秋空、「彼女」の瞳
それからしばらく、「彼女」との交流は続いた。「彼女」はいつも日が沈む頃に部屋にやってきた。互いに深く干渉することなく、本について話したり、英語の勉強をしたりして過ごした。その距離感が僕にとって心地よかった。
「彼女」が遊びに来たある日。その日は学校が休みだったらしい。朝から部屋にあった翻訳本を読んでいる「彼女」の傍らで、僕は自分の小説を黙々と執筆していた。秋風が窓から吹いて肌を柔らかく撫ぜる。外は静かで、時々子供の声が耳に心地よく響く。静かな時間が緩やかに流れていた、そんな日の午後。「彼女」は読んでいた翻訳本を置いた。
「読み終わったかい?」
大きく伸びをしている「彼女」に声をかける。
「はい。やっぱり面白いですね。ハムレット。」
「それはよかった。」
「次は先生の翻訳本が読みたいな。」
ちらりとこちらを見ながら、「彼女」は独り言のように悪戯っぽく言う。
「大したものじゃないよ。」
苦笑しながら僕も伸びをする。
「またそうやって謙遜する。この間読んだ作品、面白かったですよ。原文も読んだことあるんですけど、訳し方で解釈とか作品の雰囲気が変わるんだなあって。」
「はは。ありがとう。」
「あ、本当は思ってないくせに。」
頰を膨らませながら言う「彼女」に笑いながら、立ち上がる。
「コーヒー淹れるけど、飲む?」
「彼女」に聞く。
「ありがとうございます。お願いします。」
数分後、部屋はコーヒーのいい香りに満たされた。二人でカップを持って席につく。本当に心地のいい午後だった。そう言えば、「彼女」が朝から来ているのは今日が初めてだった。
「小説、どこまで出来ているんですか?」
「彼女」は聞く。
「いや、なかなか進まないよ。」
「そうなんですか。大変ですもんね___。でも私がいる間に終わらせてくださいよ。出版とかに時間がかかるし、一番最初とまでは言わなくてもできるだけ早く読みたいですから。」
「はは。注文が多いなあ。」
またもや苦笑が漏れる。
「でも、完成するかな?」
「え?」
僕の呟きを聞き取った「彼女」が声を漏らす。
「いやね、もう進められる気がしないし。辞めようかなって。」
笑いながら顔を上げる。「彼女」の瞳が目に入った。一瞬、息が詰まる。
「どうして?」
「彼女」が真顔で聞く。
「___どうしてって___。」
言葉が出なかった。「彼女」はしばらく黙っていた。そして一つため息をついた。
「先生ってハムレットみたい。ドロドロしたものを抱えているのに、繊細で、臆病で、やらなきゃってわかっていることもなかなか実行に移せない。」
静かに、だがはっきりと紡がれる「彼女」の言葉は、僕の胸に突き刺さった。
「____私と同じだ。」
「彼女」が独り言のようにポツリと呟いた。それきり、「彼女」は黙ってしまった。
無言が続いた。どれくらいそうしていただろう。しばらくして「彼女」は立ち上がってドアへと向かった。
「コーヒー、ごちそう様でした。また来ます。」
「___ああ。」
僕は短く応えることしかできなかった。テーブルには、ぬるいコーヒーが入ったカップがポツンと残されていた。
空が澄み渡る昼下がり。外から吹く風が肌に心地よかった。
(散歩にでも行くか。)
薄手のカーディガンを羽織り、財布と携帯だけ持って部屋を出る。階段を降りて道に出て20分ほど歩くと大きい公園があった。園内をぶらぶらし、適当なベンチに腰掛け空を見上げる。一点の曇りもない、綺麗な空だった。どこまでも、どこまでも広く住んでいる。そのまま僕も吸い込んでくれるような_____。
不意に「彼女」のことを思い出した。「彼女」は時々この空のような瞳をする。どこまでも澄み切っていて僕の全てを見透かすような。と同時に、どこまでも深く僕の全てを受け入れてくれるような。そんな瞳で「彼女」に見つめられると僕は恐ろしく感じた。だが、それよりも安らぎを感じた。やっと、やっと忘れられる。僕はとても救われた気分になった。なぜそう感じるのかはわからない。ただ、「彼女」の瞳は、今の僕にとっての救いだった。
「彼女」は何故、僕の小説にこだわるのだろう。有名な作家ならまだしも、今回が処女作となる僕の小説をあれほど待ち望む理由。疑問に思うものの、僕は「彼女」にそれを聞く勇気がなかった。
ひとしきり空を眺めた後、僕はベンチから立ち上がった。大通りまで出ると、車が列をなして走っていた。信号が赤になるのを、車の列を眺めながら待った。何故だかわからないが、ある車に目が止まった。そこに「彼女」が乗っているように思えた。それは一瞬のことだった。車の中の「彼女」と目が合った気がした。あの澄んだ深みのある瞳と。
『____私と同じだ__。』
その言葉の意味が少しわかった気がした。
拙文を読んでいただきありがとうございます。