六話 外された枷
奴隷たちの状態は、理性が吹っ飛んだだけでは済まないほど悪化していた。
自身の肉体が壊れるのもお構いなく、力を込めて襲い掛かってくる。彼らが一歩踏みしめるたびに、地面が割れる。
攻撃は理性が失っている分、直線的だった。39番に避けられない攻撃ではない。ただ、動体視力の弱い人間たちからすれば、何が起こっているのか分からないままやられたに違いない。
猫の獣人族が爪を立てて、39番の肌を切り裂こうと腕を振るった。ギリギリで避けて、相手の腕を掴んだ。ひねってそのまま、地面に押し付ける。
当然暴れる。力任せに押し付けてるほうが有利なのだが、それでも簡単に拘束が外れそうになる。
「39番さん! 上!」
リエル王妃の忠告が聞こえた。ハッとして上を見た。
唯一のオスの獣人族、狼が両腕を振り上げていた。
膨れ上がった筋肉。鋭い爪。どこを見ても、当たればただで済まないことは分かっていた。
「ぐるおおおおおぉぉぉぉぉお!」
大きな唸り声をあげて、太い腕は39番に向かって振り下ろされる。
「……っ!」
やむなく、39番はその場から後方に跳躍することで避けた。
砂煙が起こる。地響きが起こる。周囲の地面に亀裂が入っていく。
どれだけバカ力だよと、顔をひきつらせた。
砂煙が晴れた先には、先ほどの猫の獣人族がつぶされていた。まだ息があるのか、かすかに動いている。
狼は拾い上げると、猫を見つめる。しかしすぐに興味なさげに横に捨てた。
猫はあがくように指を動かしていたが、それ以上は動くことができないようだ。
「……」
この光景を見て、いやな顔をしないものがいるだろうか。いや、いない。
39番の心の底からふつふつと怒りが湧き上がってくる。
だからといって、彼らと対峙して敵う気がしない。
向こうは枷が外れている状態というのも大きい。今の39番は研究所の枷をしている。大きな力は制限されているのだ。
――なんとかあと三匹。この状態で戦えるか。
顔をあげると狼が何か力を込めているところだった。右手を後ろに引き、腰を低く落とす。そのまま突き出された拳から、鋭い風が巻き起こる。
なんだと言っている暇さえなかった。風に巻き込まれて、肌が浅く切り裂かれていく。
血が周囲に飛び散る。なんとか顔は庇ったが、体全体に浅い切り傷が刻み込まれる。
休んでいる暇など、当然39番には残されていなかった。
馬の獣人族がいつの間にか詰め寄っていた。そのまま地面に向かって背中から叩き落される。
「かはッ!」
骨がきしむ様な音が全身に響く。口からは血を吐いた。内臓がやられたかもしれない。
視界がゆがむ。うまく手に力が入らない。
立たないと。次の攻撃が来てしまう。立たないと、王妃を守ることができない。しかし、どうすることもできない。
「大丈夫ですの!?」
王妃が近寄ってくる。来ちゃダメだと口を動かそうとしたが、思い通りにならない。
当然、オスの狼はそこに目をつけてくる。腕を振り上げて、王妃を押しつぶそうとする。
生身の人間があれを食らえばひとたまりもないのは誰でもわかることだった。
避けてくれと心から願うのだが、王妃は狼を見つめたまま動かない。彼女の足は震えていた。
「ちっくしょ……っ!」
ほぼ気力だけだった。ほぼ無意識だった。
足に力を入れて、王妃に目がけて跳躍した。
狼の攻撃が届く寸前のところで、リエル王妃を突き飛ばした。代わりに39番が彼の攻撃を受け止めた。
野太く硬い腕が、脇腹に当たる。衝撃から全身の筋肉が悲鳴を上げているのが分かった。身体は十数メートル飛ばされた。湖面を水切りのように39番は跳ねる。
止まったあとは、当然動けなくなっていた。
体は水面に浮いていた。力を入れることもできずにそのまま身を任すしかなかった。
水の中に自分の血が広がっていくのを感じる。
――ここで終わりか? 自分はまた死ぬのか?
そんなのいやだ。まだ、自由を手に入れてないではないか。せっかくこの世界でも生きようと決心がついてきたところだったのに。
体が水に沈んでいく。もがくように手を伸ばすが、水面に届かない。
視界に入るのは泡と揺れる太陽。自分の手そして、
――……黒狐?
服の中にしまっていた黒狐の毛だった。それは水中を動き、39番の手に収まった。
手の中を見ると、毛はなくなっていた。
「……3……さん」
少しして声が聞こえてきた。リエル王妃のものであるとすぐにわかった。
「39番……さん!」
彼女は水をかき分けて、こちらに近寄っていた。水中にある39番の手を強く握る。
温かいものが流れ込んでくるような感覚を受けた。瞬間、体の痛みが引いていく。あちこちにあった切り傷も治っていく。
体が動く。力が戻ってきたのが感じられた。
39番は湖から顔を出した。新鮮な空気を肺に入れる。
「よ、よかったですわ……」
眼前にはリエル王妃の泣き顔があった。彼女の手はほのかに光っている。
魔法の類で助けてくれたのだと、すぐに理解することができた。
「……ありがとう」
リエル王妃を背後に庇う。3匹の獣人族は、すでに次の攻撃態勢に映れるように陣形を整えていた。
――思考がある?
その動きに違和感。理性が飛んでいるはずの獣人族は突っこんでくるしか能がないはずだ。なのに彼らはこちらの様子をうかがっているようであった。
それにもう一つおかしなところがある。
――奴らはなぜ、すぐにリエル王妃を襲わない?
39番が倒れているときは、絶好の機会であったはずだ。なのに回復する猶予を与えている。
彼らが誰かに操られているのは、容易に想像することができた。
「大丈夫、ですか?」
背中に手のひらを当てられるような感触を受けた。彼女の心配が伝わってくる。
正直、ここは大丈夫って言いたかった。しかし、そんな余裕は39番にはない。
「……難しいですかね」
相手は枷が外れている。十全の力を発揮できるのだ。しかし、こちらは枷付きである。暴れれば、鎮圧されてしまう。そのうえ相手は力が増している。それを一気に三人を相手取るのはかなり危険である。
例え、リエル王妃の回復魔法があったとしてもだ。
「この枷さえ取れれば、なんとか戦えないこともないんだけど」
「……枷をとればいいんですのね?」
彼女の言っている意味は、最初よくわからなかった。
リエル王妃が、39番の首の枷に手を置いた。
「本当は、わたくしがここまで拘わってはいけないんですけど」
背後にいるため、何をしているかはわからない。しかし、彼女の力が込められていることは何となく気配で察した。
直後、首と手首の枷が取れた。警報もなることなく、水の中に沈んでいった。
「何を……?」
「あなたの枷についている魔法を解除しました」
振り返ると、彼女は笑っていた。
39番は自由になった手首を握ってみる。力を込めてみる。これなら何とか行けそうだ。
「39番さん。わたくしを守ってくださいな。そして生きて帰ってきてくださいな。わたくしからの“お願い”ですわ」
無言で首を縦に振る。
振り返る。獣人族たちは律儀に待っているようだ。
――裏で操っている人間の意図など知らないが。
足に力をためる。
――襲ったことを、
ひざを折って身を屈める。
――その余裕を、
一気に力を開放する。
――後悔させてやる!
数十メートルの距離を一気に詰めた。
「……ッ!」
一番手前にいた馬の獣人族の頬に拳を放つ。骨がめり込む様な音が響いた。
彼女の身体はそのまま横にぶっ飛んだ。地面に身体のあらゆる個所をぶつけるように転がる。そのまま木にぶつかって止まる……と思いきや、その木を折ってまだ止まらない。
土煙が横長に上がる。晴れた後には、木は縦になぎ倒されていた。奥のほうで、馬の獣人族が倒れている。足は痙攣していて、動く気配はなかった。
「たった、一撃……」
拳を見る。
自分の体の中にこんな力が隠されていたなんて。そういえばアーヴァが、ただの獣人族ではないと評していた気がする。
これならいける気がする。
相手を睨む。残りはあと二匹だ。
「どうした? 怖気づいたか?」
挑発するように、39番は口の端を曲げた。
「フー……フー……」
最後のメスの獣人族は、ウサギの獣人族だった。彼女は鼻息を荒くして、目は血走っている。
我慢ができなかったようだ。オスよりも早く飛び出す。さすがウサギというだけあって、跳躍力は大したものである。普通の人間の三倍も四倍も高く飛んでいる。
そのまま空中で回転して、右足を伸ばした。かかと落としを39番に浴びせるつもりだろう。重力も増して、当たれば兵士たちの身に付けている鎧など簡単に砕けてしまいそうだ。
しかし、無駄な動きが多い。
彼女が地面に到着する前に、39番は跳躍していた。眼前に詰め寄った39番に対して、彼女は驚いた様子だった。
伸ばされた足を掴み、空中で背負い投げで地面にたたきつける。
空中で体勢を変えられるというのは人間離れの攻撃なのだが、そこは獣人族ということだろう。人間の時と比べて身体能力など段違いである。
「が……ッあ」
地面に背中を思いっきり叩き付けられたウサギは、肺からの空気を出すかのようにあえいでいた。そのまま地面を勢い良く跳ねる。
当然39番はそれだけで終わらせはしない。着地すると同時に、彼女の脇腹めがけて蹴りを入れた。転がるようにして、数十メートルを飛んで行った。
ウサギも動かなくなる。指が微かにもがくようにして動いているところを見ると、生きてはいるようだ。
39番は大きく息を吐いた。
――最後は……。
眼前に立つは、息を荒くした狼の巨体。これは一筋縄ではいかないと本能が告げている。
――しかし、引くわけにもいかないか……。
覚悟を決めて、飛び出した。
顎に目がけて、膝蹴り。身体を捻り、横顔に向かって蹴り。着地して一息つく間もなく腹部に掌底。
しかし、彼は動かない。効かないとでも主張するように、39番のことを見下ろしている。
「嘘だろ……」
この一匹は格が違い過ぎた。到底勝てる気がしない。
冷や汗が、頬を伝う。
「ぐるおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉお!!」
吠えた。彼が足に力を籠めると地面が割れる。
体をひねった。39番の腹部に向かって殴る。
「ぐ……あっ!」
陥没するような感覚を受けた。今まで受けたことない重い感触に、視界が明滅する。
内臓がえぐられるような感覚だ。このまま意識が飛びそうだ。
足が地面を擦っていく。数メートル後方に下がったあと、腹部を抑えて蹲った。
殴り飛ばされなかっただけ、まだましだというものである。
「かはっごほごほっ!」
意識が遠のいていく。これはやばい。
一発だけでこれでは、まともに戦える気がしない。
混濁する意識の中、見えてきたのは黒狐の姿だった。
『39番』
こちらを見つめる黒狐は、静かに口を開いた。
『俺たちを開放してくれ』
――無理だ。実力差が違い過ぎる。
『大丈夫、お前なら大丈夫さ』
――……根拠は?
『お前は俺の亡骸を取り込んだ。お前の中にいる俺がお前に力を貸してやるからだ』
――取り……こんだ?
『俺を糧にして、あいつらも救ってやってくれ。そして、この歪な世界をぶっ壊してくれ』
それだけ言うと、黒狐の姿は見えなくなった。
目を開ける。立ち上がる。痛みは自然と引いていた。
拳を握る。眼前に立つ狼を睨む。
「ごめんな……」
39番は小さくつぶやいた。
「私は、お前を倒すことでしか助けてやれない」
39番は涙を流していた。
「私は……お前たちの分まで生きてやる。この世界に転生させられたからには、変えてやる」
39番は唇をかみしめた。
「私たちのような異世界人の被害者がもう現れないように」
39番の身体が光に包まれていたことは、彼女は気が付かない。