3:怪物と命
「立ち上がって! すぐにここから逃げるわよ。この世界の暴力が、こんなところで終わるとも思えない」
直後、濁流の中から腕が生えてきた。最初に俺を襲ったのと同じものだ。
腕は、崖の淵をつかむと、そのまま上へあがってくる。胴体に両腕、さらには、図体には似合わない細くて長い脚もついている。
それだけならば人間の体と大して変わらないが、異様なのは、そのサイズ。脚はそれだけでひとの身長と同等にあり、先端が獣の爪のように鋭い腕は、すねとおぼしき部分にまで伸びている。
頭にあたる部分には目も鼻も口もなく、申し訳適度の球体がくっついている。
そして、それらは全て、直径十センチほどの極太のツタで構成されていて、常に蠢いている。もとの小枝は、腰のあたりにくっついているようだ。
総じて怪物というには、十分すぎる、異形の身体だ。
「一字咒! 急急如律令!」
隣で雨季が叫び、投げつけた紙が爆発して、怪物をのけぞらせる。
「逃げるわよ!」
手を引っ張られて、俺は雨季に連れられて、崖の奥側へと走り出す。
怪物は、先の爆発がなかったかのように、こちらに向かってくる。
濁流よりは遅い。頑張れば逃げ切れそうな速さだ。
「速く! 追い付かれたら、おしまいだと思って!」
雨季は地面に落ちた細かい枝や、木の根を器用に避けながら、崖の上を駆けている。俺もそこについていく形で走っている。
徐々にではあるが、怪物との距離は離れてきている。このまま行けば逃げ切れる。
そう考えた矢先に、
「うわぁ……」
「くそっ」
眼前の光景に、雨季は嫌な顔をして声をあげ、俺はたまらず悪態をつく。
谷。こちらの足を阻むように、谷が横一直線に伸びている。後ろからは怪物。しかし、前には道がない。分かりやすい詰みだ。
「嘘だろ……どうすれば」
「ねえ、口を閉じてくれる?」
そう言われて、俺の言葉が遮れる。その直後には胸倉を掴まれていた。
「は?」
「そうじゃないと、舌を噛むかもしれないから、ねっ!」
世界が回る。どうやら投げられたらしい。柔道の技的な感じではなく、ボールみたいに投げられた。二メートル以上はあったはずの谷を越え、向こう側に着地する。
着地の衝撃が体を突き抜ける。投げられた驚きもある。それより、
(あいつを助けなきゃ……)
すぐに怪物が来る。雨季も谷を越えなければならないはずだ。
そう考えて、谷の向こうに向かって手を伸ばす。
案の定、向こうもこちらに向かい手を伸ばしていた。しかし、それは雨季の、人間の腕ではなかった。
左手を伸ばした先にあったのは、怪物の巨腕。爪のように研ぎ澄まされたツタが、俺の腕、そしてその先にある首へと伸びていた。
祈るように両の手を合わせていた雨季も、驚いた表情を浮かべている。
ガタ……トン、……ンゴトン
怪物の爪の先と俺の首の距離は、およそ十五センチ。もう、何をやっても避けられない。
ガタンゴ……、ガタン……ン
「ダメッ」
雨季の体当たりにより、怪物の身体がのけぞらされる。
ガタンゴトン、ガタンゴトン
怪物が足を踏み外し、谷の底へと呑み込まれる。首に向けられていた爪が、俺の左腕をかすって落ちていく。
ガタンゴトン、ガタンゴトン
そして、
『電車が参ります。黄色い点字ブロックの内側まで、下がってお待ちください』
気が付くと、駅のベンチに座っていた。昔の夢を見ていた時と、同じ場所だ。目の前に電車が入ってくる。時刻は7時過ぎ。電車の中には、何人も人が乗っている。
「さっきのは……夢?」
「夢よ」
困惑する俺の声にかぶせるように、少女の声が響いてくる。先頭車両の方から夢で見た白メッシュの少女が歩いてきている。
「あなたが見たのは、何もかもが夢。そうしておくのが、一番幸せな選択よ」
意味の分からないことをいいながら、少女は俺の目の前を横切っていく。
目の前に電車が来ているのに乗り込もうとする気配はない。
「それと、もうこの時間に駅に来ない方がいいわよ。また巻き込まれても、助けてあげないから」
もう一度声が響いた時には、戸門雨季と名乗った謎の少女の姿は、どこにも見当たらなくなっていた。