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東京彷徨録  作者: 柚子木百合
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1話~新宿にて

 新宿駅。一日の乗降車客数が、東京で一番、いや日本で一番、もしかしたら世界で一番多い駅。


 社会人になって下宿を出て、自分の住む所をある程度は自由に選べるようになった時、私が候補に決めていたいくつかの中にあったのがここ、新宿である。親や友達には、いやいや女性がそんな所で独り暮らしなんて、犯罪も多いし空気も悪いし、などと色々な意見を頂戴したものだが、私は聞く耳を持たず、そこそこの時間と労力をかけて今の住処を見出した。他にも候補地はあったのだが、一番真面目に探したのは間違いなく新宿であった。その努力の根幹に、初めて西新宿のビル群に出くわした時の得も言われぬ驚きと感動があったことは、否定できない。


 新宿を散歩するのもそれはそれで良いものなのだが、今日の気分はちょっと違う。せっかくズルして頂いたお休みを、近所の散歩に費やすのはなんだか勿体ないような気がする。それに、近所の散歩なら駅まで歩いて来なくても良かったのだ。とはいえ、どこに行ったものだろう。頭の中だけでうんうんと唸りながら歩いているうちに、西口改札のすぐそばまで来てしまった。えいっと改札をくぐってしまい、駅中で迷ってもいいのだが……

 と、ここまで来て私は大事なことに気付き、思わずつぶやいた。

「お腹減った……」

 腹が減っては戦はできぬ。どこに行くかを決めるのは、戦の準備をしながらでもいいだろう。


 西口改札からほど近く、メトロ食堂街にひとまず駆け込む。最悪はコンビニでゼリー飲料を買ってもいいのだが、ズル休みの日に忙しい現代社会の象徴のようなご飯にしなくてもよかろう。時は金なり、しかし急ぎすぎない程度に、戦の準備だ。

 メトロ食堂街―昭和の香りが残る食堂街。残念ながら本物の昭和の香りを嗅ぐには生まれるのが遅すぎたが、色々なことを総合すると、これが昭和の香りなのだろう。ちょっと背の低い天井。こじんまりとして、でも没個性的ではない店舗群。新宿という変わっていく新しさの中にポツンと残ったこの空間を初めて見た時、なぜだか少し嬉しかった。

 そんなことを思い出しながら、いつも入っているお店を見ると、どうもたまたま満席のようだった。暇を持て余したご老人たちが、横一列に咳を埋めている。むぅ、平日の昼間だというのに、ついていない。やや恨めしい気持ちになりながら、席を埋めて歓談しているご老人の一行を横目に踵を返す。私もあれくらいになったら、平日昼間にもっと悠々と散歩を出来るのだろうか。まぁ、今のような生活を続けていては、少なくとも彼らのように老後も話せる仲間は出来るまい。


 あちこちとお店を見てみたが、混み具合と今のお腹にピンと来るもののバランスを取っていくと、私が入れそうなのはお蕎麦屋さんくらいだった。立ち食いの。せっかくゼリー飲料をやめた結果がこれとは。忙しさの象徴的存在という意味では、あまり変わっていないかもしれない。

 まぁ、こっちは固形食。流動食に比べれば段違いで食べた感がある。しかもこのお店は味はそこそこ保証できる。頂いたどんぶりをカウンターに置き、頂きますと小さく声に出し食べ始める。寒い季節に温かい麺は、やっぱりいい。お汁の温度が精神にも染み渡ってくるようだ。

 お腹の減りが少しずつ収まっていくのを感じながら、隣をちらりと見る。コートを着て、カバンを足元に置いた、いかにもサラリーマンという格好。出先から戻る途中のお昼なのだろうか。私は仕事といえばオフィスの中から出ないもので、あらぬ想像をしてしまう。オフィスは新宿からそう遠いわけでもないが、お昼休みの間に来て戻るのは、ちょっと難しい。平日仕事をしていても、ここの空気を吸える彼を、少し羨ましく思う。

 そんな私の視線に気づいたのか、彼は少し横に退いた。いけない、ちょっと見すぎただろうか。すみません、別に邪魔だったとかじゃないんです。ただ少し、私の怠惰を棚に上げて貴方を羨ましく思っていただけなのです。口には出せるはずもなく、心の中で謝りながら、少し会釈して僅かに横にずれる。私の本意でなくても、彼の優しさを素直に受け取るのがそれに報いる唯一の方法だろう。


 申し訳無さに少し背中を押されながら、お蕎麦を食べ終わる。心優しい企業戦士は、私より一足先にカウンターを去っていた。彼は会社でも、隣の人に少しスペースを譲る優しさを皆に見せているのだろうか。それは皆に評価されているのだろうか。実のところは何も分からないが、そうだといいなと思う。

 ごちそうさまを言ってお店を出る。思えばご飯を食べに来たのは、どこに行くかを決めるのも兼ねてだったはずなのだが、結局非生産的な思索で頭を埋めて、何も考えていなかった。こうなっては、やはりエイヤで決めるしかない。中に入ってから、そこで決めよう。定期を手に取り、電子音とともに改札をくぐる。

 一番利用客数が多いということは、乗り入れ路線が多いということでもある。つまるところ、行きたいところは選びたい放題に近いのだが、今の私にとっては却って頭を悩ませる原因だった。元々100%の正解などありはしない、気分に合わせてそれっぽい場所を選ぶくらいしかできはしないのだ。

 中野や吉祥寺といった、東京の西の雰囲気は嫌いじゃないが、今じゃない。勢いに任せて熱海あたりの都外まで行くのも面白くはあるだろうが、私が今したいのは小旅行ではなく散歩だ。うーん。うーん……

 いかん。このままでは、構内だけで一日が終わってしまいそうだ。こうなったら、都合28個の選択肢から選べる、東京人のスタンダードに任せるしかない。28個も選択肢があれば、今の私の気分にピッタリくる正解も1つくらいはあるだろう。

 かくて私は、行き先の確定を先延ばしにし、山手線の車内に足を踏み入れたのだった。

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