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正 宗 1

 豪徳寺の事件から四日目である、彦根藩江戸上屋敷において藩主井伊直惟が勤めから帰り、衣装を着換えていた、介添えは泰子、(かみしも)(はかま)をたたむのは、女中よりもよっぽど手慣れた手つきである。

 直惟が帯を締めながら言う。

「上様も心配されていたぞ、大事が無くて良かったと」

「斬られた警護の者が無事であれば良いのですが」

「うむ、高島は大丈夫そうだが、林は危ないようじゃ」

「お気の毒に……」

「賊は近頃歌舞いておる若い旗本らしい、倹約令に不満を持つやからも多いが、まさかお前が狙われるとはのぅ、許せ……」

「わたくしも、不用心過ぎたのが悪うございました」

「それにしても、秋月とやら? どう言う者か国元の平野に早飛脚を出してはいるが、わしからも礼を言わねばのぅ」

「お願いをいたします、褒美はもらっているなどと言うものですから……」

「ははは、平野の娘と何かあるのか?秋月の住まいは分かっておるのじゃな?」

「はい、両国の船問屋の家にいますとか」

「ならば明日にでも稲葉を行かせよう」

「いえ、それならば適任がいます」

「……誰じゃ?」

「早苗にございます」

 

 両国屋の借家、と言っても庭があり、部屋も四間ある立派な一軒家である、早代子が夕餉の支度をしていた。豪徳寺での約束を破ったことで少し不機嫌が続いていたのだが、奥方様襲撃のことを檀家関係から後で聞いたのである、救ったのが翔馬だと分かり胸が痛くなった、自分の事しか考えていない自分に腹が立った、 それを知ってからは毎日夕餉の支度をするようになった、今日で三日目である。

「翔馬さま、今日も三郎さんは来るのでしょうか?」

「ヤツの動きは読めないが、早代さんが食事を作ったときは必ず来る、不思議だな? 初めて会った時のご馳走分を取り戻そうとしているのかな?」

「いやですわ、あの時のコトは忘れました」

「ははは冗談だ、でも早代さんやお父上には本当に世話になっている。 実は私もこの甘えた暮らしは終わらせようと思っているのです」

 早代子の手が止まった、一番恐れていた言葉その後来る震えが止まらなかった。

「義忠どの(早代子の父)にも、言おうとずーっと考えていました」

「なぜでございます、私たちが受けた恩は死んでも返せません、父もずっとここで世話をさせてもらうのが恩返しと思っているはずです! 嫌でございます」

 震えながらも一生懸命だった、早代子の気持ちはイヤと言うほど分かった。

「だからと言って、いつまでもはいられないのです、私には秘めた使命がある。

これ以上いると私のせいで両国屋まで取り返しのつかないことに巻き込まれるかも知れないのです」

「……」

「早代さん、今の私は貴女のおかげでこうしていられる、貴女の人生にも私が関係した、この先も様々な者と複雑に関係し合って生きるモノが人だと思う、自分が何者か、自分がしたい事は何なのか、簡単に決まるコトではないのだ」

「……早苗さまのことですか?」

「早代さん!」

「翔馬さまと早苗さまのコトは三郎さんから聞いています、お二人の関係に私が邪魔をすることはございません、でもせめてあのお方が現れるまでは私に世話をさせてください」

「早代さん……」

「でないと、わたくし早苗さまに叱られるような……」

「分かった、でもここを出るのは早苗さんとは関係ない、私の意志なのだ」

「いいえ、翔馬さまはいつも危ない事に巻き込まれておいでです、誰かが側についていないと……、万が一の時には誰かが……」

 翔馬は萬年寺和尚の言った言葉を思い出していた、身に沁みるのである。

「……」

「早苗さまにお渡しするまでは翔馬さまがどこに行かれようとご一緒します」

「早代さん……」


 そして翌日の昼前である、早代子はこの日も早くから翔馬の家で掃除などの世話をしていた。誰かが玄関で呼んでいた、女の声、もちろん早苗である。

「もし、ごめんください。 もし……」

「はい、しばらく……」

 出てきた早代子を見て早苗は目を丸くした。

「あ、貴女は」

 早代子も一瞬戸惑ったが、すぐに豪徳寺での待女だと分かった。

「まあ、どうされたのでしょう?」

 奥から翔馬が出てきた。

「さ、早苗どの」

 皆が驚いた、早苗は翔馬がこの美しい娘と一緒にいることに、早代子はこんなにも早く夢が壊れるのかと、翔馬は驚きと言うより早苗に会えた嬉しさと早代子の気持ちを察し、味合わせたくない哀れさで迷う気持ちである。

「早苗さん、身体は大丈夫なのか?」

「はい、お久しゅうございます、その折は……」

「なんと、よそよそしい!上がってくれ」

「いえ、今日は奥方様の名代でまかり来しました、ご用件だけで失礼を致します」

「早苗さん、積もる話もある、さ、上がって」

「嫌でございます、翔馬さまには翔馬さまの時間が流れているように、わたくしにも早苗の時間が流れております、翔馬さまの時間に割り込む気はありません」


(女とは厄介なものだ、と言ってもこれは男側の意見である、女側の意見も聞きたいが、その間は無いので書きすすめる)


 早苗は明後日、上屋敷を訪ねるよう一枚の着物と何某かの金子を置いて行った。

着物は早苗が用意したモノであったが、翔馬は知る由もなかった。

 早代子は玄関にひれ伏していた、豪徳寺で包容力のある穏やかさを感じた待女が早苗だったことを知り、顔を合わせることが出来なかった。

 二日後昼前に迎えの籠が到着して翔馬は乗り込んで行った、玄関では両国屋主梶田義忠と早代子、登美子や辰五郎まで正装で見送りに来ていた。

「大したもんだねぇ~ 翔馬さん」

 辰五郎がしみじみ言った。

「私は最初からただ者じゃないと見てたけど、これ程のお方とはねえぇ」

「さよぼう、ちっと敷居が高くなったな……」

「だからわしは最初から釣り合わぬと言ったじゃないか」

「そうとは限らないよ、翔馬さんは早代子と一緒にいるのは嫌じゃないはずだよ、早代子の押し次第ではまんざらでもないと私は思っているのだけどね?」

 また三人が一瞬顔を見合った後、一斉に早代子を見た。

「早代!早代子!さよぼう!(同時に)がんばれよ!」

 だが、当の早代子は籠に向かい、なぜか”今生の別れ”のように泣き崩れた。


 井伊家上屋敷、泰子の部屋である。普段家臣と会うときは書院をつかうのだが、翔馬が緊張せぬようにと、直惟と泰子の配慮だった。

「秋月翔馬か、あの秋月忠則の息子と……、ならばそちは彦根にて勤番しておるはず、どうして江戸におるのじゃ?」

「はっ、国元では彦根新田藩の監視役として……云々」

「それは平野が動いておる件じゃ、今平野にそちの事も尋ねているところじゃ」

「私は中老さまに少し反発する様な格好で江戸に来ております、但し、いずれ中老様が動かれるときには微力ながら全力でお支えするつもりでおります」

「平野が動くとは? 奴は何を考えておる」

「それは…… 私の口からは申し上げられません、どうぞご中老さまに」

「よい、分かった。花火見物の件であろう? 彦根出立のおり、今年花火見物は控えよと言いおった、彦根の花火を見ぬ訳にはいかんモノをのう」

「いえ、ご中老様の言われるはもっともかと存じます、どうか中老様の忠言をお聞き入れくださいますようお願い申し上げます」

「おぬし、本当に平野に反発しておるのか? ははは、もうよい」

「……」

「しかしのう、此度泰子の命を救うたは、わしの命を救うたも同じ! しかもこの大事を寺の庫裏だけで収めている、瓦版にも載らなんだ、今思えばぞっとするが見事に収めてくれたのう、感謝するぞ」

「無我夢中で動いたまででございます」

「うむ、気に入った、お主を藩の中枢に引きあげよう、江戸がよいか、国元か?」

「殿、秋月さまも平野さまも大事な目論見を抱えている様子、その件が片付いてからでなければ心が揺らぐばかりかと?」

「そうじゃな、平野も花火に関しての事ならばもうじき何か言って来るはずじゃ、ぎりぎりまで言えぬ事とは、奴も奴なりに悩んでいるのかものう……」

 翔馬は深く頭を下げた。

「ところで秋月、平野の娘とはどう言う仲じゃ、先日褒美はいらぬと泰子に申したようだが……」

「あ、あれは咄嗟に…… 気が動転いたしておりましたゆえ……」

 翔馬がなお一層深く頭を下げた。

「??まあ良い、今詮索はしまい! お主には礼としてこれをつかわす」

 直惟の後ろの刀台に金糸銀糸で織り込まれた豪華な刀袋が掛かっていた。

「五郎入道正宗、名刀じゃぞ」

「……??」

「何をしておる、受け取れ!」

「お、お戯れを、そのようなモノ受け取れませぬ」

「なに、わしの誠意ぞ? 成程泰子の命に比べたら何を持ってしても及ばぬであろう、だがこれをわしの気持ちとして受け取って欲しい」

「ですが、それはいただけません」

 直惟は翔馬の強い口調に少し驚いた。

「……、ならば、欲しいモノを申してみよ」

「褒美や礼など無用にございます、しかし一つお聞き届け願えることが出来るなら、どうぞ平野さまのご忠言をお聞きくださるよう……」

「お前と言う奴は!」

 直惟は下がって行った、手には五郎入道正宗を提げて。

 泰子がにっこり微笑んで言った。

「あの時のコトを思い出すと暫くは心が落ち着きませんでした、しかし逆にあれからは命あるコトに感謝の日々が続いております、秋月どののお蔭かと」

「いえ、家臣として当然のことをしたまで、この様なことをされると無作法者ゆえ恥ずかしゅうございます」

「ほほほ、秋月翔馬どの…… 面白いお方ですこと、早苗を呼びましょう」

 しばらくして早苗が来た。

「私は用があるので下がります、部屋は好きに使いなさい」

 と言って出て行った。

「早苗どの、本当に無事で良かった」

「翔馬さんもご無事でなによりでございます」

「何から話してよいか分からぬほど話すことは沢山ある」

「わたくしも、自分の生き方を見つけるために江戸へ出てきました、何かを成して自分に自信がつく頃には誰かが私を認めてくれるだろうと考えました」

「強い心だ、もう既に周りの者から認められる人になっていると存ずる」

「いえ、まだです、それはまだ自分の生き方が見つかっていないから……」

「この前、時間のことを言われましたね? 私が成すべきこと、江戸での時間はどんどん進むが、貴女への時間は止まったまま彦根に置いております、成すべきことが終ればそこへ帰ろうと思っているのです……」

 うつむいていた早苗がはっと翔馬を見た、半年前と変わらぬ優しい顔がそこにあった、知らぬ内に早代子に嫉妬していたコトが恥ずかしかった、自分が翔馬のことを想うと同じで、翔馬が早苗のことを想っていないはずがないのである。

 ただ、早代子のことがまだ気にかかっていた、自分が翔馬に純粋な愛を抱くのと同じで、あの純情な娘も愛を抱いているとすれば……。



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