31:一難去って
ふわとろな卵を乗せたオムライス、から揚げ、マグロとサーモンのカルパッチョ、グラタン、わかめスープ。
野菜が少ないけど、今日は特別。栄養バランスも予算も度外視だ。
「今日の夕食すげえ豪華じゃね? おれの好きなのばっか」
午後七時過ぎ。
今日も今日とてご飯を食べにやって来た拓馬は大皿に乗ったから揚げを摘み、嬉しそうにそう言った。
その右頬はガーゼで覆われている。
大げさだと本人は言ったけれど、外すと青あざが痛々しく、とても直視できない。
少なくとも目立たなくなるまで、私の前では外さないで欲しいとお願いした。
「喜んでくれたなら嬉しいよ。今日は本当に大変だったと思うし……」
目を伏せて、言い淀む。
親友のために身体を張ってまで尽くしてくれた拓馬に何と言えばいいんだろう。
ありがとう? ごめんなさい?
「……ありがとうとごめんなさいの気持ちを込めて」
迷った末、私は両方の言葉を口にした。
「なんでお前が謝るんだよ」
カルパッチョを飲み下してから、拓馬が言う。
さらに、言い終わった後も彼は新たなサーモンを箸で摘まみ、食べた。
拓馬は酸っぱい味付けが好きだ。
これだけ喜んでくれると作り甲斐がある。
「だって。私が拓馬に彼氏役なんて頼んだからこんなことになったんだし……責任感じずにはいられないよ」
私は拓馬の右頬のガーゼを見た。
私があんなことを言い出さなければ拓馬が殴られることはなかったかもしれないと思うと死にたくなる。
大福にも「大福なら拓馬が怪我をする前になんとかできなかった」と聞いて怒らせてしまった。
彼はクロゼットのケースの中で拗ねている。
後でもう一度ちゃんと謝って、仲直りしよう。
「何言ってんだか。危険を承知で井田を挑発したのはおれだ。悠理が後悔することなんて何もない」
「でも……」
なおも言いかけた私を、強い眼差しで拓馬は強制的に黙らせた。
それからまた、ご飯を食べ始める。
私は押し黙り、箸を進めるしかなくなってしまった。
「このドレッシングって市販のやつ?」
不意をつくタイミングで、拓馬が薄く切った玉ねぎとサーモンをまとめて箸で摘まみ、聞いてきた。
「え。ううん。手作り。オリーブオイルとレモン汁と醤油と、酢と塩こしょうも少し入れて……」
「ふうん。市販のやつより美味いな」
拓馬は微笑んだ。
「…………」
じんわりと目の奥が熱くなる。
ずるい、と思う。
拓馬はいつもそうやって、大したことじゃないって笑い飛ばして、私の苦悩を魔法のように和らげてしまう。
大したことなのに。
何も悪いことをしていないのに殴られて、痛かったはずなのに。
「……なんであそこまでしてくれたの」
私は目線を落とし、左手に持ったわかめスープを見つめながら尋ねた。
いま拓馬の顔を見たら泣いてしまいそうだった。
いくらクラスメイトのためで、アパートの隣人から頼まれたからといって、あの献身はそうそうできることじゃない。
「決まってんじゃん。そうさせたのはお前だよ」
テレビもつけていないので部屋は静かだ。
大通りで車が走る音が聞こえる。誰かの話し声も。笑い声も。
けれど、もちろん、私の耳にもっともよく聞こえるのは、真正面にいる拓馬の声だ。
彼の低く透き通った、前世から大好きだった声だ。
前世の私は日々の仕事で心身ともに疲れ切っていたから、イヤホンをつけてオートで会話を流しながら、そのまま眠ってしまうこともよくあった。
子守歌のように彼の声を聞いていた。
「私?」
「ああ」
私のせいだと糾弾するには、拓馬の眼差しはあまりにもまっすぐで、敵意も悪意も見当たらなかった。
「親友がストーカーされて困ってるって知ったとき、真っ先におれに『彼氏のフリをしてくれ』って頼んだだろ。隣に幸太もいたのにさ。幸太のことなんか目に入ってないって感じで――頼れるのはおれしかいないって感じで」
全くその通りだ。
あのとき私は彼以外の人に頼ることなど思いつきもしなかった。
誰よりも先に、拓馬の顔が思い浮かんだ。
「真剣そのものの目で見つめられて、安心して任せられるのはおれしかいない、なんて言われたらさ。張り切るだろ。やっぱ。できる限りのことはしてやりたいと思うじゃん」
左頬を人差し指で掻いて、拓馬は目を逸らした。
「お前に頼りにされるのは、まあ……悪い気はしねえし」
「………………」
「だからって調子乗っていっつも頼ろうとか思うなよ? あくまで今回は特別だからな。おれだってこれ以上痛い思いをするのは勘弁だ。身の周りのことは極力自分で解決しろよ」
照れ隠しのように、拓馬は早口でまくし立てた。
「……自分じゃ解決できないときは頼っていいの?」
天井を見上げ、溢れそうになった涙を堪え、笑みを作る。
「仕方ないからな」
拓馬が頷いて、グラタンにスプーンを入れる。
少しの沈黙。
「……今日はデザートに桃もあるよ」
顔を伏せたまま言う。
「マジか。やった」
「ふふ」
私は指で目を拭い、幸福な気持ちで温かいオムライスを口に運んだ。




