開戦
いつの時代も人間が動物以上だったことなどない。その行動の原点は子孫を残すことに執着した動物的感性に基づくからだ。
それが厳格な父の説教で唯一覚えている言葉だ。
589年 朝明57日
私は、賢く強い父が嫌いだった。女の嗜みとして料理をした際には、ワザと父のフォークにクリームを付けたり嫌がらせをしたが、決まって酷く怒られる。母にはよく怖い者知らずだと笑われた。
家庭教師三人がかりによる五年もの教育が済んだ後、息苦しいコルセットを外して外を知るために家を出た。周りの多くから初めは反対されたが、「見聞を狭くするのはお父様の本意なのでしょうか?」と父を無理矢理納得させたら、渋々それを認めた。(これは私が一番話す自慢話)
外に出たことは私に多くのものを与えたが、一番は私の目の前に座る彼だろう。
ロレンス・ペルニア。ベスティエ王国の第一皇子で、金色の髪を几帳面に真ん中分けした二枚目の男。私の夫でもある。
「イリーナ?」
「え? ごめんなさい、なんの話だったかしら」
ロレンスは普段はキリッとした眉を顰め、心配そうな表情でこちらを見る。
「最近ボーッとしていることが多いようだ。まだ出産して間もないから体調が優れないのでは?」
「大丈夫。心配しすぎよ。ちょっと考えごとをしていただけ」
そうかい、と怪訝な顔をしながらも納得してくれる。彼は非常に誠実な人だ。
優しい風が吹き抜ける緑の庭に、青い鳥が元気に跳ねる。ロレンスもその愛らしいさえずりに耳を傾けているようだった。
啼泣。チチチ、と飛び立つ鳥を見送ってから、私は立ち上がる。
「ちょっと行ってきます」
「エルデラがみているから大丈夫だろう?」
「自分の子供ですもの」
ロレンスは爽やかに笑うとやわら立ち上がり、私の肩を持つ。朗らかな表情だ。
「僕も行こう」
596年 宵詰12日
私は偶に、雑な彼に文句を言う。いや、最近は割と頻繁に言うかも知れない。
非常に些細な事だけれども、口を出す。外出の際の注意だとか、彼も理解しているだろう事だ。周りの人も私にほとほと呆れている。(これに関しては私も偶に自身を嘆く)
それが原因か、最近は彼が私に愛想を尽かし始めているのを肌で感じる。
隣国であるエルダ帝国との20年に渡る摩擦が、遂に戦火となる日がジリジリと近付いている。そんな中でストレスが溜まるのも仕方がない事だ。
彼はペルニア王朝の5代目国王となった事も一つの要因だろう。200年以上続いたこのペルニア王朝を自分の代で終わらせる訳にはいかないというプレッシャーがある。そんな彼が城に女を招いているのを知っていても私は何も言わない。
女の名前はパーシー・インクス。敵国、エルダ帝国の女。私の誕生日パーティを開いた際に一度だけ話したことがある。何やらエルダ帝国から亡命した際にベスティエ王国の貴族、タナール家に引き取られたらしい。因みに、私もロレンスと付き合ってる頃、違う男に抱かれた事があるが、こっち側の男だった。ロレンスはあまりに不用心だ。
話を戻して。
私はあの女があまり好きではない。
引っ込み思案のような、弱気な振る舞いをしているが、ロレンスを国王と分かっていながら近づいて来たのだから計算高い。腹の奥が見えない女だ。
何よりあの物静かな雰囲気と計算高さが、父を彷彿とさせるのが嫌だ。胃のあたりがムカムカする。
パーティの時に話をした際も、「リエナシャッハではお世話になりました」などと私を見るなり真っ先に挨拶してきたのも気に食わない。そもそも私は彼女のことを覚えてすらないというのに「私は覚えてますけど」と上から目線で煽られているようで気が気ではなかった。
「イリーナ!」
「聞いてるわよ」
短く溜息を吐いて頭を抱えるロレンス。
「頼むよ、本当に。マルデッラは魔術士官として優秀だろうが、流石に歳だ。今、信頼出来る彼以上の魔術の相談役は君しか居ないんだ」
「マルデッラのこと信じてないの?」
「そういう訳ではないけれど、彼の戦は明らかに古い。それに、今回は今までのような小国が相手ではなく、我々と同等の大国だ」
「私は魔術の知識は確かにあるわ。でも、本当に知識だけで戦術とかはさっぱりよ?」
「その点は僕がカバーするから大丈夫」
迫る彼を押し戻す。この話はどのぐらい長引くのだろうと思うと溜息が出た。
「わかったわ。でも本当に知ってることだけでいいのね?」
「ああ、勿論! 早速だけど、ベスティエの魔術『エルビニの奇跡』とエルダの魔術『デュテイの法』の違いってなんだい?」
596年 宵詰62日
彼の相談役となってから彼とは良好な関係に戻った。あの嫌な女が家に出入りしている様子もない。
正面から矍鑠とした小さな老人が歩いてくる。黒い燕尾服を着こなし、白髪と白い髭を蓄えたザ・執事といった男だ。彼は私が近づくと壁際に寄り優しくお辞儀した。
私は足を止めて、彼を見る。
「エリオ、今日のあの子の付き人は誰だったかしら」
「はい。シーダお坊ちゃまの付き人はシャフレとディートヒルムが担当しております」
「そう、あの二人が……。ありがとう、作業に戻っていいわよ」
「失礼致します」
私はすれ違った彼の背中をチラリと見る。彼もまた、ロレンスと似て誠実な人だ。エリオ・イングレ。
ペルニア家に60年以上仕えているからか、ロレンスのことを見る瞳が、偶に、孫を見る只の老人になる。そんな彼に、私は非常に懐いた。
ロレンスのことを私に話す際、「坊ちゃん」と言いかけてしまう彼の癖に、私は思わず顔を綻ばせてしまう。それから「いいのよ」と一言いうと、少し照れ臭そうにしながらゆっくりと面をあげるのだ。先代の王を偲ぶように話すロレンスの昔話。その朗らかな皺に、私の亡き祖父を思い出させて毎度胸が締め付けられた。
彼の話を聞いていると、私はつくづく父が嫌いなのだと思う。馥郁な香りのスープもパンも、彼の話では楽しそうなのに、私はそれがイマイチ理解出来ないのだ。父の影がつまらなくする。
私の知る静謐な食卓とは異なる団欒の食卓。彼は「王家に相応しいものとは言えませんが」と注釈を入れるが、幸せなことに身分など関係ないのだと私は思う。(そもそも、私はそういうしがらみが嫌で飛び出してきたのだし)
そんな、柔和なエリオの親友がマルデッラ・スカディー。彼とは正反対に冷淡無情な男で、いつも白いローブに身を包んでいる。
シャープな物言いをする魔術士官で、常に寡黙だ。ただ、事あるごとに魔術を例えに出したり昔の戦争の話をしたがる、よくいる昔自慢のジジイ。エリオがノスタルジアなのに対して、プライドを感じさせる頑固なイメージがついている。
マルデッラは私の事をどう思っているのかイマイチよく分からない。ロレンスと交際していた時には物凄く反対していたらしいが、いざ私がここで生活しようとなった時にはそこまで反発されたことも、露骨に嫌がられたこともない。敬遠されるかと思いきや、向こうから話しかけにきたりと、正直よく分からない男だ。
ただ、あまり好きではない相手だ。
嫌に聡いというか、タイミングが悪いというか何というか。
ふと前を見る。
私と同じように、廊下で顎に手を当てて深刻な顔をしたロレンスが歩いているのが目に入った。
「ロレンス」
「ん? ああ、イリーナ」
彼は振り返ってこちらを向く。私はほんの少し早足になって彼の側に行った。
「どうしたの?」
「いや、少し考え事をね」
「あら、気になる言い方」
「そうかい?」
「メイドの食堂にどう?」
「また、急にどうして」
「この時間、彼女達は居ないから」
× × ×
「紅茶を入れるわ」
私は椅子に座る前にキッチンへと向かう。
「それならメイドを呼んでこよう」
「いいの」
椅子から立とうとするロレンスを私は静止した。不思議そうなロレンス。
「他人に話したくないことなんでしょう? 使用人に聞かれてもいい話なら部屋ですればいいことなのに、貴方はひょっこり付いてきた訳だし。誰も居ないって言葉につられて」
呆けたような表情をしてから恥ずかしそうに座り直すロレンス。
「全く、君には敵わないな」
「当たり前よ、いつから貴方のこと見ていると思ってるの?」
深緑色の石の上に魔法陣を書き、金属の受けを置いて、その上に水の入ったティーポットを乗せる。
石の上に火が灯る。煌々とした赤い光が私の意思で大きくなる。
「そういえば、こんな物をメイドが持っていたんで貸してもらったんだが、何に使うものか分かるかい?」
そう言ってロレンスがフワフワと飛ばしてきたのは、2枚の小さな金属板がV字に重なった物だ。
「クリップね」
私は淀みなく応える。
「クリップ?」
「紙とか、そういうものを挟むのに使うの」
「なるほど。便利なものだ」
「便利なものは工夫すれば使い方が色々あるんだから、覚えておいて損はないわよ? はい、紅茶」
「ありがとう」
彼は砂糖とミルクを多めに入れる。いつも通りの彼の飲み方に私は思わず笑ってしまう。
ロレンスは少し笑ってこちらをみる。
「なんだい?」
「いえ、貴方は変わらないなぁって」
「嫌かい?」
「全然! そういうところも好きよ。愛してる」
「ありがとう。僕も愛してるよ、イリーナ」
私達は深く深く、唇を重ねた。彼の愛を私が受け入れるように。深く深く……。
この日、私とロレンスは死んだ。