2:小枝と命
チクチクと、顔に触れるものがある。虫か何かが体の上を蠢いている時と同じ感覚だ。もしかしたら、いや多分、本当に虫が顔の上を這っているのだろう。
「うっ、う~ん」
そんな微妙にくすぐったい感覚が俺の意識を目覚めさせる。最悪の目覚めだ。虫とかそういうの以前に、電車の床に寝ていたせいで、地味に体が痛い。
軽く手を動かして、虫をはたき落とし、重たい体を持ち上げる。雨季と話していたときに訪れた急な眠気は、完全に消え去った。
我ながら、随分と非常識なことをしたものだ。電車の床で寝る高校生って、俺が初めてなんじゃないか?
座席を手すり代わりにして立ち上がって、周りの様子を見てみる。相変わらず人は誰もいない。車窓からは森の景色が見えるが、電車は動いてなさそうだ。あと、駅でもないのに扉が開いている。
「ん? 小枝?」
足元を見てみると、小枝が一本落ちていた。風に乗って運ばれてきたんだろうか。何の気なしに拾おうとした瞬間、小枝がそれを避けた。
風はない。拾おうとする俺の手を、小枝が自発的に避けたのだ。よく見ると、小枝には足がついていた。植物に擬態する虫の話はよく聞くが、その類だろう。
「ってことは、俺の頭で歩き回ってたのはお前か」
そう呟いた直後だ。小枝みたいな虫から、巨大な腕が生えてきたのは。
「……………………は?」
脳の処理が追い付かない。小枝からいきなり極太のツタが伸び、それが幾重にも絡まりあい、腕と五指の形となったのだ。本当に、イミがワカラナイ。
心臓が飛び上がり、それに呼応するように後ろへ飛び退く。瞬間、破壊が舞い降りた。
動作を示すなら、小枝が巨腕を振り下ろしただけ。しかしそれは、強化ガラスの窓を粉々に砕き、俺がさっきまで立っていた床を、豆腐のように抉り取った。
「はぁ! は? はあああああ!?」
驚愕、呆然、絶叫、発狂。いきなり訪れた生命の危機に、それらが一気に俺の頭の中に押し寄せる。
嫌だ。死にたくない。何が起きた? 分からない。わからない。ワカラナイ。怖い。
死の恐怖と無理解の暴力が、俺をその場から逃亡させる。
小枝はさらに、胴体ともう一方の腕をツタで生み出し、俺に襲い掛かってくる。
二回目の攻撃を避けながら、俺は電車から飛び降りる。電車は停まってはいるが、電車の床と地面とではそれなりの距離がある。着地の衝撃が両足に響くが、それにかまっている余裕はない。
元小枝の樹木の化け物は、電車の壁をぶち壊し、こちらに向かってくる。追加で、更なる超常が俺に襲い掛かってきた。
森が攻めてきた。
シェイクスピアの作品のクライマックスの様だが、そうじゃない。木の枝を隠れ蓑にした人が動いているのではない。実際に森が、意思を持ったかのようにツタを伸ばし、先の樹木の化け物と合流し、押し寄せてきたのだ。
破壊の奔流。そう形容するしかないツタの濁流は、電車を呑み込みつつ、俺の方に向かってきていた。
「う、うわああああぁぁぁぁあ!!!」
絶叫し、一目散に逃げる。あれに捕まったら死ぬ。確実に死ぬ。絶対に死ぬ。
理解できたのはそれだけ。しかし、そのたった一つの理解は、恐怖と絶望を生むのには十分すぎる。
必死に足を動かして、濁流から逃げる。幸い、俺より前の森は動き出してはいない。濁流が近づいてからやっと、巨大なツタを伸ばしている。挟み撃ちになることはなさそうだ。
しかし、濁流は速い。どう考えても、人が逃げ切れる速度でない。どうあっても吞み込まれる。ここで死ぬ。そう感じた瞬間、
「掴まって!」
声が響いた。見ると、先ほど電車で話した少女、戸門雨季が低めの崖の上で手を伸ばしていた。必死にジャンプをすれば、ギリギリ届きそうな高さだ。
考える暇もなしに、思い切り飛び跳ねて、その腕に手を伸ばす。雨季が俺の腕をしっかりと握りしめ、引っ張り上げた瞬間、破壊が押し寄せた。ツタは崖の側面の岩肌を削り、俺の左の靴を吹き飛ばす。
しかし、それだけだ。濁流は崖の上へは押し寄せず、俺がさっきまで歩いていた場所を真っすぐに突き進んでいる。
とりあえず、生命の危機は脱した。
そう考えて安堵する俺の前に影が差す。
見ると、土で制服を汚した雨季が、こちらを見下ろしていた。
「あなた、ミコト君、だったわよね? あれに何をしたの? こんなことになってるのを見たのは、初めてなんだけど……」
「別に何もしてねえよ! ただ、顔についた虫をはたき落としただけだ」
「……それは十分になにかをしているわね」
言い訳をする俺に、雨季は呆れたような声をかけてくる。
「いやっ、でも何の説明も無しにここに来たんなら、こうなるのも必然か」
一人納得したような顔をしながら、呟く雨季に俺は非難の目を向ける。
とりあえず、説明してほしい。ここが何処なのか。お前は何者なのか。あの樹木の怪物は何なのか。そして、どうしたら帰れるのか。
しかし、それを問う前に、雨季が声をかけてきた。
「立ち上がって! すぐにここから逃げるわよ。この世界の暴力が、こんなところで終わるとも思えない」
直後、濁流の中から腕が生えてきた。