正 宗 2
彦根藩家老詰所・楓の間において、中老平野忠次が国家老田村敏左衛門を前に江戸行きを嘆願していた。
彦根新田藩における陰謀が明るみになり、その対策。またそれを逆手に首謀者である家老青木丹膳以下、関係する者を失脚させる、彦根新田藩については一代限りとして彦根に帰藩させる、との嘆願書を殿に直接手渡すためである。
「平野氏、お主が行かぬとて代理で良いのではないか?」
「いえ、殿におかれては兄弟藩がよもやこのような大それた事をと訝るはず、彦根新田においてもこれを行うのは青木丹膳、前田左近、早坂源内……」
「しかしのう、もしも花火大会に何事もなかった時には……」
「それ故、拙者がその場にいなければならないと存ずるのです」
「死ぬる覚悟か」
「……」
家老・田村もどうするべきか思案に困った。
「して平野氏、秋月翔馬についてはどう答えられる、早苗どのとの関係も問われているが?」
「一言では答えられませぬ故、それも拙者の口からと言うことになりまするが、簡単には書状にしたため、早飛脚に託し申した。 早苗につきましては実は縁談の話があり、この機会に殿にお許しを願おうと思っております」
「ほほう、早苗殿に縁談か、婿殿が羨ましいモノじゃの、誰なのじゃ?」
「はは、どこで見染められたものか、大津藩家老佐竹様のご次男にございます」
「ほう、大津の佐竹とは大した人物と聞き及ぶ、成程良縁!」
「はは、相手が佐竹様なれば、彦根藩の為にもなろうかと思いまする」
「確かに、殿もお喜びになられるであろう!」
と言うわけで、早苗の父、平野忠次も江戸へと発ったのである。
ところ変わって、江戸で仕官先を探すと言う浪人者が集まる長屋に、また数人の侍が入居してきたのである、侍たちは身なりも良く、浪人には見えなかった。それもそのはず、一人は彦根新田藩・村井圭吾だった。
村井は皆を集めて言った。
「皆の者、十日後いよいよ決行じゃ、暴れてもらうのは彦根・井伊家の下屋敷、その夜は江戸の花火大会があっての、下屋敷に花火が落ちる、屋敷内は大慌てじゃ、そこで花火見物に来ておる藩主・井伊直惟の命を頂く」
皆が一斉にざわついた、それもそのはず兄弟藩の藩主の命である。
「静まれ! 殺るのは直惟だけで良い、簡単な仕事じゃ」
「待ってくれよ、井伊の殿さまだぞ、何が簡単なモノか」
皆が同調する。
「やれぬのか、今更抜ける事は許さぬぞ! よく考えろ、貴公ら今は卑しい浪人だがこれが上手く行けば、すぐにとはいかんが皆彦根藩士として仕官できるのじゃ、この場を逃して一生を棒に振るか、我らが親の代においては戦場で敵の大将を殺してこそ出世出来たのじゃ、この期に及んで腹を決められぬのか!」
皆顔を見合わせた、このままではいつまで経ってもうだつの上がらない連中が集められているのである、誰かが言った。
「よし、おれは決めた、将来を約束してくれるのなら直惟の首をとる!」
「わしもやる、別れた女房を呼び戻せるでの」
「だが直惟の顔を知らんぞ? それはどうなる」
「心配いらんわしが一緒じゃ、贅沢な羽織でも見分けがつくはずじゃ」
「そうか、じゃが、警護の侍と斬り合いにはなるぞ」
「それは避けられん、直惟一人と言うたが、抵抗する者は生かしておけん、そこは戦場じゃ、我ら一丸となり気迫で圧倒すれば負ける事はない!分かったの!」
「十日も待つのか、もっと早う斬らせてくれ」
浪人者の後ろで言ったのは高市源蔵、異様な風体に村井もぞっとなった。
「源蔵どのか、女人・子供は斬ってはならぬぞ……」
村井は源蔵の得体の知れぬところが恐かった、名誉や出世欲がなく、金銭で動くモノでもない、どこでどうなったのか、根っからの人斬りなのである。
「ではあと十日じゃ、十日で貴公らの運命が変わる、力を溜めておくのじゃぞ!」
「おおう!」
村井が上手く誘導したのか? 皆の返事は力強かった。
船問屋両国屋の客間に彦根藩主正妻・泰子の待女早苗がいた、待女と言っても国元では中老・平野忠次の娘である。対して両国屋主の梶田義忠と早代子。
「そうでしたか、正義感の強い翔馬さまでございますので、早代子さまの受難を見過ごしには出来なかったのでございましょう、本当に皆様が無事でなによりでございました」
「ええ、秋月さまのおかげで救われた命、どうお返ししたら良いモノか分からないまま今を過ごしている次第です」
「いえ、十分でございます、私が言うのも何なのですが、翔馬さまは正直なお方でございます、お言葉は本心とお聞きくだされば、気使いは無用かと……」
「それが、翔馬さまが本心ならば、私どもも本心なので、何も無しと言う訳にはいきません、翔馬さまの無欲が恨めしく思っているのです」
「ほほほ、難しいものですね~」
早代子は借りて来た猫のように首をすぼめていた。
「早代子さま、翔馬さまは本当に立派なお方でございます、武士や町人と身分を問うお方ではありませんよ? 貴女が翔馬さまを想う気持ちは痛いほど分かるのです、私は翔馬さまの生き方の邪魔はしないと心に決めています、だから翔馬さまが望む限り置いてあげてくださいね」
早代子が急に泣き出し、震える声で答えた。
「翔馬さまはここを出て行くと言われるのです……、早苗さまですか? と尋ねると、自分の意志で、と」
「そうですか、翔馬さまは成すべき使命をお持ちです、そのことでこちらに迷惑が掛かっては、と思われたのでしょう」
「その通りです、早苗さまは翔馬さまの思うことが全てお分かりの様でございます、わたくしが早苗さまがお現れになるまでは、どこに行こうとお世話をすると申し上げましたら、お怒りになられました」
「早代子さんありがとう。翔馬さまにあなたの気持ちが分からないはずがない、貴女を愛するが故の叱りだと思います」
「いえ、でも私は今日早苗さまとお会い出来てはっきりと分かりました」
「……」
「翔馬さまのお心には早苗さましかおられません」
「そのようなことはないですよ」
「いえ、分かったのです、翔馬さまの生き方の邪魔はしません……、それが本当にあのお方を愛していることだと。 早苗さまのそのお気持ちをあのお方が裏切るはずがございません」
「……、国元のあるお寺の和尚様に”諸法無我”という言葉を教えていただきました、人は様々な出会いがあり、複雑に関係し合うコトで成り立ってゆく、人生の最後に、そう言うコトだったのかと、謎解きのように分かるものだと……」
「翔馬さまも同じことを言われました」
「そうでしょうね、貴女を愛しているからです。年老いた時、いつかどこかで今日の事を語り合えたら良いと思ったのでしょう……」
早代子が泣く、早苗も涙した、聞いていた主・義忠も片手のこぶしで目をこすっていた。
平野忠次が江戸に到着、井伊家上屋敷に入った。早速書院にて藩主井伊直惟と対面する。
「殿、此度平野まかり越しましたは、藩の重大事、彦根新田の家老青木一派による陰謀が判明いたしましたからにございます」
「彦根新田の火薬がどうと申しておった、それが解けたと?」
「はは、その動機と今後の目論見までもが、わたくし考えるに相違ないコトと確信し、こちらの対応を殿にご相談に上がった次第でございます。 云々」
三男である彦根新田藩の井伊直定は陰謀には係わっておらず、家老・青木丹膳一派を排除すれば良い問題ではあるが、分藩が抱える将来の危惧を解消しておくために合藩出来る好機であると説いた。
「して平野、早苗と秋月のことは真に何もないと申すか」
「は、国の菩提寺で何度か出会うたとは聞きまするがそれだけの事と存じます」
「そちが知らぬだけで、二人の間では夫婦の約束でもしておるのと違うのか」
「め、滅相もございません、此度の参上には早苗の縁談のお許しも兼ねての事にございます。 云々」
「殿のお許しを頂ければ、帰郷の際早苗も同行させようと思っております」
「そのことは早苗も承知なのか?」
「いえ、今日にも伝えようと思っておりまするが」
「まぁ良い、家臣が大津藩重役と縁繋がりになるのは悪くない、好きにいたせ」
「はは、有り難き幸せに存じまする」
両国屋隣り、翔馬の家である。三郎と弥助が訪ねていた。
「ああ、佃島の長屋は狭いが翔馬さん一人くらいなら御殿のようなものさ」
「ははは、流石に御殿は言い過ぎではないのか?」
「言い過ぎなモノか、あの時の洞穴に比べりゃ、美味い魚はあるし、酒もある、女だって、あ、翔馬さんには関係ないか」
早代子がご馳走を運んでくれた。
「佃島の魚には及びませぬ故、お口に合えばでございます?」
一端の冗談である。早代子も翔馬が出て行くことに異を唱えなくなった、早苗に会ってから自分の中の本質的なものが大きく変わったと感じていたのだ。
「早代さんは何か急に逞しくなられたようだ」
「そうですよ、将来両国屋を継ぐために今墨田屋の登美子叔母さまに修業中ですの、もう皆さまに係わっている暇はございませんのよ!?」
「いや~これはすまぬ!ささ、早う戻って修業をしてくだされ」
「……今日はお休みなのです」
一同が笑った、皆がこのひと時に幸福を感じたことであろう。
「弥助さん、あの件を相談するんだろ?」
三郎が言った。
「そうだ、翔馬さんも相談に乗ってくれ」
「なんだ?」
「実は彦根新田の花火を打ち落とす花火を作ったんだ、でもよぉ、それを打ち上げる場所が無いんだよ…、彦根新田の打ち上げ場所は今設営しているから分かる、井伊家下屋敷も分かるんだが、この一直線上に場所がねえ……」
「地図を、この渡し場からは打てないのか」
「一直線上でないと命中度が極端に下がっちまってダメなんだ」
「ふむ、困ったのう明日にでももう一度歩いて見直そう」
そばで聞いていた早代子が小さな声で言った。
「舟では…… 舟ではいけませんか?」
「ふ・ね……」
三人が顔を見合わせている。
「ふふふ……」
「ハハハ……」
「ワハハ……」
言った早代子はお門違いなことを言ったと感じ、恥ずかしくて赤面した。
「早代さん、でかしたぞ! その手があったのか、弥助やれるか?」
「大丈夫だ、船が揺れないようにモヤってさえくれれば陸と変わらねえ」
「なら問題は解決だ、両国屋さんには私からお願いする、早代さんが一緒だと心強いのだが?」
早代子が大きくうなずいた、もう仲間なのである。
花火大会を三日後に控えた夕刻、井伊家上屋敷に翔馬が呼ばれた。
「秋月、お主に改めてこれを授ける」
渡されたのは変哲もない黒塗りの普通の刀に見えた。
「そちが受け取れぬと断ったモノじゃ、大名刀のままでは受け取れまい、存分に使えるよう拵も刃も研ぎ直しておる」
「しかし、名刀正宗には変わりございません、私の様な者などが持てるモノでは」
「これで存分な仕事をせよ! と藩主がお願いしているのじゃ」
翔馬は正宗を手にした、ずっしり重たくも感じたのである。