表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「彼女」  作者: フクロウ
3/7

秋空、「彼女」の瞳



それからしばらく、「彼女」との交流は続いた。「彼女」はいつも日が沈む頃に部屋にやってきた。互いに深く干渉することなく、本について話したり、英語の勉強をしたりして過ごした。その距離感が僕にとって心地よかった。




「彼女」が遊びに来たある日。その日は学校が休みだったらしい。朝から部屋にあった翻訳本を読んでいる「彼女」の傍らで、僕は自分の小説を黙々と執筆していた。秋風が窓から吹いて肌を柔らかく撫ぜる。外は静かで、時々子供の声が耳に心地よく響く。静かな時間が緩やかに流れていた、そんな日の午後。「彼女」は読んでいた翻訳本を置いた。

「読み終わったかい?」

大きく伸びをしている「彼女」に声をかける。

「はい。やっぱり面白いですね。ハムレット。」

「それはよかった。」

「次は先生の翻訳本が読みたいな。」

ちらりとこちらを見ながら、「彼女」は独り言のように悪戯っぽく言う。

「大したものじゃないよ。」

苦笑しながら僕も伸びをする。

「またそうやって謙遜する。この間読んだ作品、面白かったですよ。原文も読んだことあるんですけど、訳し方で解釈とか作品の雰囲気が変わるんだなあって。」

「はは。ありがとう。」

「あ、本当は思ってないくせに。」

頰を膨らませながら言う「彼女」に笑いながら、立ち上がる。

「コーヒー淹れるけど、飲む?」

「彼女」に聞く。

「ありがとうございます。お願いします。」

数分後、部屋はコーヒーのいい香りに満たされた。二人でカップを持って席につく。本当に心地のいい午後だった。そう言えば、「彼女」が朝から来ているのは今日が初めてだった。

「小説、どこまで出来ているんですか?」

「彼女」は聞く。

「いや、なかなか進まないよ。」

「そうなんですか。大変ですもんね___。でも私がいる間に終わらせてくださいよ。出版とかに時間がかかるし、一番最初とまでは言わなくてもできるだけ早く読みたいですから。」

「はは。注文が多いなあ。」

またもや苦笑が漏れる。

「でも、完成するかな?」

「え?」

僕の呟きを聞き取った「彼女」が声を漏らす。

「いやね、もう進められる気がしないし。辞めようかなって。」

笑いながら顔を上げる。「彼女」の瞳が目に入った。一瞬、息が詰まる。

「どうして?」

「彼女」が真顔で聞く。

「___どうしてって___。」

言葉が出なかった。「彼女」はしばらく黙っていた。そして一つため息をついた。

「先生ってハムレットみたい。ドロドロしたものを抱えているのに、繊細で、臆病で、やらなきゃってわかっていることもなかなか実行に移せない。」

静かに、だがはっきりと紡がれる「彼女」の言葉は、僕の胸に突き刺さった。

「____私と同じだ。」

「彼女」が独り言のようにポツリと呟いた。それきり、「彼女」は黙ってしまった。

無言が続いた。どれくらいそうしていただろう。しばらくして「彼女」は立ち上がってドアへと向かった。

「コーヒー、ごちそう様でした。また来ます。」

「___ああ。」

僕は短く応えることしかできなかった。テーブルには、ぬるいコーヒーが入ったカップがポツンと残されていた。





空が澄み渡る昼下がり。外から吹く風が肌に心地よかった。

(散歩にでも行くか。)

薄手のカーディガンを羽織り、財布と携帯だけ持って部屋を出る。階段を降りて道に出て20分ほど歩くと大きい公園があった。園内をぶらぶらし、適当なベンチに腰掛け空を見上げる。一点の曇りもない、綺麗な空だった。どこまでも、どこまでも広く住んでいる。そのまま僕も吸い込んでくれるような_____。

不意に「彼女」のことを思い出した。「彼女」は時々この空のような瞳をする。どこまでも澄み切っていて僕の全てを見透かすような。と同時に、どこまでも深く僕の全てを受け入れてくれるような。そんな瞳で「彼女」に見つめられると僕は恐ろしく感じた。だが、それよりも安らぎを感じた。やっと、やっと忘れられる。僕はとても救われた気分になった。なぜそう感じるのかはわからない。ただ、「彼女」の瞳は、今の僕にとっての救いだった。

「彼女」は何故、僕の小説にこだわるのだろう。有名な作家ならまだしも、今回が処女作となる僕の小説をあれほど待ち望む理由。疑問に思うものの、僕は「彼女」にそれを聞く勇気がなかった。

ひとしきり空を眺めた後、僕はベンチから立ち上がった。大通りまで出ると、車が列をなして走っていた。信号が赤になるのを、車の列を眺めながら待った。何故だかわからないが、ある車に目が止まった。そこに「彼女」が乗っているように思えた。それは一瞬のことだった。車の中の「彼女」と目が合った気がした。あの澄んだ深みのある瞳と。

『____私と同じだ__。』

その言葉の意味が少しわかった気がした。

拙文を読んでいただきありがとうございます。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ