悪い夢1
夢を見ていた。まだ何も忘れてはいなかったあの日の夢を。
「あの、月石さん」
「はい? 何でしょ——」
とーや兄さまが月石のおばちゃんに話しかけた瞬間、異変が起きた。
シュン兄から貰ったチョコレートをかじったおばちゃんが、急に倒れたのだ。
何が起きた? 頭が混乱する中、とーや兄さまがテーブルを飛び越えてシュン兄に掴みかかる。
頬をはたく痛烈な音。仲のいい兄のものとは思えない罵倒罵声。
そんなことはどうでもよく、当たり前のことを言うようなシュン兄の言葉が耳朶に響いた。
「チョコに毒を入れただけさ、致死性のやつね」
音が言葉になり、私の頭で無限に反復する。
ドクって、あの毒だよね? 昔話で、リンゴの中に入ってたやつ。チシセーって何だろう? 意味はよく分からない。でも、月石のおばちゃんの状態を見るに、悪い言葉なんだと思う。
毒のせいで、おばちゃんはとっても苦しんでいる。今にも消えてなくなりそうなくらいに。
(助けなきゃ!)
そう考える前に、私はおばちゃんに手をかざしていた。
昔話では、毒は王子様のキスで消えるが、残念ながら私は王子様ではない。もちろん、えらいお医者さんでもない。私がおばちゃんを救うには、魔術の力が必要だ。
(よしっ、やるぞ!)
覚悟を決めて、魔力を掌に流し込む。瞬間、そこが黄金色に輝きだした。
これは健康祈願の魔術。病や毒、身体をむしばむ全てのものを邪と定め、破邪顕正の光でもって、これを鎮める。
極めて古く、それゆえに絶大な効果を持った魔術の一種。
唯一問題があるとすれば、私はこの魔術を今まで成功させたことがないということだ。
でも、この問題は簡単に突破できる。要は今、初めて成功させればいいだけだ。
「あま、き……さま?」
毒に苦しむおばちゃんから、疑問の声が漏れる。魔術を知らない彼女にとって、この光は理解できない怪異だろう。だけど、この疑問の声は多分、それじゃない。
「……ひどい、顔」
か細い声。いや、泡とよだれに汚れた口が、微かにそう動いたに過ぎない。声と呼べるような確かな音は、もうその口から出てこない。
そして、彼女はそんな状態になりながらもなお、私の表情を気にしたのだ。
きっと私は、それほどに惨い顔をしているのだろう。
腕へと流す魔力の量が限界を突破して、私の全てを蝕んでいく。何回か体験したことがある。大きな魔術を使う時の反動だ。
この苦しみに、この痛みに、この恐怖に、この狂気に耐え抜いた先に、魔術師の栄光が、月石のおばちゃんの救出がある。
魔力の奔流が血管を焦がし、肌が血に染まっていく。緊張感からくる汗と、恐怖からくる涙、狂気からくる血が混ざりあい、壮絶な表情を彩る。
薄い赤色が視界を染め、掌の光が見えなくなる。それでもまだ、止まるわけにはいかない。
「「あ、あああ、あ────!」」
腕に更なる魔力を流そうとした瞬間、赤色に染まった視界の端で何かがきらめいた。
光ったのは、スプーンとフォークとナイフが一緒くたになった食器。その持ち主と私で、咆哮が重なった。
食器の持ち主、とーや兄さまは、私の同じような必死の形相で、食器を振り下ろす。
一瞬、おばちゃんを助ける手伝いをしてくれると思ったが、そんな希望的な観測は一瞬で崩れ去った。
兄さまの食器が、私の手を切りつけたのだ。
予想だにしなかった痛みに呻くと同時に、強烈な頭痛が襲い掛かってくる。
理解不能の激痛。魔術の狂気と同等かそれ以上に苦しい何かが、私から大切なものを切り裂いていく。
大切な縁を奪っていく。
(ダメ、それは!)
奪われたものを取り返そうと手を伸ばすが、略奪は私の頭の中でしか起きていない。空を掴んだ手が、虚しく地に落ちる。
(あれ、私は何を?)
身に覚えのない全身の痛みと、言いようのない喪失感が全身を包み込む。
キョトンとした状態のまま、周囲を見渡した。
ボロボロになったとーや兄さま。乱れた服で、笑っているシュン兄。乱暴に荒らされた机と椅子。そして、隣で倒れている見知らぬ女の人。
何が起こったか、どうして覚えていないかは分からないが、状況から推測することはできる。
きっと、兄さまたちが、突然現れた悪い大人から私を守ってくれたのだろう。泡を噴いて倒れているが、きっとこの女の人が悪い人なのだ。
酷いことされなくて良かった。
そんなことを思った直後、私は女の人がなした悪行に気づく。
「あ、ああ」
プリンが、私の大好きなプリンが、床に散らばっている。なんて悪逆非道な行為なんだ。悪い女の人、許せん!
そんなことを思いつつ、私はカップの中に残った無事なプリンを探していく。
そうしているうちに、多くのプリンをダメにした悪党は、静かに息を引き取った。