黄昏時、終わりの始まり
太陽が、ビルの山脈の彼方に沈んでいく。英語教材が所狭しと並べられている教科準備室で一仕事終えた僕は、その光景をぼんやりと眺めていた。そこで夜の到来を静かに眺めるのが僕の日課となっていた。昼が身を隠し、夜が訪れる。黄昏時。何かが終わり始める時。その頃の僕は、自分の「状況」に疲れていた。
もう終わりにしたい。けれどやめられない。先の見えない現実に嫌気がさしていた。それでも、その状況から脱して、前に進むことができない自分がいる。そんな自分に嫌悪を覚える。
考えるほど泥沼のようになっていく思考を断ち切るように、僕を呼ぶ声がした。声のした方を見ると「彼女」がドアから顔だけ覗かせてこちらを見ていた。
「今、大丈夫ですか?」
遠慮がちに「彼女」は小さく聞く。
「もちろん。」
僕はすぐに笑顔を作って答えた。
「彼女」は英作文の添削の依頼をしてきた。一通り文をチェックし訂正点を述べると、「彼女」はしばらく自分の文を見てそれを確認し、納得したかのように笑顔になって礼を言った。
「夕日、綺麗ですね。」
窓の方を見ながら、「彼女」は言った。
「そうだね。」
「嘘でしょう。」
僕の言葉に真顔になって「彼女」は言う。
「だって先生、睨むように夕日を見ていましたよ。ノックしても聞こえないくらいに。」
ギクリとした。「彼女」に見透かされているようだった。
「まあ、眩しかったからな。」
苦笑しながらやっとのことで答える。しばらく「彼女」は真顔だったが、やがて微笑み、言った。
「そうですよね。先生、もともと目つきが怖いから。私の見間違いでした。」
「こら、一言多いぞ。」
笑いながら言う僕を見て「彼女」もクスクスと笑う。それからしばらく「彼女」と雑談をした。機転がきく「彼女」との会話は素直に面白かった。太陽が沈み、昼の面影が完全に見えなくなってきた頃、「彼女」は教室に帰っていった。いつの間にか僕の自己嫌悪は和らいでいた。昼の終わり、夜の闇が恐ろしくない程度には。そんな僕の安らぎを束の間のものだと嘲るかのように、ポケットの中で携帯電話が小さく震えていた。
「夕日、綺麗ですね。」
「彼女」は言う。
教師を辞めた後、偶然「彼女」に会ったあの日から数日後、「彼女」は僕の仕事場にやってきた。
「そうだね。」
ぼんやりと返す僕を、「彼女」はじっと見つめる。その澄んだ目は、何もかも見通しているようだった。
「まただ。」
ぽつりと、「彼女」が呟く。
「ん?」
思わず聞き返す僕に笑いながら「彼女」は答える。
「相変わらず怖い顔なんだなあ、と。」
「失礼だなあ。」
僕も笑いながら言う。いつかの黄昏時のように。
「ここで何をされているんですか?」
部屋を見渡しながら「彼女」は聞く。
「ああ、英語の翻訳とか色々。今は英語で小説を書いているよ。」
へえ、すごい、と目を輝かせながらもう一度辺りを見渡す「彼女」。やがて僕の方に視線を戻し、言った。
「今度、読ませてくださいね。」
「大したものじゃないけどね。小説なんて初めて書くし。」
苦笑しながら僕は言う。
「そんなことないですよ。先生って意外とロマンチストだから。ロマンチストの書く小説って詩的で綺麗だし、面白いんですよね。」
イタヅラっぽく言う「彼女」。
「また一言多いな。」
小さい部屋に笑いが響く。久しぶりの笑顔だった。僕たちはしばらく会話を弾ませた。昼の光が去り、夜の闇が辺りに立ち込める頃に「彼女」が帰るまで。
「また来ます。」
帰り際、少し名残惜しそうに言う「彼女」。
「ああ。またいらっしゃい。」
僕の言葉に微笑みながら、お辞儀をして「彼女」は部屋を出ていった。
それから何度も「彼女」はこの部屋にやって来た。「彼女」は僕の翻訳した本を読んだり、僕と話したりしてここで過ごした。「彼女」は僕が教壇を降りた理由を聞かなかった。僕も「彼女」のことは深くは聞かなかった。聞いてはいけない気がした。何故、僕の元に来るのか。時折「彼女」が見せる目。その目が何を写しているのか。僕にはまだ聞くことができなかった。僕はまだ黄昏時にいた。
続
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