江戸 2
両国屋の事件から二日目である、両国屋の玄関に活気が戻り、大勢の人足が荷物を伝馬船に運んだり引き上げたりしている。 奥の離れに一席が設けられ主人義忠が首を長くして客人を待っていた、勿論娘の早代子もその傍らで、清楚ではあるが美しく生けられた一輪の花のように佇んでいた。
やがて登美子に連れられ翔馬が入って来る、遅れて相沢一家・相沢辰五郎親分が到着する、役者が揃ったのである。
「この度は私の不徳により皆様方に本当にご迷惑をかけ、申し訳ございませんでした、特に秋月翔馬さま、何と言ってお礼を申し上げればよいものやら、私共の出来ます事なら何でも致すつもりでございます」
翔馬が嫌がるのを何とか説得して登美子が連れてきたのである。
「相沢の親分さんにも無理をさせてしまい申し訳ない」
「いやいや、おれの方こそ役に立たねえ老いぼれで、とんだ恥ずかしいところを晒してしまいやした、奴らに引導を渡されたと思いましたぜ」
「なにをおっしゃいますか、親分の支えが無ければとてもここまで持ちこたえられませんでした、これからも力になって下さいますよう」
「でもなあ、さよぼう(早代子)良かったなぁ、秋月の旦那のおかげだ」
「秋月の旦那、って若様だよ?」
「あっ! こりゃ失言だ、ただ若様と言やぁ歳の面で下に見ている様でよう?」
「そうだね、では本当に旦那にしてあげるかい? 兄さん、さっきどんなお礼でも、と言いなさった、ですよね?」
「おう、何でもするぞ」
「なら、早代子を秋月さまのお嫁にしてはどうだい?」
「バ、バカを言うな! 秋月さまはお武家様だぞ、町人の娘を嫁に出来るものか」
「いや、出来ぬことはないぞ! さよぼうの器量は将軍様でも気に入るはずだ、翔馬さん次第、嫁にもらうと言えばもう夫婦じゃ!」
「いや、わしも秋月さまが嫌いで言っているのではないのだ、むしろ早代と一緒になってもらえるのならこれから先どんなに心強いことか……」
「兄さん、それなら決まりじゃない?」
大事な二人の将来が本人たちを差し置いて決まろうとしている……。
「ま、待ってください、私はまだ身を固める気はございません、それに早代子さんの気持ちも無いまま夫婦などと」
三人はキョトンとして翔馬を見た、そしてすぐに早代子に振り向き言った。
「さよ・早代子・さよぼう(同時に)秋月さまに嫁ぐよなぁ !?」
翔馬は船問屋「両国屋」の借家に住むことになった、義忠や登美子は両国屋の離れに居候することを勧めたが、翔馬が固辞した。
借家での生活は、朝食と昼食を「墨田屋」から登美子の従者がまかないとして作ってくれた、夜は飯屋を利用するのが独り者の一般的な暮らしだった。
ただ、翔馬の借家には世話娘が食事の支度を済ませ帰った後に、早代子がちょくちょく来て昼のおかずを足してくれたり、夕食まで作ってくれたりした。
「早代さん、大店の娘さんにこのようなことをさせては」
「いえ、させてください。私は嬉しいのでございます」
早代子の表情は初めて会った時とは想像も出来ないほど明るくなっていた、冷たい氷の像のような顔が、朗らかで明るい美少女に生まれ変わったのである。
「わたくしね、本当はあの日に死んでいましたの、いえ今迄の私はあの夜死んで、今いるのは新しい早代子なのでございます……」
「……」
「翔馬さまの様なお方に出会えて、自分を変えてみたくなりましたのよ」
「もう、あの時のことは忘れた方がよろしいかと思うが?」
「ええ、忘れましたわ、今はこれからのことだけしか考えていませんもの」
(ま、この場の展開はこれくらいにして、話を本題に戻そうと思う)
近江国彦根藩主・井伊直惟の参勤交代、彦根出発の日である。
大手門にずらりと並ぶ行列の中に平野忠次(中老)の娘、早苗がいた。藩主直惟の世話係として同行が許されたのである。直惟が現れるまでの時間、籠の側で待つ父忠次を見ていたが、忠次はただ前を向き娘を見ることはしなかった。
今年正月に早苗が江戸行きを懇願したとき、どうして止めさせることが出来なかったか、今は後悔しても遅いのである、ただ無事であることと、早苗がどう成長するのか見届けることが自分の役目だと考えた、だから甘い見送りは慎んだ。
早苗は萬年寺和尚の「命の最後に感謝を伝えられる人生を自分でつくれ」と言う言葉で、江戸行きを決めたのである、女だからと何も出来ないはずはない、相手に認められたいなら、認められるだけの人間にならないといけないと思った。萬年寺20体の羅漢が自分を導いてくれたと思えたのである。
「お前が江戸に行って何をするというのじゃ?」
「今までは何もしなかった私でございますが、これからは人として生れて来た甲斐のあることをしとうございます、まずは江戸に参ります」
「意味がわからんぞ、やりたい事があればここでやればよい」
「それが江戸へ行くことなのです」
「それではわからぬ、江戸になにがある……」
早苗は春の参勤交代に加えられなければ、単独でも江戸へ下ると告げ、ひと月の間説得されたが、強い意志で父を押し切ったのである。
藩主・井伊直惟が見送りの者に一声かけた後、籠に乗り込み行列が動き出した。
「お父様、お許しください」
早苗は父に深々と頭を下げた、忠次は早苗よりも殿の乗る籠を見送っていたが、その瞼にはこれまでの見送りでは見せたことのない大粒の涙がこぼれていた。
「下に~下に!」
「下に~下に!」
行列が小さくなり街角に消えた。
彦根藩江戸下屋敷には普段は下っ端の家臣しか住んでいなかった、国元からの物資の蓄えのため、人夫の出入りが多いだけだが、最近は数日後に参勤交代の家臣が一時的に増えるため、受け入れる空き部屋の掃除などにも忙しかった。
家臣の外出は上司の許可を取り、門限も決められていた。この下屋敷では、新井信治郎が警備役と言うことで、ただ一人自由な出入りを許されていたのである。
信治郎は時々翔馬の力も借りて、怪しそうな場所を詮索していたが、最近下屋敷近くの長屋に見知らぬ浪人が数名入居したことが分かった、浪人たちは江戸で仕官先を探すとの名目で長屋には半年の契約らしい、数日間見張るが怪しいところは見られなかった。
「翔馬さん、こう何もない日が続くと気が緩んでしまいますのう」
「そうですね、でもこれからの二ヶ月はこれまでの二ヶ月間とは違いますよ、私たちの働きで藩の運命が変わるかも知れないのです」
「そうだ、そうだな!その為にこ度の殿の供には腕利きが多数含まれているとか、私の道場仲間も三人いると言う、会うのが楽しみだ」
「いいですね、私は登城経験が浅いので親しい友人がいません、信吾が生きていてくれたら……」
「それは言うな、おれの友達を紹介してやるよ」
「殿はいつお着きになられるのでしょうか?」
「ふむ、一昨日追分を出て、明日本庄宿と言うから早ければ明後日の夕刻にはお着きになられる、本庄に入るとはっきりすると思うがの」
「そうでござるか、奥方様がお喜びなさいますなぁ?」
「ところで、一行には平野様の一人娘が同行しているとか」
「早苗さんがですか?」
「おぬし知っているのか?」
「い、いえ…… 菩提寺が同じなもので2・3度出会ったことがあるのです」
「そうか、中々の美人じゃと上屋敷では評判になっておるが、美人か?」
「……どうでしょうか、私には分かりかねまするが……」
「なんじゃおぬし、まさか惚れているのではないだろうなぁ、しかし中老さまが一人娘をよく江戸に行かせたものだ、女の身では道中も辛かっただろうに」
早苗が江戸に……、翔馬はそれから先の信治郎の話が耳に入らなかった。
「おい、翔馬さん! 聞いているのか? ”そうですねぇ”ではないだろう!」
「な、何がですか……?」
「いや、私が聞いているのですよ? 借家の家賃です!」
「ああ、家賃でしたか、場所が良いので七百文です」
「七百文は高いのう、五百までなら借りようと思うのだが」
「私も出るときにはそれなりの金子を収めようと思っているのですが、毎月七百文は残せません……」
「おぬし、タダで住んでいるのか !?」
信治郎は両国屋の一件を知らなかった、翔馬も言ってない。
二日後の夕刻、江戸城桜田門の前を約三百間(500m)離れた彦根藩井伊家の上屋敷に向け、長手槍を先頭とし、黒鎧を纏った錚々(そうそう)たる騎馬武者十名が率いる威風堂々の大名行列が厳かに進んでいた。
馬上武者三十騎、足軽百五十名、中間人足八百名の大行列だ、大名行列は三代将軍徳川家光の頃に派手となり、各藩が見栄を競い合うため、財政に大きな負担をかけるモノとなっていた。今、八代将軍吉宗は質素倹約を奨励し、参勤交代における人数規定等を示すが、大名行列で見栄が収まることはなかったのである。
井伊家の行列も、六百名程は江戸入り前に一日だけ雇った者たちであり(今で言うバイトである)それを商売とするコトが成り立っていた。
「ひや~、すげえなぁ!」
「先月の加賀・前田様の行列も凄かったがこれ程のモノじゃなかったぜ」
町衆が土下座して行列を見送った、土下座してでも見たいのが大名行列なのである、ここでは頭を低くしておけば見上げることは許されており、行列の優劣は町衆の評判の良し悪しで決まるのである。
翔馬はこの行列を酒屋の窓越しに見ていた、藩主の乗った大名籠の次に数名の女子が小紋の着物に上張りを着て、頭に笠、足は白足袋に草履姿で続いていた、その中の一人、確かに早苗である。襟元に少し妙な恰好ではあるが根付を付けていた、翔馬にはそれがどういう意味かよく分かった、彦根新田で生死を彷徨ったとき、早苗にとゴンに託した桜の根付だったのである。
細い身体でよく頑張った、汚れた脚絆が痛々しかった。前を歩く女子が町衆に見られるせいか緊張で倒れそうになった、それを早苗がすぐに抱き支えた、一瞬列は乱れたが後は何事もなかったように二人とも気丈に歩いて行った。
翌日の瓦版は井伊家の大名行列の見事さが大々と謳われていた、また”絶世の美女が井伊家を支えた”としてあり、これは行列を乱さなかった早苗の行為を称えたモノだった、町衆の間では誰が”絶世の美女”なのか井伊家上屋敷の前に数日間野次馬が絶えなかった。
井伊家直惟の正室泰子は幕府の奨める質素倹約の参考にもされたと言う、将軍お墨付きの良妻賢母と称され、井伊家あるは妻のおかげと言われるほどの才女であった。直惟も将軍お気に入りの泰子を軽々しくは扱われないのである。
「あなた、遠路はるばるお疲れ様でございました、一年一年のご苦労お察し致しております」
「本当に一年一年であるのう、そなたにも迷惑をかけている」
「いえ、こちらではお国元のような気楽な時間を過ごさせてあげられないことが心苦しく思っております」
「なにを申しておる、お前が悪いのではない、お上の許しさえあればお前にも彦根の城下や琵琶湖を見せられるものを、わしこそ申し訳ないと思っているぞ」
「そのお心だけで……」
一年の滑り出しは重要で、こうやって一年を穏やかに過ごせるのである。
「ああ、平野の娘が来ておる、一年間そなたの待女として面倒見てくれ」
「中老さまの?」
「おおう、わしも平野にあのような娘がいるとは知らなんだが、中々芯のある頼りにもなりそうな娘じゃ、そうそう瓦版に出ておったであろう、絶世の美女じゃ」
「瓦版など……?」
「そなたはずっと江戸にいるから何でも分かるだろうが、一年も離れていると瓦版でも何でも見て世間を知りたいのだ、また面白いモノでもあるぞ」
「ふふふ、ならあなたがお求めになったモノを見せていただきます」
こうして江戸の井伊家に主のいる日常が戻った、皆が想像する様な豪華な膳ではないが、一年分の愛情がこもった時間であることは確かだった。