12:いく姉の命
「そろそろかしらねぇ。ちょっと、スマホで今何時か見てくれる?」
「異世界でまともにスマホを使えるんですかね。えっと、6時97分って書いてあります。ってなんじゃこりゃぁ!?」
「時間を100で繰り上がる単位に変更したいって願いが具現化したんだから、それであってるわよぉ。7時まではあと3分ってところかしらぁ?」
そういえば、電車内でそんな話をしていた。たしか、60で繰り上がる時間の単位を無理矢理100で繰り上がるように変えて、割増された40分を、異世界の夢の中で過ごすってやつだったか。
この夢を作り上げた、その願いをそのままとるなら、俺たちはこの世界の中で、37分過ごしていて、あと3分で、駅に帰って起きることができるのだろう。
そう考えているうちに、一の位の7が8になる。帰還まで、あと2分だ。
「そういえば先輩。結局あの水、大丈夫だったんですか?」
「えっ、ああ、へーきへーき。あれから、結構時間が経ってるけど、体には何ら影響がないわぁ」
俺の質問に、生枝先輩は体を大きく振って答えた。その動きはまさに、健康体そのものだ。まあ、頭のしたで何かが大きく揺れてるけど。
「実際、命君をからかうために、あの場ではあんなことを言ったけど、あの時点で、ここがどういう場所なのかは想像がついてたからぁ。100%とは言わないけど、十中八九、問題ないとは思ってたわよぉ。まだ、その時じゃないもの」
「はあー」
先輩の笑顔に俺は大きく肩を落とす。しかし、彼女は近い内に同じようなことをするだろう。
魔術師を名乗る彼女は、自らの願いのためならば、生命を懸ける。
今日助かったのは、この異世界の危険性が低かったから、そして、妹を助けるのに、まだ生きてた方が、都合がいいからだ。
スマホの画面が変化する残りは一分だ。
ガタンゴトン、ガタンゴトン
「帰ったらさ、一緒に公園にいこうよぉ。一樹の写真を見せてあげる」
「ああ、それは気になります。いく姉の妹なんだから、すごく可愛いんだろうな」
「はい、いく姉いただきましたぁ。本日三度目! 羽振りがいいねぇ」
「ははっ」
茶化すいく姉に、俺は力のない笑いを見せる。昨日の今日で二つの異世界を旅し、幼馴染の知られざる秘密を知った。流石にちょっとくたびれている。
ガタンゴトン、ガタンゴトン
どこかから、電車の音が聞こえてくる。そろそろ起きて来いという合図だろう。
「あっ、そうだ! 現実に戻る前に一つだけぇ」
慌てた様子で、生枝先輩が口を開く。それ、今じゃなきゃダメなやつか?
「アマキ、戸門雨季さん。あの子はすごいお人好しだから、また何かあったら、頼るとい———
『電車が参ります。黄色い点字ブロックの内側まで、下がってお待ちください』
電気が、空が、風が、生命の鼓動が戻ってきた。見慣れた駅。見慣れた電車。横には、幼馴染の顔。俺たちは駅のホームのベンチに座っていた。
「戻ってきた……か」
自らの生存を確かめるように、そう呟く。前回と違い、目に見えた生命の危険はなかったが、それでも、怪物が現れるかもしれないと思いながら過ごした40分は、意外と精神を消耗させていたらしい。
「生枝先輩も無事でよかったです」
さりげなく、しかし、しっかりと隣の女性の手を握る。意地でも、ここではいく姉だなんて呼んでやんない。
そして、気づいた。
「ん、先輩?」
先輩はまだ眠っている。そして、そこにあるはずのものがなかった。
思わず、手を握る力を強める。ない。
手を移動させ、手首に触れる。だめだ、ない。
今度は、手を持ち上げ、両手を使い確認する。だめだ、ない、ない。ありえない。
脈がない。
「ウソだ! だって先輩、大丈夫だって。そう」
席を立ち、先輩の肩を掴み、頭を揺らす。
「先輩、先輩、生枝先輩、丸先輩! いく姉! いく姉! いく姉ええええぇぇぇぇ!!」
反応はない。何も起きない。叫んでも、揺らしても、聞こえない。気づかない。分からない。
叫んで、叫んで、叫びつくして、それでもいく姉は目覚めない。
返事はない。ただの■のようだ。
「うっぷ」
口を押さえる。喉の底から込み上げてくるものを抑えるために。
手を離した反動で、先輩の身体がベンチから転がり落ちる。さっき、本当に、ついさっきまで、大切な先輩だったものだが、それを気にする余地すら今の俺には、存在しない。
ダメだ。イヤだ。理解するな。認めるな。納得するな。無理解を貫け。そうしないと、壊れる。
「あーあ、死んでるわね、これ。脈もないし、そもそも、魂がどっか行っちゃってるわ」
口を押さえて、地面に縮こまる俺に、少女の声が降りかかる。昨日会った白メッシュの少女、戸門雨季の声だ。
その言葉が、その理解が、呪いのように俺を壊す。
「あ、ああ、あああ、ああああああああああああ」
「これで分かったでしょう? あなた踏み込んでしまった場所は、こういう場所なのよ。巻き込まれたくなかったら、今起きたことは忘れなさい」
絶叫する俺に、少女は氷のような声をかける。言葉が絶望になって、心を突き刺す。それでも、雨季は口撃をやめない。
「〈接続〉の魔術師に言われたこと、異世界で見たこと。全てを忘れて只人として暮らせば、あなたは幸せに終われるわ。わたしには忘却の魔術は使えないけど、あなたが、その道を歩むことを祈ってる」
それだけ言って、雨季はその場を後にした。
俺は、駅員が来て、救急車が呼ばれ、その遺体がタンカで運ばれるまで、全く動くことができなかった。
戸門学園 生徒資料①
Sクラス
丸 生枝 享年18歳
家族構成:父、母のみ 兄弟、姉妹はなし
多少不思議な言動が見受けられるが、頭がよく活発な女子生徒。しかし、一年ほど前から、存在しない妹の存在を主張しており、虚言癖の可能性あり
Sクラスの活動は秘匿されていて、その内部での活動に関しては資料がないが、所属するオカルト研究部での言動は安定していたらしい。
しかし、今年六月、戸門学園駅にて、心臓発作を起こし昏睡。ベンチに座っていたため、発見が遅れたのと、気が動転した部の後輩の行動により一次救命が間に合わず、搬送された病院で死亡が確認された。
先述した部の後輩は、後にあの事件に関わることになる少年だが、故人と事件との関連は不明。