読ませようとは思っていない
趣味の文筆家で、なおかつターゲット層が狭い作者は、だいたいにおいて自分自身が最大の読者である。いわゆる自家発電というやつだ。
だが、書いたからにはちょっと同じ趣味の人を探してみたくなる。
我々狭タゲ層は、読者ひとり釣れたら大勝利なのである。小躍りして喜ぶのである。
相手も作者であれば、自分好み作品が供給される可能性は一気に倍増だ。
一般にニッチ狙いと言われる我々は、そうした密かな望みを胸に、自作を電脳の海に放つ。放ち方はさまざまだろう。
こっそりと、あるいは大胆に。または、まず同好の士を得てから。
だが、多くの狭タゲ層文筆家は、広く万人に読ませようとは思っていない。自分達の特殊性をある程度は認識しているからだ。
もしも、より大勢の人々に読まれる方向性へと舵を切れば、最早自分が読みたいものとは言えなくなるのだ。
読みたくないものを書いたところで、所詮は趣味の駄文製造者である。さらにつまらなくなるだけだ。自分すら読者ではなくなる。
自分が読みたいものを書いている間は、少なくとも自分は楽しい。自分の読みたいレベルに達しなくとも、自分が書いているので当然自分と方向性は同じなので楽しい。なにしろ書く人と読む人が同一人物である。
自らの表現の未熟さにはしばしば打ちのめされる。だが、楽しいのだ。
趣味である限り、楽しくあればそれで良いと思う。更に誰かが楽しんでくれたのならば、もう言うことはない。
読ませようとは思っていないが、読んで欲しいとは思うのだ。そして、似たような思いの人が書いたものを、ついつい探してしまうのだ。
この電脳の大海原に漕ぎ出して、大海に沈んだ針を探す日々は、そりゃもうほんとに充実している。その上針を放り込む作業まで始めてしまった。拾い上げてくれる人が現れてくれたら、日常のあれこれなんか、どうと言うことはない。
あなたがもしも趣味作家で、一般受けを望まず、またニッチとはいえ界隈の支持を得るプロなどには、なれるともなろうとも思わないお気楽なだらだらライターであるならば、私の気持ちがわかるだろう。
もしもわかってくれるなら、画面の向こうで旨い酒でも呑みながら、あなた自身が読みたい文章でも書いて欲しい。
いや、そんなこと、頼まれなくたって、きっともう書いて発表しているだろう。
ターゲットの狭い作者である我々は、もしかしたら、誰よりも幸せな読者なのかも知れない。趣味だからこそ、何のてらいもなく好きなことを書いて好きなものを読んで、それで満足できるのだから。
お読みくださりありがとうございました