第三話 「また新たな世界に出会う事じゃろう」
俺は気を取り直し、改めてスマホから救急車を呼ぶことにした。
流石に、この状況で怪しい名刺の番号にかけるなんて、俺も動揺して頭がおかしくなったか。
その時、一迅の風が吹き抜けた。
俺の前髪を揺らす風の方を見ると、すぐそばにドラゴンズのキャップが見えた。
「えっ……?」
俺が驚く声を上げる間もなく、銀色の髪の少女は昨日と同じようにユニクロのTシャツ姿で、俺の横にしゃがみ込んだ。
そのまま、女性の傷を観察する。
「ほう……スティグマータじゃのう……。おぬし、電話はよせ。どうせ魔法じゃなければ治せんよ」
少女は俺を見上げて、電話を指さして言った。
その言葉に、俺は何も考えずにつぶやいた。
「……助けられないか?」
「ふうむ、このまま放置していては、確実にこの女の命の危険に関わるのう……よし、ちょっとまっておれ」
そう言うと少女はわずかに目をきらめかせながら、膝を立て体勢を整えた。
そのまま、目を瞑り何か囁き始める。
『レアフ・アクオージュ・ウージカ……”汝に神の噂話を“』
少女が呪文を唱えた。
その瞬間、彼女の周りを帯状の光る物体が回転しながら身を取り囲んだ。
まるでそれは、土星の輪のように少女の体を巻くと、淡い青色の光を放った。
そして、少女は手のひらを握るようにして筒を形づくり、そこから息を女性の傷口に向かって吹き込んだ。
すると、少女を纏っていた光の輪が消え去り、少女の手からは銀色の光が放射された。
その光が女性の傷口を包み込むと、紫煙は消え去り、みるみるうちに怪我が治っていった。
まさに、動画を逆再生したかのように傷が消え去っていく様を見て、俺は素直に魔法だと実感した。
「さて、こんなもんじゃろ」
満足そうに呟く少女に、俺は何事か声をかけようとしたとき、俺の視界の端に2人の人間が出現した。
急な出来事に、俺は声をあげそうになるが、咄嗟に瞬間移動の魔法か何かだろうと察してしまう。
俺は新たな登場人物に身構える。しかし、現れた2人の人間のうち、1人の人物に見覚えがあった。
「クロア様、魔法を使用したのですか」
「おう、遅かったのう。エム。見ての通りじゃ」
至極冷静な態度はそのままに、声音だけが少し上擦っているのは、俺に例の名刺を渡してきた謎の美人、月差氏だった。
一方、クロアと呼ばれたTシャツ姿の銀髪少女は、腕を組み胸を逸らして得意げに言い返す。
「クローティア。分かっているのかい? これは重大な契約違反だ……君は『日本にいる間、魔法の使用を一切禁ずる』という契約を交わしている。忘れたとは言わないだろう?」
月差氏ともうひとり現れたのは、俺と同年代ぐらいの男性だった。
明るい茶色の髪に、ブルーの色付きのグラスをつけた、暗い赤色のスーツを身に纏った男は、もったいつけるようなキザな口調で語りかける。
「ほう……じゃがのう、契約には『ただし』書きがあったはずじゃぞ」
「というと?」
銀髪少女はニヤニヤ笑いのまま、男に向かって指をさす。
対する男は少し眉の端を上げて、続きを促す。
「『ただし、屋敷の内部。または、生命の危機に瀕した場合に限り、使用可能とする』とな」
「……ふむ、つまり君は、この状況が生命の危機だというつもりかな?」
「そうじゃ、この女のな」
少女が指を刺したのは、地面に倒れ、今は静かな寝息を立てている女性だった。
詳しい事情は俺には到底わかるはずもないが、男は不愉快そうに眉を顰めたのちに、諦めたように息を吐きだした。
「そうかい、分かったよ。この件は本部で預かり、審議したのちに結論を出すよ。それまで保留としよう」
「ほう。まあ、きさまらの好きにするがよい。じゃが、わしが居なければこの女の命が危うく、きさまらには救う事すらできなかったという事実は変わらないのじゃ」
挑発するように言う少女に対し、男は鋭い眼光で睨みつけた。
その一触即発の状況に淡々と水を差したのは月差氏だった。
「嵯峨野さん。被害者女性の処置が必要です。負傷は治癒されていますので……記憶の改ざんのほうですが」
その単語に、ギョッとする俺をよそに、嵯峨野と呼ばれたキザな男性は事務的に答える。
「その辺は管理班に任せよう。外傷が無くなってしまったので、事故に遭うとかではなく、夢か何かと思ってもらった方がいいかな。朝起きて自宅のベッドの中だったら、疲れてそのまま寝落ちしたとでも解釈するだろう。『帰宅途中に体調が悪くなった』程度の記憶を差し込めば問題ないよ」
慣れた口調で答える嵯峨野は、そして俺の存在にようやく気が付いたかのように視線をこちらに向けた。
「さて、もう一人の一般市民の方には、申し訳ないけれど大幅に記憶を消してもらわなければいけないね」
嵯峨野は、どうせ無くなる記憶だからとばかりに、俺の事を配慮もせず処分する粗大ごみでも見るような目で告げた。
俺は思わず、生唾を飲み込む。
まさか、ぶん殴って記憶を飛ばしたりはしないだろうが。
「待つのじゃ」
それを遮ったのは、またしても銀髪少女、クロアだった。
「なんだい? まだ何か問題でも?」
「その男はこちら側の人間じゃ。関係者じゃよ」
「この男が? 君は誰なんだい?」
そこで初めて、嵯峨野は俺を人間として認識したのか、俺に向かって口を開いた。
しかし、俺が名乗る前に月差氏が言った。
「彼は牧島久五郎様です。今朝、例の件の依頼を行いました」
例の件とは、俺が無碍に断った謎の依頼の事だろう。
若干気まずい思いで、俺は頷いた。
「なるほど……だがその件については拒否されたと報告を受けたが」
訝しむ嵯峨野を前に、再び口を開いたのはクロアだった。
「いいや、その男は依頼を引き受けたのじゃ。そうじゃろう?」
「い、いや……というか話がまったく分からないんだが」
「じゃったら、なぜその名刺の番号に電話をしたのじゃ?」
「あ……」
俺は、咄嗟に名刺の番号に電話を掛けた事を思い出す。
もしかして、この電話を掛けた事でこの少女は……。
「ふむ。まあいいさ。記憶の改ざんは別に何時でも実行できるんだ。クローティアがそういうのなら、そういう事なんだろう? ……僕はこの女性を管理班に引き渡し、本部に戻って報告書を作成するよ。月差はクローティアを護送するんだ」
そういうと、嵯峨野は女性を肩に担ぐと、再び瞬きをする間に消え去った。
まったく、夢でも見ているんじゃないかと頭が混乱する間に、今度は月差氏が告げた。
「本日はもう遅いので、詳しいお話は日を改めて行う方がよろしいかと存じます。差し支えなければ、明日、この場所に所定の時間にいらしていただけますか」
差し出されたのは、住所が記されたメモ紙のようなものだった。
俺はそれを受け取り、今朝の喫茶店ではない場所である事を確認する。どうやら、ここから少し離れた住宅街の様だった。
「おぬしよ、もしもここで拒否する態度を続ければ、おぬしは記憶を改ざんされ何事もなく日常に戻るじゃろう……じゃが、その場所に訪れれば、また新たな世界に出会う事じゃろう」
「さあ、帰りましょう。クロア」
「うむ」
俺にそう言い残した二人組は、やがて夜道の闇に姿を消した。




