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再 会 1

 江戸・向島は、花街として名高いところだがそれは明治に入ってからのこと、その最盛期には料理屋が200軒、芸妓の数も1000名を超えたという。ただ江戸中期には、大川を挟むだけに人里離れた、というイメージが強かった。たが風光明媚な土地として貴人の別荘などもあり、江戸庶民の憧れの地でもあったのだ。

 人気のない川の辺を一人の浪人者がそぞろに歩いていた、時刻は暮れ六つを半時ほど廻り、だいぶん日の長くなった水無月(6月)に入ったところではあるが、灯りのないこの辺りは、どっぷりと暮れようとしていた。

 浪人は長身で、何を目的としているのか分からない不気味さを漂わせていた、前からいそいそと提灯を下げた町人が近付いてきた、すれ違った後で。

「町人、止まれ!」

 浪人が刀を抜こうとしたが、町人は提灯を放り投げて全速で逃げた。

「チッ! 足の速いヤツ」

 浪人はゆっくりと刀を抜き、町人の残した提灯の灯りに刀身を映した。

 「千子村正」(せんごむらまさ)天下の名刀、よく「正宗」が天下の名刀と言われるがそれは芸術品としてのことであり、この時代ではまだ実践刀でなければ評価は高くなかった、まさに村正は戦国時代にも実践を重ねた天下の業物(実践刀)なのである。 この浪人が誰で、なぜ浪人の身分で村正を所持出来るのか、読者ならご存じのハズなので説明は省く。

 江戸の高市源蔵に村正が届いたのは昨日である、村正の中でも初代と三代作は最大の業物であり、”斬味凄絶無比”と名高いモノであった。

 一晩中「村正」の刀身を見つめて、魂が抜けたような源蔵がここに辿り着いた時には、誰が見ても異様、不気味な妖怪と化していた。

 町人が逃げた先から二人の武士が近付いてきた。

「貴様か、辻斬りは」

 源蔵は喜んだ、誰でも良いのである。

「わしらは高島家の用人だ、辻斬りなら成敗してくれる」

「成敗……、ふふふ」

「なにが可笑しい、どうせ役に立たぬ犬浪人めが!」

「ふふふ」

「こやつ、気がフレておるぞ、野放しにしておけん」

 二人が抜刀して左右に構えをとった、源蔵は刀をだらりと下げ虚ろな目で二人を見ていた。

「浪人、楽にしてやる!」

 一人が上段に、片方は胴へと、同時に刀を繰り出したが、源蔵は受けもせず、上段に打ち込んだ相手には胴を切り裂き、胴に来た者には喉を突き刺し、一瞬で二つの命を奪ってしまったのである。

 喉に刺さった村正をスっと引くと、一筋の鮮血が踊る様に切っ先に向かって流れて行った、だがそれは刀の先から滴るのではなく、切っ先まで行く間の刀身に吸われるように消えたのである。

「なんと、正に名刀!」

 源蔵は人を斬ったことに関心はなかったが、斬った後の村正の喜び方に魅せられてしまったのである、恐ろしい妖怪が江戸に誕生した。


「早苗、その根付は?」

「あっ、すみません、つい習慣になってしまって」

「いえ、咎めているのではないのです、どう言う想いがあるのか知りたいのです」

「これは、私の生き方を変えてくださった方の”生き形見”なのでございます」

「ほう、生き方が変わった?」

「そうでございます、今こうして奥方様と話せるのも……」

「それは成り行きと言うモノではないのか、望むも望まないも?」

「いえ、此度の江戸行きは私の意志なのでございます、父に反対され……」

「ここに来たのは平野殿の意向と思っていたが、違うのか」

 江戸城に近い井伊家上屋敷は広大な立地であった、直惟は登城しており、正室泰子は、新緑の庭を臨む自分の部屋で、井伊家の江戸菩提寺「豪徳寺」へ月末の法要に収める写経をしているところであった。

「そうだ、早苗もここで写経をしなさい。月末までに千経」

「千経? 千とはとても……、部屋で書いてもよろしいでしょうか」

「いけません、豪徳寺『経塔』のあるこの部屋で仕上げるのです」

「ですが、千経とは……」

「無理と申すか、嫌ならここには不要な者、明日にでも彦根に送り返すが?」

「……」

 早苗が半泣きになった、なんとも美しい顔だった。

「早苗、一人で書けとは言っていませんよ、二人で千経と言えば承知か?」

「……」

「わたくしも今まで、千は書いたことが無い、毎月百経が良いところなのです、だがいつかは千経とずーっと思っていました、今お前が共に写経をし、互いに競い合えばそれが出来ると思うのです、どうじゃわたしの力になれるか?」

 もうイヤとは言えなかった、その日から無心に写経に没頭したのである。ただ自分の仕事は当たり前にこなし、他人から後ろ指差されるようなことはしなかった、写経の時間に遅れると泰子自身が呼びに来て、早苗の仕事を手伝った。

 早苗の写経も最初はぎこちなかったが、三日もすれば泰子と同等、十日目には泰子を凌いでいた、早苗は彦根・萬年寺の羅漢群を想像しながら、写経にも自分の心を写すよう熱心に書いた。 ある時気が付くと後ろに泰子が中腰に立ち、早苗の写した経書を見ていた、早苗があわてて手を止める。

「続けなさい」

「ですが、間違いでも……」

「続けなさい、手を止めるでない」

 泰子は只々驚いていたのである、初日には書体の正確さ、文字の傾き、この字はもっと力強くとか、修正するところが多かったが、これは何ということか。

 一文字一文字が完璧に書かれ、出来上がった一枚の文字群からは、経の持つ力以外に、何らかの波動も感じるのである、それはどう考えても書く者の強い意志が成せる技? と思ったのである、書き上げた一枚を取り上げた。

「早苗、写経は今日で終わりにしましょう、明日は休みなさい」

「……? それでは千経に届きません」

「いえ、もうよいのです、あとはわたくしが」

「申し訳ありません、わたしに落ち度が……」

「早苗に落ち度はありません、完璧なのです」

「?? ならば書かせてください、お願いします」

「いえ、完璧が恐いのです、お前を壊してしまうのではないかと……」

「奥方様の為ならわたしは如何様にもと決めているのです」

「早苗は何かを成し遂げようと江戸に来ているのですね、ならば私がその手助けをしましょう、お前の強い意志を見てみたくなりました」

 彦根藩三十五万石を預かる井伊直惟も頭の上がらぬ泰子、将軍吉宗からも一目を置かれる泰子を早苗は”トリコ”にしてしまったようだ。


 川風が気持ちの良い季節だ、翔馬の家も遅くまで窓が開いている、先ほどまで相沢一家の辰五郎が来ていた、親分役を若手に譲り今は隠居暮らしらしい、今まで世間を泣かせた罪滅ぼしをするのだと笑っていた。

 それと、先日川向こうの向島で侍が二人切られ、その下手人はまだ上がってはいないが、相当な達人と浅草辺りで評判になっていると言う。物騒な世の中で気を付けるようにと言ってくれたのである。

 辰五郎を見送って、一人部屋の片付けをしていると、庭先に人の気配を感じた。

「誰か?」

「翔馬さん!」

 暗闇に立つ小柄な若者はまぎれもなくゴン、いや三郎だった。

「さ、三郎ではないか!」

 片付けようとしたちゃぶ台を元に戻し。

「早く上がって来い」

「いえ、おいらぁここで」

「何を言う!そこで話ができるか、さあ上がれ!」

 ヨソヨソしく、スゴスゴと座敷に上がる三郎の姿が愛おしく思えた。

「三郎達者であったか、ああ、何もないのう、お茶ではいかん」

「翔馬さん、お構いなく。無事で会えて嬉しいですよ」

「そうじゃの、少し待て」

 三郎のことはひと時も忘れたことはなかった、上総組との一件も三郎ならどうするかと考えた仕掛けなのであった。辰五郎の持参した菓子があるだけで、部屋には何もなかったので、隣の両国屋まで走ったのである。

「たのむ!」

 早代子が出てきた。三郎のことを手短に話し、何か食べさせてやるモノを頼んだのである。そうしてまた急いで帰ってきた。

「翔馬さん、美味い饅頭だなぁ、お茶も身にしみるよ」

「ああ、もう少し待っていろ、食べるものを頼んできたからな」

「ありがてぇ、翔馬さんとこうして会えるのがどんだけ待ち遠しかったか」

「それは私も一緒だ、お前のことだから心配はないと思っていたが」

「……心配してくれなかったのですか?」

「い、いや、心配はしていたさ、心配はしたがきっと無事かと……」

「ありがてえ、でもおいらは翔馬さんのことは一切心配しなかったぜ?」

「こやつ!言わせてお……いや、いい、何でも言うがいいぞ」

 二人とも若いくせに涙もろくなっていた、彦根新田の関所突破後のことを少しずつ話しているとき、早代子が料理を運んでくれた。

「急なことゆえ十分なものは出来ませんが……」

 ちゃぶ台に乗らないほどの料理を並べ、「では」と引きあげようとした。翔馬は早代子の気持ちにも報いるつもりで。

「早代さん、この男が三郎です、気を遣う者ではないのでよろしければ少しの間でも話を聞いてくださらんか?」

「なあ三郎いいだろ?」

 三郎は少し迷った、翔馬がそう言うのであれば従うしかないが……。

「いえ、私がいたらお話の邪魔になりましょう、お膳は明日にでも取りに伺いますのでどうぞお気使い無く」

「いや、少しだけでもいて欲しい、貴女を女中のように扱うわけにはいかない」

 ならば、と部屋の隅に佇んだ。

「さあ三郎食べよう、ご馳走だぞ! 早代さんに礼を言ってくれ」

「……」

 三郎はうつむいたまま食べようとしない。

「……」

「どうした?おまえらしくないぞ?」

 翔馬が少し訝ったが、三郎が小さな声で言った。

「早苗さんはどうしたんだぃ」

「三郎、なにを言い出す」

「早苗さんはあんたを追っかけて彦根を出たんだぞ! 江戸ではてっきり一緒にと思っていたのに、なんでここにいないんだよぉ」

 部屋の隅に佇んでいた早代子が。

「やっぱり私がいたらご迷惑かと」

 と言って、翔馬の止める間もなく出て行った。

「三郎すまん、お前はそれ程までに私や早苗さんの事を思っていてくれたのか」

「いいよ、翔馬さんは翔馬さんの生き方をすればいいのは分かってるんだ、半年以上も離れていりゃ、その間のことは何があってもおかしくないさ、でも、おいらぁ、おいらは……」

 口下手な三郎にはここまで言うのがやっとだった、翔馬にはその先の言葉も十分に伝わっている。

「三郎、よく言ってくれた。訳あって両国屋に世話になっているが、わたしの心は半年前のままだ、安心してくれ、両国屋は私の恩に報いようとしてくれている、私はその恩に甘え過ぎてしまっているのだろう」

「……」

「さあ、これだけは食べてくれ」

「いや、いらねえ。 翔馬さんまた出直すよ」

「三郎! ……いや、いい。今どこに住んでいるんだ」

「佃島に弥助(花火師)といるんだよ、ヤツも立派になってるぜ、翔馬さんと会うことを楽しみにしている、今度は連れてくるよ!」


 井伊家下屋敷より百閒(180m)ほど離れた裏通り長屋の一角で江戸で仕官を目論む数名の浪人が共同生活をしていた、生活の金がどこから出ているのかは不明だが、昼間はそれぞれ街中に散って夕刻に一人一人と帰ってくるのである。

「ああ、退屈じゃのう、もう一月もこうしているが体が鈍ってしまうわ」

「おお三月(みつき)江戸見物が出来るのが嬉しゅうて引き受けたが、田舎者には合わぬ場所じゃて、そう思うじゃろう!?」

「ところで、もうそろそろ何をするのか連絡が入りそうなモノだがのぅ」

「まあ浪人者十人も揃えれば何をするか? 花見等でないくらいの想像はつく」

「ああ、早く終わらせて彦根へ帰りたいもんじゃのう」

「おおう、おめえは女郎が恋しいだけじゃろう? ははは」

 酒を飲んで、寝る前は毎晩こう言う話になる。雇われ浪人と言えども根っからの悪者はいないのである、ただ部屋の隅に一言も発せず、仲間とは少し距離を置いた者がいた、高市源蔵。皆もその実力と早坂源内の信頼度が分かっているので下手にちょっかいは出さなかったのだが。

「源蔵どの、その村正を皆にも見せてくださらぬか?」

 一人の者が問いかけた。 意外にも源蔵が大人しく村正を鞘から抜いて皆に見せたのである、ただその瞬間に部屋には血糊の異臭が広がった。

「うう、源蔵どの少し臭うが、始末はきちんとされた方が良いのではないかな」

「おぬしが見せて欲しいと言うから抜いた、文句を言われる筋合いはない」

「いやいや、文句ではない、鞘抜けが悪うなるのではないかと思うての」

「心配はない、三日もすれば鞘の血も臭いも無くなる、村正じゃ、これぞ村正」

「……」

「だが血が切れるとまた欲しがるのじゃ」

 問いかけた浪人がゾク!っとなった。


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