第十四話 「泡沫の夢」
「どうして……」
呆然とする俺の声に、横たわるその男はもう起き上がる気力もない様子で、寝そべったまま話始めた。
目を閉じたまま、まるで自分自身に語り掛けるように。
「……ほら、俺ってかっこいいじゃん? 学生の時からそうなんだぜ……クラスの中心で、プチ芸能人みたいな扱いでさ。俺をやっかむやつはいても、嫌悪するやつはいなかった」
「そのまま、大人になってさ。どこか、自分の中でモヤモヤすることがあったんだ。熱っぽくなりきれない、消化不良な感覚かな」
普段の彼は、生き生きと活発で、毎日を充実させているのだと勝手に思っていた。
彼自身が日常に抱いていた意外な感想に、俺は言葉を失う。
「ある時、俺は夜の帰宅途中に偶然目撃しちまったんだ。……汚い、まるで社会でマトモに生きていくことをあきらめたような男が、綺麗なOLに襲い掛かるのをな。寸前で俺が止めに入って、警察呼んで、そこでその場は何とかなった」
「だけど、その事件は俺の中に消えない尾を引いていた」
「俺も、あの怪物みたいな男のように、女に襲い掛かってみてえっていう、馬鹿みたいな衝動が憑りついて、俺の中で消えないんだ」
そこからの様子は、言葉にされなくても想像ができる。
社会で十分な立場をもって、将来が約束された男。
だけど胸の中で覚えてしまった衝動が抑えられなくなって。
夜な夜な怪物に変身しては、襲撃を繰り返す日々。
「……桐山、お前は魔法使いなのか?」
俺の問いに、苦笑して答える。
その顔は、かつての同僚そのままだった。
「バカかよ、そんなもんじゃない。ただ、この変身する力は買ったんだ」
「買った?」
「ああ。とある……街の……ぐ、んぐ……」
その言葉を続けようとした時、桐山の様子が急変した。
まるで、舌が口蓋に張り付いたかのようにうまく言葉が操れていない。
そのままでは、呼吸すらままならない。
「どうした!? 大丈夫か!? どうすれば、絵夢さん!?」
「はい、これは一種の魔法……! 条件が決まっており、後発的に発動するものです!」
「下がっていろ! 私が処置する!」
桐山の前に覆いかぶさったのは嵯峨野だった。
彼は何事かささやき、かつてのクロアのように体の周りを魔法の帯が回る。
彼は魔法を発動させるが、桐山の様子に変化はない。
「あ……くっ……あきしあ……。ありが……おわあせてくれて……」
喉に張り付いた舌は、彼の呼吸を止めた。
強力な魔法のようで、その場で解除できるものはいなかった。
一瞬のうちに、夜の街に静寂が戻る。
俺たちは、発するべき言葉を見つけることが出来なくて、そのまましばらくの間、呆然と立ち尽くしていた。
こうして、事件は唐突に終わりを迎えたのだった。
*
数日後、俺はすっかり慣れてしまった、クロアの屋敷への道を歩く。
無駄に何度も角を曲がる道中は、俺にいろいろな考え事をさせる時間をくれた。
その間に、少しずつ俺の気持ちも整理ができてきた。
桐山は、終わらせてくれたことに感謝を述べたと、俺は解釈している。
それは、尽きることのない欲望や、衝動がやがて他人を傷つけ始めたことへの罪悪感があったのだと俺は思う。
彼を救えなかったことは、俺の力不足でしかない。
もっと合理的な解決や、事件の本質を見抜くことはできただろう。
しかし、気を落とし続けることは桐山も望まないだろう。
俺にできることから、少しずつ考えていくしかない。
屋敷につくと、リビングルームは静まり返っていた。
あれから、クロアはめったに降りてこなくなった。
俺に気を遣っているのか。
しかし、今はそれもありがたい。
もう少しだけ、魔法について考える時間が俺には必要だった。
しばらくして、屋敷に訪問者があった。
嵯峨野と絵夢さんは、再びそろって訪れた。
「クローティアは?」
嵯峨野が相変わらず気障なスーツを身に纏い、無表情で俺に尋ねる。
「上ですよ。呼びますか」
「頼む」
決して俺の方を見ずに、用件だけ済ますと腕を組んで考え込むように視線を落としていた。
「……なんじゃ」
俺がクロアを引き連れリビングルームに戻る。
クロアは嵯峨野を忌まわしく睨みつけ、不機嫌そうに言った。
今日もまた、魔法使いのローブを身に纏っている。
「クローティア・フォン・シルヴァーゼ。今回の事件の概要は知っているね?」
嵯峨野が確認するように、一言一句をハッキリと発音した。
その傍らの絵夢さんは、虚空を見つめ何も言わない。
「今回の結果を受けて、日本魔法協会および英国元老院は決定を下した」
嵯峨野の言葉に、クロアはジッと黙って耳を傾けている。
「クローティア。君を英国に強制送還させ、『永久凍結』の魔法を施行する」
「……なんだって?」
俺の間抜けな声だけが、リビングに響いた。
その予想外すぎる言葉の意味を、俺は理解することを間違えたのかと本気で考えた。
事件は桐山の消滅で解決した。
クロアは俺に様々なヒントを与え、事件解決に協力していた。
その一部始終は、絵夢さんを始め、嵯峨野だって見ていたはずだ。
「元老院はクローティアを今回の事件の首謀者と断定した。日本で混乱を招き、国民に危害を加えたことを受けて、五感すべてと人体の活動を停止させる『永久凍結』の魔法を施し、君の魔力だけを百年間、魔力解析に活用することを禊として定めたのさ」
その言葉が、残酷すぎるほどの仕打ちであることは素人の俺でもわかる。
人の能力だけを搾り取り、クロア自身を永久に氷漬けにしてしまうつもりだ。
「馬鹿げている……。クロアが首謀者だと?」
犯人は桐山だった。
しかし、彼は元々魔法使いではない。
彼に魔法の力を与えた人物が、首謀者が、他に居るのは間違いないだろう。
「日本において、『変化』と『特化』を魔力を持たない一般人に施し、欲望を増幅させ月差をはじめ日本魔法協会の強者たちとまともにやりあえるほどの力を授けることなど、並大抵の魔法使いには成しえない」
嵯峨野は淡々と言葉を続ける。
そこに、疑念や間違いは存在しないと、自信を持っている様子だ。
しかし、だからと言ってクロアが犯人だと決めつける要素は無いと俺は思う。
「さらに、証拠はある」
彼の言葉は、俺の想定を覆した。
「君が先月解析した魔導書にある魔法……それが、『変化』だった」
クロアは、刑期を減らすために魔導書の解析を行っている。
彼女は週に何日かは自室に籠り、解析を行う。
その成果物は、日本魔法協会を通じて英国の禁術書庫に仕舞われているはずだ。
あの日、俺が『変化』の名を出した時の反応の違和感の意味が、ようやく理解できた。
それは、現世に蘇ったばかりの魔法だったからだ。
「君にしか行えない犯行として、元老院は決定を下したのさ。もちろん、異論があれば聞くよ」
嵯峨野は事務的な口調で、彼女の反論を待つ。
「……ふん、くだらぬ。何を言っても意味などなかろう」
一方のクロアは、なぜか一切の反抗的な態度も見せず、粛々と頷いた。
「いや、だめだろ! そこで認めたら……」
もう二度と、自由に歩くことさえできないじゃないか。
俺の憤りの声に、彼女は視線を逸らした。
「……よいのじゃ、もう、どうでもよいのじゃ」
クロアは、こちらを見向きもせずに応えた。
その声は至極平坦で、無機質にセリフを読み上げているようだった。
「元老院のクズジジイ共は所詮それが狙いなんじゃ。わしを都合の良い道具として幽閉出来ればなんでも良いのじゃろう」
「だからって、不公平極まりない決定だ」
俺はなぜか、クロア本人に対して食い下がっていた。
「元々、わしは本国での一件で罪を負った身じゃ。このまま刑期を全うしようが、それが今すぐになろうが、朽ち果てるのは一緒じゃ。……この地はわしにとってあてがわれた檻のようなものじゃろ。この地でわしのことを知る者も、まして立場を守ってくれる存在もない。わしにとって、ここで過ごした日々は一時の、泡沫の夢であったのじゃろう」
この屋敷の中で百年以上の時を過ごし、朽ち果てるか。
英国でその身を完全凍結されるか。
彼女にしてみれば、どちらも同義なのだろうか。
「じゃから、さらばじゃ」
そのまま、嵯峨野の元へ歩みを進める。
俺は、ここで別れると、一生クロアとは会えないだろう。
たかが数週間、仕事として彼女を監視していた身で、彼女がこれまでの人生で考えてきたことや今の決断に至るまでを知ったふうに言うのは勝手だ。
だが、俺は、俺の気持ちを告げることぐらいはできる。
もうこれ以上、俺の知人、友人を……失いたくはない。
何より、あの何でもない夏の夜の日の彼女の言葉。
まだやり残したことがあるはずだ。
「待ってくれ」
俺の言葉は、屋敷の中で虚しく響いた。
「どうしたんだい? 君には何も聞いていないよ」
嵯峨野は冷酷にも吐き捨てる。
そうだ、言われなくたってわかっている。
俺は本来ただの一般人で、しかも無職だった。
俺にはクロアの立場を守るほどの権力も、元老院とやらと戦う力もない。
あるのは、魔力ゼロの己の身一つだ。
「俺に、証明させてください。クロアの無実を」
「……どういうことだい? 君に何ができると言うんだ」
嵯峨野はめんどくさそうに言うが、俺は彼の前に歩み出た。
そうすれば、俺の存在を無視するのは難しいだろう。
「簡単ですよ。クロアの解読した『変化』の魔法を俺にかけるんです」
「……ほう?」
嵯峨野は挑戦的に唇を曲げる。
「もしも、クロアの魔法が本当に人の欲望を増幅させ怪物へと変身させるものだったとしたら、絵夢さん。この場で俺を抹殺してください」
「……牧島様、それは」
急な提案に、絵夢さんも躊躇する。
それでも俺は構わず続ける。
「ただし、俺が全くそんな怪物にならなかったら、クロアは首謀者じゃない。事件は全く別な方向に行きますよね。解読された魔導書がきっと魔法協会から漏洩でもして、改ざんされた挙句に悪用されたんです」
俺の言葉はもはや、ハッタリ以外の何物でもない。
クロアの魔法による『変化』と、桐山が使っていた『変化』の違いが本当に存在するのか、俺は知りもしない。
だけど、そうとでも言わなければ、手のひらからすべてがすり抜けて消えて行ってしまう気がしたからだ。
「おぬし……」
クロアはやっと、こちらを振り向いた。
その顔は年相応に幼く、そして驚きに満ち溢れていた。
「……そんなことをする必要性は無いと思うがね」
嵯峨野は腕を組み、俺を見下すように言った。
確かに、ろくな確認をすることもなくクロアの有罪を決めた連中は、そう言うだろう。
「これは……俺のただのエゴです。失いたくないんです、今の生活を、これからの人生を。……そして、クロアを」
俺の情けない告白は、屋敷の中で間延びして響いた。
声が上擦っている。
それは、『変化』の魔法への恐怖でも、絵夢さんに抹殺されるかもしれないことからでもない。
ただ、自分のわがままを告白するのが、どうしようもなく怖かったからだ。
俺は今の少し不思議で、でも怠惰で平和な生活に縋りつきたい。
みっともなく、失うことに恐怖している。
それをこの場で言うことが、なぜだか無性に怖かったんだ。
「私からも、お願いします。やはり、この決定には納得がいきません」
絵夢さんが意を決したように言った。
彼女の性格では、上層部に反抗することなど今まで一度も無かったのだろう。
嵯峨野も思わず驚き、眉を上げている。
「月差……君まで、この連中にほだされたとでも言うのかい? もしも、この男が怪物に変化し、それを君が仕留め損なった時は、月差。君も彼女と同等の処刑が行われることを覚悟の上かい」
「はい。達人に二言はありません」
その言葉に、俺は泣きそうなほど心強くなった。
もしかすれば彼女に俺の首が断ち切られる可能性など、微塵も感じさせないほどに。
「……クックック。よいじゃろう。おぬしら、冥土までわしに着いてこようとはのう。存外忠誠心とやらを持っておったようじゃのう」
それまでのやり取りを聞いて、ようやくクロアが普段らしい声を出した。
その顔は、妙にうれしそうに綻んでいる。
「よろしい。わしが今からこの男に『変化』を施す。……とくと見ておくのじゃ」
そういうと、クロアは俺に向きなおし、早口に何かを囁き始めた。
次の瞬間、彼女の体の周りを、魔力の渦が取り囲む。
そして、それは俺がこれまで見てきたものよりも遥かに濃く光を放ち、螺旋の渦を巻いていた。
「くっ……これほどなのか」
嵯峨野ですら目を覆い、その魔力の大きさに慄く。
唐突に始まった災害級の魔法儀式に、俺は驚く暇も存在しなかった。
屋敷全体が暴風に飲み込まれ、クロアの体から解き放たれる暴力的な魔力が雷と共に渦を巻く。
それほどまでに、強力な魔法なのかと思った瞬間、クロアと目が合った。
悪戯に輝く少女の金色の目は、可憐に澄んでいた。
「行くぞ……『変化』」
次の瞬間、俺の視界は真白に包まれた。




