前編 SIDE:シモーヌ
あの村で私たちは、いつも一緒にいた。心の距離だって、今よりずっと近かった。だけど、王都に出てきてから……その距離は少しずつ、しかし確実に遠ざかっていった。
全ては、仕方がないことだった。
これは、私が彼と離れるために、心の準備をしていく物語。
* * *
私たちふたりが王都の平民街外れの小さな家で暮らし始めてから、もう七年になる。
セリニャック村に生まれ育った私、そしてテオ。私たちは、生涯あの村で共に暮らすのだと思っていた。だけどあの日、私たちの運命は大きく変わった。
テオは十三歳ごろから、家計を助けるために軍の雑務に雇われるようになった。日々顔を真っ黒にして働いていた彼は、私の目にとても眩しく写った。
きっと、大変なことばかりだっただろう。だが、彼は、どんなに疲れていても、私のことを第一に気にかけてくれた。
「……驚いたな。こんな小さな村に、こんな逸材がいたとは」
彼が十五歳になったある日、王都から巡回に来た騎士様が、テオに目を留めた。雑用の合間にしていた訓練に、光るものを見出したのだという。金の縁取りの外套に、つややかな剣。美しく整えられた口髭が印象的な方だった。
「王都で騎士団に入り、正式な訓練を受けるべきだ。君さえよければ、私が推薦しよう」
そう言われたテオは、喜び勇んで私の元に駆け寄ってきた。
「やった……!これで、王都の騎士団に入れる!
そうしたら、これまで苦労をかけた母さんにも、たっぷり仕送りできる。少しは、楽させてあげられるよ」
そう無邪気に喜ぶ彼を見ていると、何だかもう遠くに行ってしまったようで、胸が疼いた。いや、このまま手をこまねいていれば、本当に遠くに行ってしまう。
(そんなの、いや)
だから、私は勇気を振り絞った。
「……私も行く。だから、一緒に王都で暮らしましょう?あなたと離れたくないの。私は私で働きに出て、家計を支えるわ」
彼は、困惑したような顔をした。
「いや、それは嬉しいけどさ。でも、引越しのお金なんてないだろう?俺の分は、国が援助してくれるって話だけど——」
彼の迷いを断ち切るように、私はきっぱりと告げる。
「あなたには言ってなかったんだけど……実はお父さんの遺したお金を貯めていたの。いつか役立つ日がくると思って」
彼はそれを聞くと驚いた顔をしたものの「わかった」とうなずいた。
こうして私は、王都での暮らしを選んだ。彼の傍にいられるように。
* * *
とんとん拍子に仕事が決まってほっとした。絶対に、テオの負担にはなりたくなかったから。
王立学園の食堂での調理の仕事は、私に向いていると思う。料理の腕には多少自信があったし、学生たちはとても可愛らしかった。
時には「シモーヌさん、今日も綺麗だね」なんて軽口を飛ばしてくる男子生徒もいた。
平民育ちの私はお貴族様とほとんど接したことがなかったから、そのあまりの美しさにも驚いた。……特に、王都に出て五年が経つ頃入学してきた、王太子のジュリアンさまは輝かんばかりの美貌だった。
後にできた恋人のルナマリーさまとお二人でいる様子は、まるで絵巻物から出てきたかのように美しく、思わず見惚れてしまったものだった。
「ねえシモーヌ、今日のスープ、美味しかったわ。うちのシェフにも作らせたいのだけど、どのような味付けをしているの?」
そう話しかけてくるのは、ノエミ・ド・シェリエ伯爵令嬢。高位貴族のご令嬢ながら、気さくなお方で身分問わずいろんな生徒と交流している。レシピを尋ねられることもしばしばで、そのたび丁寧に答えていた。
快活さと柔らかさを併せ持つ彼女は、まるで年の離れた女友達のように思えた。……もちろん、そんなことを口に出すのは恐れ多かったけれど。
テオと毎晩食卓を囲みながら、学園でのあれこれを語ってきかせた。
最初の頃は
「心配していたけど、馴染めているみたいでよかった」
と笑ってくれていた彼は、だんだんと言葉少なになっていった。
以前は喜んで受け取ってくれていた朝のサンドイッチも、
「同僚と食堂に行くからいらない」
と言われることが多くなった。
(もう、彼には私の知らない世界があるのね……)
* * *
あの騎士様は、見る目があったということなのだろう。テオはとんとん拍子に出世を重ねていった。
昔は、彼にお金がかかると思って、自分には使わないようにしていたけど……気づけば、私よりよっぽど稼いでくるようになった。誇らしい気持ちの中に、わずかに寂しい気持ちが入り混じる。
彼の絵姿が売り出され、女性たちが黄色い声をあげているのを知った時には驚いた。私にはそんなこと、一言も言っていなかったのに。
(あなたたちは知らないでしょうけど、昔から格好良かったのよ)
少年らしさを残していた体つきは大きく、逞しく。あどけなさの残っていた顔はキリッと引き締まり、最近は確かに男振りが増している。燃えるような赤毛に黒い瞳も、情熱的だと評判だそうだ。
私の……密かな自慢だったつもりが、こんなに人気だったなんて。決して、欲目だけではなかったのね。
だけど、彼の名声が高まるにつれ、私との時間はさらに少なくなっていった。
帰りは遅くなることが増え、食事を共にする機会は減っていった。会話も減り、顔を合わせる時間すら少なくなってきた。
昔は、必ず手を繋いで寝ていたのに。今じゃ、寝室に入ろうとするだけで怒られる。
仕方がないんだろうけど、ちょっと寂しい。
そして、彼が二十二歳になり、騎士団の第一隊隊長に任命された頃——私は驚きの知らせを聞くことになったのだった。
* * *
休日に我が家を突然訪ねてきた、ヴァンサンと名乗る青年は、テオの同僚だった。確か一度……酔っ払ったテオを家まで送ってきてくれたことがあったはずだ。二、三言、言葉を交わしただけだが、真っ直ぐに人の目を見つめてくる人だと印象に残っていた。
私は、彼を招き入れてお茶を勧めた。
「突然、どうなさったのですか?テオは今日は出かけていますから、お相手できないのですが……」
彼は、黒髪の朴訥な印象のある青年だった。テオよりは少し年上だろうか。何か思い詰めたような顔をし、膝の上で拳を握りしめているのがわかった。
「……急にお邪魔して申し訳ありません。ですが、どうしてもあなたのお耳に入れたいことが……」
妙なことを言う。彼がテオではなく私に伝えたいこととはなんなのだろう。その目には迷いと憂いが見て取れた。
「あいつは……テオは……今日、お見合いをしているのです。あなたには、隠して向かったのでしょう……!」
切羽詰まった言葉だった。抑えていた何かが、決壊したようだった。はじめは何を言っているのか理解できなかった。彼の言葉は私の想像を超えていた。
「……テオが、お見合い?」
(うそよ、そんなの……きいていないわ)
私はあまりにも驚き、ヴァンサンさんに詰め寄ってしまった。彼がまさか、そんな大事なことを教えてもくれないなんて、どういうことなの?
「あいつは、変わってしまったんです……昔は、こんなやつじゃなかったのに」
ヴァンサンさんは、苦しそうな顔をした。
「女王陛下からの紹介だそうで。この婚姻を受ければ、伯爵家と縁付き、貴族になることができるのです。だから……きっと」
(そんな……伯爵家との婚姻ですって……?)
食堂で、時折垣間見たあの煌びやかな世界。私には別の世界の出来事だと思っていた。
「知りませんでした。そんなことになっているとは……」
ヴァンサンさんは、悲しげな瞳をこちらに向ける。
「あなたは、それでいいのですか?」
「……いいも何も……テオがそのご令嬢と婚姻することを選ぶのならば……私は、祝福するだけです」
努めて冷静を装い、なんとか言葉を絞り出した。
ヴァンサンさんはこうべを垂れ、何事かつぶやいた。
「私なら……あなたのような美しい人を悲しませたりなど、決してしないのに……」
だけど、動揺していた私には、彼が何を言ったのかよく聞こえなかった。