琵琶 1
陽が落ちて城下の町家に灯りが点る、堀から引いた疎水の土手に立つすっかり葉の落ちた柳の細い枝にちらちらと雪が舞っていた、川の石垣に寄り添う小鴨の群れも今宵は食べる事より、どう暖をとるかと思案している様だ。
彦根城下、武家屋敷を抜けた通りの端に、周りを生垣に囲まれた立派なたたずまいの茶屋・大黒屋がある。その一間半はあろう大きな数寄屋門の長暖簾が内側より男士の手で左右に分けられる、そこをひょいと一人の芸妓が潜って行った。
大黒屋、大小二十四部屋ある中で一番奥の”紙天井の間”(曲者が天井に入れないよう紙で造作)に松野宗助と秋月翔馬の姿があった、食事や酒を飲みながらの話ではないが、一通りの御膳と酒が用意されていた。
二人の会話は一時半の時を経るが、全てを伝えることは難しかった、翔馬が語り落ちたコトを探す内に時は尚一刻一刻と過ぎて行く。
「本当に難儀をかけたな、よくぞ生きて帰ってきてくれた、本来なら藩を上げて慰労するところじゃが、そう出来ぬ事情を許してくれ」
「河井さまや新井信吾の死を無駄にしたくはないのです」
「河井、新井、そちの働きで彦根新田の目論見が明らかになったのじゃ、彦根藩を救う大きな働きであったと感謝しておるぞ、平野(中老)様も時が来れば彼らを相応に取り計らうつもりでいらっしゃる、勿論お主もじゃ!」
「私は只々藩の為と信じ何も分からぬまま動いたのみ……」
「うむ、よくやってくれた、危うくお主まで失うところじゃった、この後江戸でもう一働きと考えておったが、暫くは休むが良いぞ」
宗助が呼び鈴を鳴らし人を呼び何事か伝えた、程なく一人の芸妓が入って来た。
「翔馬、これなるは紗代子と申す」
「……」
「お主の身を暫く預かってくれる」
「ど、どういうコトでございますか……」
「お主は彦根藩でも新田の方でも公には死んだことになっておる、この件が片付くまではそのまま死んだコトにしておいた方が良いと思うのじゃ」
「どうしてでございますか、もう向こうでも生きているのは分かっているはず」
「じゃが、向こうからお主が生きているとは言ってこないだろう、生きていればまずいコトになるからのう」
「さすればこちらから私の生存を知らしめれば、良からぬ企みを止めさせるコトが出来ると言うモノではございませぬか?」
「そこじゃ、お主には悪いがこの機会を利用して悪縁を断ち切る!」
松野宗助(中老相談役)が言うには、このまま彦根と彦根新田藩が分裂となると、必ず将来に同族が争うと言う愁いを残すことになる。 その分裂を企む彦根新田の青木丹膳一党を潰す絶好の機会と捉えたのだ、彦根新田を廃藩として以前の彦根藩に戻すと言うのである。
「多分にこの夏、江戸の花火で何かを仕掛けてくるはずじゃ、殿を亡き者にと斬り込んでくるやも知れぬ」
「それならば私も無くなった者の分まで存分に働きとうございます、また新田の花火は、殿を見物に駆り出すだけのモノではありませぬ、爆薬の可能性も」
「ふむ、たとえ爆薬であってもそれで殿を亡き者には出来まい、必ず人の手が襲ってくると見ておる、江戸ではお主の力が必要になると見込んでおったが、向こうに計画通りやらせるためには、お主は表に出ぬ方が良い、全てが終わった後に復権させようぞ」
「いやいや、是非とも私を江戸に使わせてくだされ!」
「お主の身のふり方は中老様がお決めになった事じゃ、従うが良いぞ」
「……」
「紗代子琵琶を…、気を静めるモノを頼む」
紗代子と呼ばれた芸妓は琵琶が奏でられるのである。おもむろに床の間に立ててある琵琶を取り寄せ、静かに弦を弾いた。松野宗助はじっと目を閉じ暫く聴き入っていたが、やがて紗代子に「頼むぞ」と声をかけ退室した。
翔馬は彦根新田藩から脱走した弥助の保護と、いずれ姿を見せる三郎についても身柄の保証を頼んでおいた。
紗代子については、京の都の島原で芸事修行をしていた者で、そのまま行けば大名の相手も出来る大夫の器量があった、松野宗助の見込みで島原を引き、囲われる…と言っても自由に生きることを許されていた。と記しておこう。
紗代子の家は大黒屋からほど近い武家屋敷の切れた裏通りにあった、表札は出ておらず松野宗助の家紋が玄関の梁に彫られていた。
「翔馬さま、自分の家のようにお過ごし下さいな」
「……」
「多分にそう長くはならないかと思います、ここの暮らしは人生の小休止と…、次への飛躍につながる”間”と思われてはいかがでございましょう?」
「紗代子どのと言われるか、松野さまを信頼されておられるのですね?」
「信頼…… そう思うことも無く自然に接っせられるお方でございます」
「肉親のような信頼関係であるとか?」
「信頼と言う言葉に拘るならば、わたくしは松野さまに限らず、人様は皆信頼のおけるモノと心得ておりまする、権力のあるところに醜い欲悪が栄えるだけ、 以前の私はその様なところに身を置いていたのでございます」
「……」
「そこから救って下さったのが松野さま、逆らえぬ流れで権力に利用され、醜くさに染まる運命から自由に生きられる世界に導いて頂いたのです」
紗代子もまた、生まれ変わるための準備をここでしているのかもしれない。
数日経った夕刻、翔馬がふらりと玄関を出たところに一人の武士が立っていた。
「秋月翔馬!」
静かに言った、殺気は感じられないがどこか強い意志を感じる響きだった。薄暗くなった時間帯に相手の顔はよく見えなかった、無言で見返していると。
「貴殿に少し聞きたいことがある」
「秋月翔馬ではないと言ったら?」
「新井信吾の兄、新井信治郎と申すがお聞き入れ願わぬか」
「なに、信吾の兄君と……」
「作用、ここを知った仔細は話せぬが他言はせぬ」
「信吾が持っていたお守りは別れ際に兄から貰ったものと言っていたが?」
「まさか、お守りを渡した記憶はない」
「いや許されよ、本当の兄君か試したまで。ご無礼を申し上げた」
「拙者の方こそ突然に現れ無礼致した」
二人のわだかまりは消えた、近寄ってみるとあどけない信吾に似た嫌味のない顔も確認できたのである。 信治郎の聞きたかったことは信吾の死の真相である、藩の説明では納得いかなかったのだ。
翔馬は信吾が彦根新田藩の陰謀を伝えるため帰藩途中に高市源蔵の手に掛かったことを話した。また、源蔵が相当の手練れであること、おそらく江戸の花火大会に立ち会う機会があることも伝えた。
信治郎は翔馬に感謝し、その後時々藩の現状を伝えに来てくれた。
そしてある日、こう切り出した。
「翔馬どの、わしと一緒に江戸に行かぬか?」
「……」
「突然の事ゆえよく考えてから決断されれば良いが、わしは三日後江戸へ経つ、極秘の任務を願い出たのじゃ、お主はわしの従者として藩を出る」
「……でも私は自由に動けぬ身……」
新井信治郎は弟信吾の仇討ちを目指している、信吾の死の真相を知っても仇討の申請は通るべくもない、ならば江戸で自由に動けるよう画策したのである。
「心配は無用、わしはお主がここに幽閉されていてはならぬと思ったのじゃ、自分でもここにいるのは不本意と思っているのではないか?」
「ですが」
「安心しなされ、藩を出たらそなたは従者ではない、やりたいようにやればよい、藩とのツナギはわしが取ろう」
「新井どの、かたじけのうござる」
「ははは、新井殿はないぞ、信吾はお主を慕うていると文で寄越している。わしの方こそ、最後の時を一緒に過ごしてくれた翔馬さんに感謝している」
新井信治郎は江戸にて彦根新田藩の動きを見張る密命を受けた、従者を一人願い出たが藩内に極秘とするため人選は任せてもらったのである。
三日後の出発に向けて段取りを話し合い新井は帰って行った。
あくる日翔馬は萬年寺の和尚を訪ねた、両親の墓には綺麗な花が差してあった、線香の煙に身を包むように深々と屈み込み、彦根新田の松吉のことを報告した。
自分の命は多くの人の善行により支えられ生かされていると感謝した、苦しかった思いがよみがえり、皆の顔を思い浮かべると自然に涙が頬を伝った。
ふっと後ろに気配を感じた、胸に浮かんでいた皆の顔に代わり、一番逢いたかった人の顔が浮かび上がったが、涙の顔で振り向く訳にはいかなかった。
「し、しょうま さま……」
背後からの声はまぎれもなく早苗の声だった。
「翔馬さまですね」
翔馬は振り向けずにいた、愛おしく逢いたかったはずなのに、振り向こうとしたらこれまで早苗を避けていた事が急に罪悪感としてこみ上げたのだ。
「早苗さん、すまぬ!」
早苗も一歩も動けずにいた、翔馬の無事な姿を見たら、なりふり構わず背中を抱きたかったハズなのに、見知らぬ土地で一人生死を彷徨ったとき、何の力にもなれなかったことが罪悪感としてその身を止めていた。
「翔馬さま、わたくしこそお詫びを申し上げなければ……」
「なにを言われる!」
翔馬が振り向き早苗を見た、凛とした立ち姿に本堂の観音菩薩を観る様な崇高な美しさを感じた。 早苗もまた翔馬の涙顔にこれまでの苦労を一瞬に読み取り、この方の心労を癒せるのなら身も心も捧げると決心したのである。
だがこの時代である、白昼堂々と男女が抱擁するわけにもいかない、お互いに数か月前とは違う思いを感じながらその場で見つめ合っていた。
「こらこら、おぬしたち、何をしておるのじゃ! この寒い中をいつまでボケ~と突っ立っておるのじゃ!」
和尚が様子を見に来たのだった。
「ほれ、墓参りが終わったなら早う帰ってこんか、わしにも話を聞かせるのじゃ」
方丈の居間で翔馬は和尚から早苗のことを聞いた、献身的に翔馬の無事を祈っていたこと、翔馬が死んだという知らせで入水し、ゴンに助けられたことも知らずにいたのだ。
「翔馬よ、侍とは辛いものじゃのう、生涯を藩のために尽くし、藩のため死ぬることも厭わん、愛に生きられんとはのう……」
「和尚も御仏に尽くし、愛には生きておられぬではありませんか」
「ふむ、そこじゃ、そこが気に入らんからわしは若い者に仏道は勧めぬ、だが世の中の成合は複雑で人間同士の思惑も簡単なものではない、面倒な生き方を避けるなら坊主になるのが良いのかも知れぬがの?」
「諸法無我、わたしが以前に和尚から聞いたこの言葉の意味が近頃少し理解できるような気がいたします」
「さようか、人間は苦労することで万物のありがた味を感じることが出来るものじゃ、よいよい。しかしそれも苦労の去った日常の中では、遠い出来事の様に忘れられるモノでもある、仏道に”日常五心”と言う教えがある」
「……」
「つまらん話を長々しても嫌われるでな、大事なのは感謝の心を忘れるなと言うコトじゃ、死ぬる時に『ありがとう』と言える生き方をしろということじゃ」
「わかりました」
「わかったか? ならばお主、その人生最後の言葉を誰に伝える?」
「……」
「ありがとうと伝える相手は誰じゃと聞いている」
「そこまではまだ……」
「まあ良い、しかしお主は藩に飼われた犬ではない、人として愛する者と自分の身を守り、最後には誰かに感謝の意を伝えられる人生をこれから作らねばの?」
早苗もじっと聞き入っていた、和尚の話を聞いていると翔馬に対する自分の愛に自信を持つことが出来るのである。
翔馬は彦根藩を離れ、江戸に行くことを二人に告げた、一度は藩のために命を懸けると決心した者である、和尚の言う意味は分かるし、早苗の気持ちも良く分かる、何よりも自分が一番に早苗と居たいのだが、彦根新田藩の問題を放っておく訳には行かなかった。
「南無、侍とは辛い、男とは固苦しいモノじゃのう。お主だけの時が過ぎれば良いが、一寸先には早苗殿にも早苗殿の生き方が生じようぞ? ま、後々後悔することが無ければ良いが、身体だけは粗末に扱うでないぞ」
和尚が無言になると方丈にはいつもの静寂が訪れ、鳥の声や風が運ぶ木々の擦れる音までが自然の穏やかな空気を感じさせてくれた。
ゴォーーーン!
参拝の者が撞いたのか、心地よい鐘の音が響いた。