晩秋、コーヒーの香り
いつの間にか寒い季節になっていた。「彼女」の来訪はあの日以来パタリと止んだ。僕の小説も相変わらず進まなかった。
教師を辞めた時、僕は小説を書こうと思った。全てを忘れるために。
『____どうして?』
「彼女」の言葉が蘇る。どうして____。僕はどうして書けないのだろう?何のために小説を書くのか?自分のため、この自己嫌悪の連鎖から解放され、前に進むために____。何故、解放されない?僕は何故囚われている____?
不意にドアの開く音がした。「彼女」だった。もう既に日が暮れていた。
「お久しぶりです。」
「_____久しぶり。」
笑顔で応える。
「彼女」はあの瞳で僕を見つめる。全てを悟っているような、瞳。
「___お元気そうですね。」
にこりと笑って「彼女」は言う。
「まあな。」
僕も笑顔も崩さず言う。きっと「彼女」は気づいているのだろう。この笑顔が虚構であることを。多分、最初に二人で話した時から___。
「コーヒー飲みますか?私、淹れますよ。」
「ああ、ありがとう。丁度飲みたかったんだ。」
「彼女」は笑顔を浮かべながら何も言わずに湯を沸かし始めた。
静かな時間が流れた。「彼女」も僕も、何も話さなかった。湯に熱が加わっていく音だけが部屋に響いていた。
「___どうぞ。」
コーヒーの入ったカップがコトリと僕の前に置かれた。
「ありがとう。」
「彼女」はまたもにこりと笑うだけだった。
そのまま、二人で無言でコーヒーを飲んだ。
「____うまいね。」
僕が言うと、「彼女」ははにかみながら、ありがとうございます、と言った。
その後、僕たちは何事もなかったかのように話をした。いつものように、互いに干渉することなく。
カップのコーヒーが無くなる頃、「彼女」は帰っていった。帰り際「彼女」は振り向いて僕の目をまっすぐ見つめた。あの瞳で。
「先生の小説、楽しみにしてます。完成するの、待ってます。」
まっすぐな瞳。そのまま見つめ合う。
「___ありがとう。」
僕は笑って応えた。自然と笑顔になれた。それを見て「彼女」は満足げに笑い、部屋を出ていった。僕はしばらくドアの前に立っていた。そして、パソコンの前まで行った。
「彼女」が部屋にいた時間はたったの2、30分程だろう。だがそれで十分だった。「彼女」と話す楽しさ、「彼女」と飲むコーヒーの美味しさ。「彼女」の笑顔、「彼女」の瞳_____。それだけで今は__、今だけは過去から解放されたようだった。
自分の単純さに呆れた。一人、静かな部屋で苦笑する。
この感情は何なのだろうか。この安心感は、一体___。
コーヒーの香りが残る部屋には僕のパソコンのタイピング音が響いた。
拙文を読んでいただきありがとうございます。