虫の声、過去の記憶
虫の鳴き声が聞こえる____。
日付が変わる数分前。横からは静かな寝息が聞こえてくる。明かりを消して眠りにつこうと努力すること1時間。未だ眠れず、夜の闇の中ただただ横たわる。眠ろうと目をきつくつぶっても余計目がさえるばかりだった。
「静か」だ。夜の静けさは昼でも閑静なこの住宅街のそれとは違う。人の活動が感じられない「静けさ」。夜の闇が活動の「音」を奪っているかのようだ。
闇はあらゆるものを奪うようで恐ろしい。だが同時に、何かから守ってくれるようで優しい。まるで自分の存在そのものを肯定し、包み込んでくれるかのような___。
僕は目を閉じた。日常の忙しさと喧騒から逃れ、過去に思いを馳せる。最近のようでどこか遠いような記憶。いつまでも、忘れることのできない___。
虫の声が聞こえる。
残暑がまだ残る秋の初め。目の前のパソコン画面から目を離す。夜の8時過ぎ。そろそろ帰ろうと、執筆中の小説の原稿を保存して立ち上がる。街角に控えめに佇む小さな古い建物の一室。高校で英語教師として教壇に立つことをやめてからは、そこが僕の「居場所」となった。
開けていた窓を閉めようと窓に近づく。ふと、反対側の道路に目が止まった。そこには「彼女」がいた。
「彼女」と初めて会ったのは新年度が始まって最初の英語の授業でだった。高校二年生なのでクラス内にはある程度グループが出来ていたのだが、「彼女」は1人静かに本を読んでいた。しばらくして、彼女がクラスの生徒に嫌われているわけではなく、むしろ好かれているということを知った。「彼女」には人を惹きつける魅力と同時に、どこか人を寄せ付けない雰囲気があった。「彼女」は優秀だった。帰国子女だという「彼女」は英語はもちろん、他の教科においても上位の成績を修めた。いつも目標に向かってまっすぐに進む。そんな「彼女」の姿に教師として好感が持てた。
急いで外に出ると、やはりそこには「彼女」がいた。見たところ学校帰りらしい。
「こんな時間にどうしたんだ。早く帰りなさい。」
「彼女」は驚いたように目を丸くして僕を見ている。
「どうして先生がいらっしゃるんですか。」
「僕の仕事場がこの向かいのビルにあるからね。窓から君が見えたもんだから驚いたよ。」
彼女は納得したように声を漏らした。
しばらく互いに無言だったが、「彼女」が口を開いた。
「お元気そうですね。」
「まあね。」
「急に退職されたからびっくりしました。」
「そうかい。」
「彼女」はそれ以上は言わない。すかさず僕は「彼女」に問いかけた。
「ところで、こんなところで何をしていたんだ?」
「彼女」はこう答えた。
「星をみていたんです。」
「星?どこにもないじゃないか。」
僕の言葉におかしげに笑い「彼女」は言う。
「星は本来いつも空にあるんですよ。ただ、昼間は太陽の光が、夜は街の明かりとかが強すぎて私たちには見えないんです。」
「だけど見えないことに変わりないよね?無意味じゃないか。」
僕は大人げもなく言い返した。しかし、「彼女」は首を振った。
「無意味なことなんてないんです。現に私が立ち止まったから先生を見つけることができた。」
そのまま互いに無言になった。「彼女」は、それ以上なにも聞かなかった。ただ、時間だけが過ぎていった。
やがて「彼女」が微笑みながら言った。
「また、遊びに来てもいいですか。」
僕は首を縦に動かすことしかできなかった。
「彼女」が去った後、虫の鳴き声だけが静かに響いていた。
続
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