16:鬼面と命
「春秋様は行かれましたか?」
「ん? ああ、今、姿が見えなくなったとこ」
平伏したままの魔術師に、答えを返す。すると、魔術師は頭を上げて、俺の方に向き直る。
「あの男の道楽に付き合ってやる必要はない。学生は帰って勉強してろ」
「はい?」
今までの丁寧な口調がウソのように、投げやりな口調が飛んできた。
「『はい』と言ったな。よし帰れ。すぐ帰れ。いま、帰れ。そうすれば仕事が減る」
「『はい』ってそういう意味じゃねえよ! っていうか、今帰ったら、あいつと会うことになるぞ、俺!」
「ちっ!」
激しくツッコみを入れた俺に対し、鬼面の魔術師は激しい舌打ちで答える。
さっきまで、仕事のできるOL みたいな感じだったのに、そのイメージは今、完全に崩壊している。
「別に、あの魔術使いなぞ、放っておいてもいいだろう? 貴様の力量をみるに、知識さえ得られれば、もうあの女に協力を仰ぐ必要はないと思うんだが」
「ついこの間、魔術の存在を知ったばかりだぞ、俺!? 力量も何もあるか! ほとんど、一般人だよ」
テキトーなことを言って仕事から逃れようとする魔術師に、俺は、悲しくなる正論で応じる。
魔術の基本的な理論も、今日知ったばかりだ。そんな俺に対し、力量もクソもない。
しかし、鬼面の魔術師は、いかにも意外というような声をだした。
「その左腕を持ちながら、一般人を自称するか? 何のつもりだ?」
その声に、その言葉に、身体が震えた。
こいつは、知っている。分かっている。
「その左腕を使えば、あの魔術使いどころか、大半の魔術師を倒すことができるはずだ。違うか?」
土曜日。餓鬼道で解放された樹木の巨腕。初めて行った異世界で遭遇した小枝が持っていたものと同じ怪腕。
俺にも、雨季にも、その正体は分からず、今日も、あれに関する話題は避けていた。
眼前の魔術師は、それのことを言っている。
「あんた。こいつが何なのか、分かるのか?」
「詳しいことは知らん。だが、感じる力は、最高神の信仰にすら匹敵する。何なんだ、それ?」
左ひじを押さえながら質問すると、逆に質問を返された。
「分からない。異世界に行っている時、いつの間にか生えていた。制御も効かないし、使えるもんじゃないさ」
「ふーん。怖がっているな、貴様」
俺の険しい表情を見て、魔術師が呟く。
「分からないこと、すなわち未知とは、恐怖そのものだ。理解しようと歩み寄ることすら忌避したくなるだろう」
妙に実感がこもった声が聞こえてくる。
そうだ。俺の腕。そこに植え付けられたナニカを俺は怖がっている。
腕以外も同様だ。
魔術に対する無知。
異世界に対する未知。
一樹に対する無理解。
その全てが、鳥肌が立つほど恐ろしい。
でも、だからこそ。
「だからこそ知りたい。そして、教えてくれるやつ。分かんなくても、一緒に考えてくれるやつを俺は知っている」
「ほう」
知ろうとすれば、未知が近づく。それは、更なる恐怖と無理解を呼び覚ますだろう。それでも、その先にある理解を、成功を求めるなら、足を止めるわけにはいかない。
「俺からも頼む。俺を雨季に会わせてくれっ!」
言って、魔術師に頭を下げる。魔術師は一度頭を抱えたあと、呟いた。
「これを断るのは、〈正義〉の矜持が許さないな。覚悟ある者の意思を曲げてまで、安全な場所へ導くのを、〈正義〉とは言わない」
〈正義〉の魔術師の呟き。その内容はよく分からない。〈正義〉のために狂った彼女が何を思っているのか、それは、他人の推し量れるものではない。
「分かった。病院に連れては行くが、気をつけろよ。あのクソ上司が意気揚々と何かを企んでんだ。絶対にロクなことにはならない」
……魔術師の社会って、ものすごくブラックだったりするんだろうか?




