再 会 2
江戸大川の河口に近い所に佃島と言う小さな島があった、数年前からの大規模埋め立てで島は江戸湾の漁港と変化をしていた。 ここは徳川家康が本能寺の変で、大阪脱出の際、大きな力になった大阪の漁民を移住させ、自由な漁業の権利や年貢免除の特権を与えた地区なのである。
三郎と花火師の弥助は江戸でここに身を隠していた。
「それで、翔馬さんは達者だったかい?」
「ああ、変わりはなかったよ。でも一つ気になったことがあってよぉ」
「なんだい、そいつは」
「うん、きれいな女の人がいてなぁ~」
「あの早苗さんではないのか?」
「ああ、違うんだよ、でもまともに見られないほど綺麗な人だよ」
「さすが翔馬さんだなぁ~」
「ばか! 翔馬さんはそんな人ではないが、おら一瞬不安になって……」
せっかくのご馳走を無駄にしたことや、早代子へ嫌な思いをさせてしまったことが、取り返しのつかないコトにならなければ、と反省しているのだ。
「三郎、早く行った方がいいぜ? 早代子さんとやらに謝ってこいよ!」
「そう思うが、おらぁ、あんな綺麗な人の前ではしゃべれないんだよ」
「バカだなおめえは! 顔見ねえで下向いて喋ればいいんだよ!」
「それでいいのか?」
「いいんだよ! お前が上手に喋ろうが、下手っぴであろうが、本心は向こうが見抜いてくれりゃぁ、黙っているのが一番いけねえんだよ!」
「そうか、何か力が湧いてきたけど、早代さんが聞いてくれるかなぁ……」
こんな話で次の日、三郎と弥助は翔馬の家を訪ねた。
三郎は弥助に言われた通り下を向いたまま、先日のことを謝ったが、弥助は早代子の前でカチカチに緊張して何もしゃべるコトが出来なかった。
「な、早代さん、悪いヤツではない、これで頼りにもなるのだ」
早代子は早苗と言う女性が気になりながらも、三郎たちと打ち解けたのである。
「翔馬さま、この月末に豪徳寺と言うお寺様に納経とお供えを致しますの、露店が立って賑やかなのですよ、よろしければ参ってみませんか?」
「お寺ですか、彦根の和尚を思い出します……」
「豪徳寺は井伊様の江戸の菩提寺で御座いますの、たぶんその日は奥方様も参拝されることと思いますが」
(まあ皆さん、ピンと来られたでしょう、だが思うような展開ではしゃくなので、無理に流れを変えましょう。と言いながら変えなかったりもする)
豪徳寺、正月より半年目の夏祓い法要に、檀家の皆が写経を納経するのである、
寺は大きく、山門を潜ると左右に鐘楼、三重塔があり、その先の仏殿の奥に本堂がある、横手には檀家の接待所があり、境内には数十軒ほど多くの露店が立っていた。各地の祭りを回る芸人などもいて、檀家だけでなく少し遠くからでも様子を見に来る者がたくさんいるのである。
広い境内だが、本堂の大香炉から立ち込める線香の煙と、堂内から聞こえる僧侶達による沁みるような読経が参拝者全員を包み込んでいた。
井伊直惟の正室泰子はすでに本堂にいて、傍らに待女として早苗が座していた。
彼女たちは外陣にて参拝、内陣は僧侶の読経の場なのである。立派な須弥壇の格天井に架かる天蓋は、三代将軍から賜ったもので、それは絢爛豪華なモノである、彦根の田舎寺院とは違う、何もかもが桁違いのスケールに、早苗はただ驚くばかりであった。そう言えば和尚の読経は一度も聞いたことが無かったのである。
早苗は時おり泰子の顔を見た、一人で千経を仕上げ、何事もなかったように納経したのである、目を閉じて凛とした姿には憧れさえ感じる、武士が藩主に全身全霊で仕える気持ちが何となく分かるような気がした。
法要の後、方丈書院でお茶の接待を受けた、部屋は狩野派絵師による豪華な襖絵と、床の間の質素な一輪の花の対比が、嫌味のない品格を醸し出していた。
ここでも背筋の帯びた泰子は、直惟のいない間、上屋敷の主として逞しく、誇らしい存在だと感じた。自分の知らない世界にこんなに素敵な人がいる、この方が私の江戸に来た決意を見たいと言われた。
だが、早苗はまだ何がしたいのか自分で分かってはいなかった。
豪徳寺境内の本堂前には船問屋「両国屋」の娘早代子が写経の納経をしていた、同じ檀家でも町人などの納経は外に受付が設けられているのである、傍らには白ウリをかじりながらの三郎がいた。
「塩を付けたウリがこんなに美味いモノだとは思わなかったよ」
「帰りには鶉を買いましょうね」
「うん、ウズラも塩を付けて食べるのか?」
早代子も三郎にすっかり打ち解けて、姉弟のように思っていた。
納経を無事に終え、檀家の接待所でお茶を頂く、実は翔馬とここで待ち合わせをしていたのである。
「翔馬さんもう用事は済んだのかなあ、遅いなぁ」
「あわてないで、ゆっくり待ちましょう?」
「でも、ウズラが無くなっちまったら~」
「無くなりはしないと思うけど、三郎さん買ってくる?」
「うん! おらぁ気になったことは早く済ませたいタチなんだ」
三郎が嬉しそうに駆けて行った。
早代子も微笑ましく見送り、ゆっくりと辺りを見回していると、周りが少しざわついてきた、井伊家の奥方様が境内散策とのことである。
「皆の者すまぬが道を空けてくれ、しばらくの間じゃ、道を空けてくれ~!」
お供であろう侍が丁寧なもの言いで先導していた。
皆が遠巻きに泰子の一行を見ていた、誰かが自慢そうに囁くのが聞こえた。
「あれが絶世の美女だぜ!」
「ぜっせい? なんだそりゃ?」
「知らねえのかよ、井伊様のお行列で、瓦版に載ってただろうが!」
「ああそうか!思い出した、あれがその時の…… おお、美女にちげえねえ!」
主人の泰子より待女早苗の方が注目度が上である。
「早苗、人気者ですねぇ? 瓦版の影響がこれほどあるとは」
「お恥ずかしゅうございます」
「わたくしは誇らしく思うが? そこが檀家衆の接待所ですね?」
ゆっくりながらも動いていた一行だが、なにを思ったか泰子が急に足を止めた。
「あの娘は?」
「……」
「なんと美しい娘さん、一人でいるとはどう言う訳でしょう。早苗はあの娘子の心境をどう読みますか?」
お茶を襟の前に両手で持ち、キョトンとしている早代子と目と目が合った。ドキッとする程の器量を感じた。 早代子にしても早苗の澄んだ瞳に抱擁されるような親近感を一瞬ではあるが持ったのである、あわてて頭を下げた。
「喧騒の中に、想い人を静かに待つかの様な……、心のときめきを見ました」
「ほほ~、だからあのように美しく見えるのでありますね?」
一行が動き出し、人々の輪の中に消えて行った。
三郎が人をかき分け、嬉しそうに帰ってきた。
「早代さん、ウズラってこれか~、塩じゃなくって美味いタレがかかってらぁ!」
泰子一行が境内散策を終え、籠を待たせてある庫裏の裏口まで帰って来たとき、籠の周りに三人の中間が倒れていた、その後ろには抜刀し覆面した数人の侍がいて、その内の一人が叫んだ。
「彦根藩主井伊直惟殿の奥方様とお見受け致す、奥方様に怨みはございませんが、昨今のご政道にもの申すため、お命頂戴いたしまする!」
警護の侍二人が前に立ちはだかるが、数名を相手に出来るはずがなかった。
「奥方様、中へ!」
言うと同時に一人はあっけなく斬られてしまったのである。
寺院裏にある通用門を潜り、庫裏の裏手を急ぐ若者がいた、早代子、三郎と待ち合わせをしていた翔馬である、急ぐために参拝者のごった返す表山門を避け、裏から境内に入ったのである。
あわてて庫裏の裏道を通り過ぎようとしたところ、塀の中で怒号と刀の擦れ合う音がした、一人が大勢に襲われている気配に、思わず塀を乗り越えたのである。
数名が血を流して倒れている修羅場に愕然とした。
「何をしている! 刀を引け!」
襲う側は一瞬翔馬を見たが、井伊家の家臣でもなさそうで抜刀もしていないので、正面の喘ぎあえぎの相手に集中した。
その喘ぎあえぎの老侍が精一杯の声をふりしぼった。
「お侍、井伊直惟様の奥方様の難儀じゃ、お助けくだされ!」
「やかましい!」
数回刀を合わせたが、多数に取り囲まれ、斬られてしまった。
「若いの! 見なかったことにすれば許してやる、行け!」
一人が、部屋の障子を引き開けると早苗が胸に短刀を構え立ち塞がっていた。
「何をしておる若いの! 早く行け!」
早苗を前にして翔馬にその言葉は通じるはずがない。
「さ、早苗どの!」
早苗に斬りかかろうとした者をすかさず後ろから斬り倒したのである、血潮が早苗の顔にも飛んだ、翔馬はそのまま廊下に立ち塞がったのである。
「貴様! こやつからやれ!」
翔馬は一気に燃え上がっていた、この世のモノとは思えぬ剣さばきで、三名を斬り、逃げる二名の足も斬った。惨劇はあっという間に終った。
翔馬が早苗に駆け寄り腕を取った。
「怪我はないか!」
早苗は目を見開き、短刀を握りしめたまま、気を失ってしまった。
「早苗どの!」
先刻お茶を頂いた書院で早苗は寝かされていた、町医者に看病される姿を泰子が枕元で心配そうに見守りながら翔馬に言った。
「秋月翔馬どのと言われるか、此度はどのように礼を申し上げたらよいか」
「お気使いは無用でございます、今は浪人のように沈んでおりますが、彦根藩に無縁の者ではございません、主君のために身を使うは本望にございます」
「なに、彦根藩の縁者? ならば殿から何か褒美を」
「いえ、褒美ならすでに頂いております」
「……なんと?」
「早苗さんをこんなに大事に扱って下さり、それに勝る褒美はないと存じます」
早苗を見つめる翔馬の目に涙が光っていた。