顔は、もうそこにはなかった。
そして結局、彼女は戻ってこなかった。
俺は、取り返しのつかないことをしてしまったのかもしれない。
言葉には、人を救う力がある——彼女の信じていたものを、俺は踏みにじってしまった。
その夜、何故か涙を流していた。
泣いた、なんて表現はできない。
俺には泣く資格なんてないんだ。
後悔と罪悪感が、俺の心を押し潰していく。
俺は最低だ。
最低のアンチだ。




