1:出会いと命
ガ…………トン
夢を見ていた。まだ何も狂ってはいなかった、あの日の夢を。
ガタ…………
「ミコト君は補習ね! さぼらずにしっかりと来ること」
手渡されたテストには、大きく39点と書かれていた。
補習の対象は40点以下。ギリギリアウトだ。
「くっそーーーー、そんなに間違えてたかなぁ?」
僕は悪態をつきながら、返された算数のテストを見つめる。
計算間違い。考え方の間違い。単位の付け忘れ。
いかにも、僕がやらかしそうなミスだ。
そんなミスの中でも、目を引いたのは最初の一問。
『問一:0.2時間は何分か』
『答え:20分』
大きくバツがついている。当たり前だ。間違えたんだから。
1時間は60分なんだかたら、数字の小数点をいじっただけじゃ答えにならない。
そんな当たり前のこと、二つ下の学年の子だって知ってることだけど、テストではスッポっと頭から抜けてしまったのだ。
これが、二点問題。ここをミスらなければ、補習は回避できたという事実が僕の肩に重くのしかかる。
誰だよ! 時間の単位だけ60で繰り上がるように設定したやつ! メートルとかグラムみたいに、100や1000で繰り上がればいいだろ! お前のせいで貴重な放課後が潰れるんだぞ! ほんと、死んでしまえ!
いやっ、多分そんな昔の人はとっくに亡くなってるんだろうけども……
頭の中でそんな八つ当たりをしながら席に着く。すると、
「くっそーーー、どこを間違えたんだよ!」
先ほどの僕とほとんど同じ悪態が聞こえてきた。前を見ると、お兄ちゃんが、信じられなさそうな顔で答案を見つめている。
点数は98点。唯一間違えたのは、問一の時間の問題。
こちらに点数が見えるようにしているあたり、新手の自慢のようにも思えるけど、悔しそうな顔は、本当のようだ。
ガタンゴトン、ガタンゴトン
肩を落として席に戻るお兄ちゃんと目が合う。こちらの答案を見たお兄ちゃんの目が、「お前もか」と訴えてくる。
ガタンゴトン、ガタンゴトン
音がする。すぐ近く、けど、すごく遠い場所から。
「あれ? 何か聞こえない?」
「いやっ、気のせいじゃないか? そんなことより……」
ガタンゴトン、ガタンゴトン
「お前は補習、頑張れよ」そう励ますお兄ちゃんの声が届かない内に、僕の意識は浮かび上がって、どこかへ飛んで行ってしまった。
※
ガタンゴトン、ガタンゴトン、プシュー
『戸門学園、戸門学園、次は、■■■に停まります』
電車の停まる音と、そこから聞こえるアナウンスが、俺を夢の世界から引きずり戻す。
まだ覚醒しきってない頭で前を向くと、目の前で電車が扉を開けていた。
(やっべ、乗り損ねるところだった!)
無理矢理に意識を起こして、駅のベンチから、電車の中へ駆け込む。いわゆる駆け込み乗車というやつだが、周りには誰もいないから問題はない。
焦ったせいで乱れた呼吸を整えると、背後で扉の閉まる音が聞こえてくる。まさか駅のベンチで夢を見るほど眠りこけるとは、夢にも思わなかった。
いやっ、実際夢は見たんだけど。
随分と懐かしい夢を見ていた。小学校の算数のテストで補習を食らった時の夢。普段は嫌味で気に食わない双子の兄と、あの時はお互いに傷を舐めあったものだ。
そんな懐かしいけど、どうでもいい記憶。今はもう高二だし、彼これ五、六年前の記憶だろう。なぜそれを夢に見たのかはわからないが、夢とはそういうものだろう。
電車が動き出し、体が揺れる。その衝撃が、俺の意識を夢の回想から現実世界へと引き戻す。そして気が付いた。
(あれ? 誰もいない)
まぁ、誰もいないのは乗車の時に気が付いてはいたんだけど……、それでも人がいなさすぎる。周囲どころか、この一両には人っ子一人見当たらない。
学園の生徒しか使わないような駅で、下校時刻より遅い時間に乗ったのは確かだが、それでも人がいなさすぎる。遅いと言っても高々7時過ぎ。部活帰りには遅いが、町が寝静まるには、余りにも早すぎる。
「まさか間違えて、回送電車にでも乗っちまったか?」
呟きつつ、他の車両へ移動する。あの駅が終点の電車なんて聞いたこともないし、大丈夫だとは思うが、それでも他の人がいないと、不安になる。
扉を開けて、ひとつ前の車両に入る。誰もいない。漫画アプリの広告が変に目につく。
次の車両に入る。誰もいない。知らない小説家の新作が大々的に宣伝されている。
次の車両。誰もいない。文字で埋め尽くされた週刊雑誌の広告は、見る気を無くす。
そして次の車両。先頭車両だ。扉の窓から覗かれる景色には、案の定、誰も映ってはいなかった。
マジで電車を乗り違えたんじゃないかという不安を覚えるが、意を決して扉を開ける。その時である。
「え?」
「え⁉」
ほとんど同時に二人の声が響く。二つ目は俺。一つ目は、扉の死角、すぐ近くの座席に座っていた少女のものだ。
同じ学校の制服。夜のように暗い黒髪に三本の白メッシュが浮かんでいる。
校則違反だろ、それっ?
「あなた、誰?」
こちらの困惑を他所に、少女はこちらの顔を覗き込んでくる。
「えっと、俺はミコト、木村命だ。2年D組の」
電車で会っただけの他人に名前を聞くか? 普通?
そんなことを考えつつも軽く自己紹介する。木村命。女性的な名前だが、一応男だ。こっちも制服を着てるんだし、自己紹介はこれで十分だろう。
「D組? どこの学校の?」
ダメだった。こいつ、同じ学校の異性の制服を知らないのか?
「あんたと同じだよ。それで、あんたは?」
多少イライラとした声音で自分の制服を示す。背丈からして一年のように思えるけど、これで少女が先輩だったら土下座する。そんなことを考えていたら、また予想外の答えが返ってきた。
「アマキ、戸門雨季。Sクラス」
「いや、学年は?」
「学年? 何それ?」
こいつ不思議ちゃんかな(疑問)? 不思議ちゃんだな(確信)うん、不思議ちゃんだ(断定)
最初の名乗りで学年を言わないのはまだいい。こっちが年齢を気にしてるのは、少女、雨季には伝わっていないのだから。
しかし、聞かれた後に「何それ?」はおかしい。しかも、戸門って学園創業者の家系じゃねえか! なおさら覚えてろよ、制服。
と、初対面の相手に言うわけにもいかないので、頭の中でツッコむ。しかし、表情に考えが滲んだのか、雨季はキョトンとした顔でこちらを向いている。
「それで、ミコト……君? 今は何時だか分かる?」
学年に関する質問の答えが返ってこないのを受けて、雨季は新たな質問を口にする。
「7時過ぎじゃねえのか。駅で寝ちまったから詳しくは分からないけど、そん位だと思うぜ」
居残りを終え、学校を出たのが6時50分。駅に着いたのは、その5分後。感覚的に居眠りも大した時間はしてないはずだから、今は、7時位のはずだ。
しかし、その答えを聞いた雨季の顔は暗い。
可哀想なものを見るような目でこちらを見つめている。もしかして俺、そんなに長い時間居眠りしてた?
「7時になるのはまだ先よ。多分、あと30分位じゃないかしら」
真剣な声音で雨季が告げる。ってことは今、6時半? いやっ、学校をでた時間は正確に覚えている。そんなわけはない。
『まもなく■■■、■■■に停まります。電車が揺れますので、ご注意下さい』
アナウンスが聞こえた直後、雨季がスッと立ち上がり、俺の目の前で手をはたく。
「どうやら部外者が紛れ込んじゃったみたいね。安心なさい。これはただの、悪趣味な夢だから」
声が響いた瞬間、瞼が急に重くなった。なんとか意識を保とうとするが、その前に膝が折れ、倒れる体を雨季に支えられる。そのままゆっくりと体を横たえられる。
『■■■、■■■。開く扉にご注意ください』
「ごめんなさい。これは私の不手際。何も知らず、何も見ずに、元居た場所に戻りなさい」
ドアが開き、足音が響く。その音が遠ざかるたびに、俺の意識は昏い闇の中へ、落ちていった。