火雨が降るのに
影に香りがあるなら、きっと実体と同じなのだろう。
椅子に腰掛け脚を組む男を逆光に晒す窓は、その向こうにリングスエートの家並みを覗わせ、どうにも彼の影であるように見えた。
市長は香辛料の利いた干し肉みたいな辛い匂いがするから、きっとこの街もそうなのだろうなんて、思ったりして。
「それで、オリオットの様子はどうだった?」
「どうもこうも、雪が一向に止まないわよ。あいつ、まだ離れてないのかも」
「はぁ……?」
朱髪の娘がリボンタイを緩めながら露骨に顔を顰める。
「ドラゴンは南より出でて北に飛び去ったと聞いている。寒波による異常気象は氷竜の特性で恣意的なものではないし、庁舎を焼いた以外は都市に対する攻撃行動も確認されていない」
「その一撃であたしらの古巣は木っ端微塵でしたけどねっ」
「ブレスにしてもそうだ。避難が開始されてからかなり間を措いていた。案外、竜は自らの冷気で環境が変化することを厭い、人払いを済ませたうえで熱源を据えてゆこうとしたのかもしれないよ」
「つまりなんですか?あいつは不幸な事故でオリオットを滅ぼしただけで、他意はなかったんだから許してやれってことですか。あたしの故郷には今、この戦闘狂でないと調査に送り込めないくらい、野獣が蔓延ってるんですよ!?」
「……いやあの」
ビシッと指差された私は小さく手を挙げて訂正しようとしたが、ノマは止まらなかった。
「一刻も早く討伐すべきです!竜の中には山みたいな奴もいるそうですが、あれはそこまでデカくなかった。市長の伝手で捜索してもらえませんかっ。居所さえ掴んでくれれば、後はこいつがなんとかするんで!」
投げやりだな。
そして私かよ。
「なんで私、ノマの中でそこまでマッドなイメージなの?」
「毎日毎日ドン引きするほどゴブリンの耳持ってくる冒険者の事務担当を押し付けられてたあたしに言ってんの?」
「……」
そういえばオリオットにいた頃、狩場に獲物が見当たらないって相談してるパーティを、いくつか目にしたような気もする。
話を逸らすことにした。
「あの火で気流を操ったり、或いは温度低下性のある物資を散布している可能性は?」
「有り得るな。その場合はノマ君の言う通り、処置せざるを得ないだろう。リングスエートとしても近場でスタンピードが起こる事態は避けたい」
市長は先までと表情を変えず、薄笑いを浮かべたままである。
スタンスが曖昧で、揚げ足を取られないよう気を遣った話術だ。
「ユリア君。可哀そうなものを見る目は止めてくれないか。オジサンには些か堪える」
「そんな、あんたまだそんな年じゃないからっ!」
執務机に乗り出し、頬を紅潮させて若い市長に迫る少女の耳には、藍色の吊り玉が灯りに煌めいていた。
なるほど、そういうことか。
「じゃあ、今後も変わったことがあったら報告するわね。用があればいつもの酒場に言伝してくれればいいから」
手をひらと振って踵を返し、扉を僅かに引き開ける。
「内々に調査隊を派遣する手筈を付けてある。もしものことがあっても君ひとりを向かわせたりはしないが、心構えはしておいてくれ」
「ちょっとエディク、話はまだ終わってな──」
ガチャンッ……。
*
私がパーティを組まない理由を、足手まといは必要ない的なものだと解釈する受付嬢は多く、或いはソロの冒険者など往々にしてそうなのかもしれないが、ともかくどこか淡泊な扱いを受ける機会も少なくない。
実のところ拘りがある訳ではなく、単に仲間を集う勇気がないだけだったりするのだが、というか私がそうなのだが、理解してくれる人は稀である。
「いや、パーティ街に残してきてそれ言う?」
黒髪の少年がチョコバーを齧りながら横目を向けてきた。
「だってあの子達、狩猟をはじめてまだ二年しか経ってないし」
「それなりだね。因みに僕は七年くらいだけど、君は?」
「さあね。っていうかそれ」
「ん?……分かった、半分あげるから肩ギリギリしないで、落ちるからっ」
ふたり並んで菓子を齧っていると、前を行く青紫の髪をうなじに沿って切り揃えた娘が、同色の瞳で呆れた視線を送ってくる。
「街ひとつ壊滅させた元凶と対峙する決戦前だってのに、暢気な奴らね。あんた達こそ、ウチの足引っ張んないでよ?」
「この人はともかく僕は大丈夫。ひた、いたひよっ」
「そう言うあなたはどれくらい続けてきたのさ」
少年の頬を引っ張りながら訊くと、少女は朱い衣を翻して前に直った。
「もうすぐ一年ってところかしらね」
「……。ま、まあ、あのエディク市長が指名するくらいだしさ」
手を放した私を宥めるような猫なで声に首を振る。
「私ユリア。よろしく」
「……セスよ。まあ仲良くしたげる」
喉の奥で含み笑うと、セスはむきになって歩調を速めた。
「君は?」
黒髪の少年が後ろを見れば、ずっと付いてきていた背の高い青年が、波打つ緑色の髪を揺らしながら顔を上げる。
「モルシ……」
「そう。僕はオーフェ」
「あの、俺は魔法使いなんで、先に立ったりとかは、その」
「あぁ、任せてくれて大丈夫だから」
気さくな返事をしながらも、私の隣で彼は面倒くさそうに肩を竦めた。
それを見てモルシが委縮したのが分かったので、道端の枝を折ってオーフェのわき腹を突く。
「ぐえ、ちょっと?」
振り返って微笑んでみせると、緑髪の青年はそばかすの浮く顔で呆けた後、卑屈そうに斜め下へ顔を伏せた。
*
猛獣の跋扈するこの大陸で、多くの街は円形の壁に取り囲まれている。
物見台が四方に取り付けられ、異変があればギルドの担当官が警鐘を鳴らすというのが一般的だ。
私は森に近い東区に宿を取っていたから、明け方に鳴る青銅の響きにも気付くのが遅れた。
起きて着替えている時も、てっきり鍛冶屋が景気よく鎚打ちしてるのかなと思っていた。
隣の部屋だったニアと廊下で会って、正確には彼女の表情を見て、緊迫した事態にあることをようやく悟った。
私達はギルドに招集を掛けられ、オリオット市長による特別警報が発令されて以降、住民の誘導を任されていた。
早馬を走らせていたらしく、リングスエート市からもキャラバンが派遣され、オリオットで用意された馬車群と合流。
日が昇り切る頃、オリオットは無人街と化していた。
その間、南に望まれる連峰の上空を、赤と青の煌翼を広げる影が周回していたことも、迅速に避難が完了した一因と言えるだろう。
斯くしてオリオットは放棄された。
一時的な退避であると市長は説明していたが、住民達の目には諦めが浮かんでいたのを覚えている。
ドラゴンがやってきた以上、都市の再建は絶望的である。
極めて常識的で、当然の思考だ。
殿の一団を護衛した私達は、街を氷が覆い萌えていく様子も、雪雲の最中から降りた緋の玉も、庁舎から沸いた火炎の泉も、直接目にしている。
だから、分かってはいるのだ。
それでも、挑まない訳にはいかないだけで。
*
右足のつま先を弾ませる。上体を下に丸め、次いで下体を上に伸ばす。
宙に逆立ちしたら、右腰を引くように捻る。
身体が正中線を軸に一周すると、両踵を落とす。
追従してきた上半身が、正面を追い越して右に振れると共に、体は上下の順を戻している。
左のつま先で着地する。
数歩小走りして、振り返った。
筒状の短い前肢を抉られ、制御を失った紅輝焔が揺らめきながら夜穹を灼いていた。
「アアアアアアアアアアッッッッッ!!」
蜥蜴貌の啼き声が荒れ地を震わせる。
火に包まれて、疵口は焦げる筈だが、みるみるうちに治っていく。
やがて左翼は、蒼炎の右翼と同じ形を取り戻す。