名無しのメモ帳
ふと、手が止まった。
久しぶりにネット小説を書こうと思ったが、いざ画面に向き合うとタイトルすら思いつかない。
曖昧なイメージを言葉にできない。
画面のメモ帳は、白紙のままだ。
初めて書いたのは、高校生の頃だった。
よく物語が頭を過るが、表現できないからと気にしないでいた。
そんな時に、好きなアニメがネット小説発祥だと知ったことが、その始まりだった。
稚拙な文章でも、つらつらと書き続けていた僕のことを、唯一の友人はどう思っていたのだろうか。
彼は部活に励み、彼女も作り、青春を謳歌していた。
気兼ねなく話せる大切な友達だ。
日常の合間の時間で、ケータイを取り出し文章を書き、家でパソコンに向かい、それを小説にする。
休み時間、視線を感じてケータイから視線を外すと、友人と目が合ったことを、よく覚えている。
軽く手を振った彼に、僕も振り返した。
なぜ僕を見ていたのだろうか、と当時の僕はそんなこと考えなかった。
小説を書き続けて、世界を作って、人々が生まれ、物語ができて、そこで僕は一人の住人だった。
等身大の僕が、その世界で特別になっていく。
それは、とても不思議な感覚だった。
見知らぬ誰かとこれを共有できると思うと、とてもワクワクした。
完成した日にネット小説のサイトに投稿し、次の日のことだった。
何も変わっていない白紙の世界に気付かされた。
休み時間、友人に「完成したの?」と聞かれ、力なく頷いた。
ネット小説のサイトとタイトルを教えて、検索するように伝えた。
手持ち無沙汰になり、何となく黒板を見つめた。
クラスメイトの輪に戻った友人が楽しそうに話していて、言葉にならなかった。
それ以来、僕は書くことをやめてしまった。
今の僕は、食品加工の工場でライン作業をしている。
接客業など、声の小さな僕にはとてもじゃないができなかった。
無口であまり職場の人たちとの交流をしない僕は、相変わらず知り合いが少なく、もしかしたら嫌われている可能性すらあった。
普段の挨拶は無視するくせに、些細なことで怒鳴り散らす、そんな上司が一人はいた。
しかし、胸の内にあるものを抑え、とにかく謝罪するしか僕にはなかった。
友人とは今でもたまに会うが、結婚した彼とは月一回会えるかどうか、といった具合だ。
一人で白紙の画面を見つめていた僕には、とても彼が眩しかった。
「出会いがほしいなら、もっと色んなことに挑戦しないと」
いつか、ご飯を食べに行った友人からそう言われた。
納得できなかった。
彼は眩しいが、羨ましくはなかった。
そうなりたいと思うことが普通なのであれば、僕は異常だったからだ。
小説を書いて、その世界で何でもできるようになって、現実では何も変わらず、物語が終わる。
友人は正しいが、この物語では名前すらない。
今も白紙の世界を創造している。
手にペンとメモ帳が握られていた。
気がつけば、ここは真っ白な空間。
夢中でペンを走らせた。
力を入れすぎて紙が破けても御構いなし。
色濃い筆跡が、僕を包んだ。
周りには大勢の人々、歓声は僕に向けられていた。
その中には、僕を嫌う上司もいた。
ペンを握り締め、僕は飛び掛かり、ペンを喉に突き刺した。
馬乗りになる僕を、返り血が赤く染めた。
「立て!立て!立て!」
ペンを引き抜き立ち上がると、血飛沫が噴水のように舞い上がり、赤の雨を降らせた。
両の手を広げて、全身で浴びる。
服に染みた血はやがて真紅となり、赤黒いスーツが身を包んだ。
血塗られた髪が、徐々に整っていく。
握るペンは、やがて拡声器となり、僕の声を遥か遠くまで届けた。
ーーー語り部は、僕だ。