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花咲姫  作者: いちい千冬
花咲姫
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“天”を仰ぐ

 地面から顔を出したばかりの新芽を食んでいた野分のわきの耳が、ひくんと反応した。


 主人を護るようにして立ちはだかっていた栗毛の馬は、しかし直亮らが合流してからは役目は終わったとばかりに、あるいは治療の邪魔にならないようにと彼らから離れていた。


 顔を上げ、引き寄せられるように首をめぐらせる。

 たったそれだけの馬の行為が、異様だった。


 すでに襲撃者はいなくなった。

 警戒するべき獣の類も、陽の高いうちからはまずお目にかからない。


 力なく地面に倒れたままの青嶺と、その傍らで彼を食い入るように見つめる桜。

 そこにいまさら馬が関心を引かれるものはないように思えた。


 何も変わらない。


 時が止まったと、錯覚を起こしそうなほど。

 

 少なくとも、人の目には変わったように見えなかった。

 強いて言うなら、青嶺の身体を血が染みていない街道の端に移したくらいだ。


 それなのに、野分はこのとき顔を上げた。

 まるで見届けなければならないと言わんばかりに。



 馬につられたわけではなかったが、直亮ら側近たちもまた、様子を見守っていた。



 ――息苦しい。

 

 野分の変化を認めてから、ふとそんなことを自覚する。


 気のせいでも、おそらくは精神的な要因からくるものでもない。

 

 目の前の光景はなにも変わらないのに、覚える奇妙な圧迫感と、得体の知れない違和感。

 見えない手の平で頭を、肩を、肺をじんわりと押されているような。


 逆に小さくうずくまる桜の存在はどんどん周囲に満ちて、そして薄まっていくようだった。

 あの日、雪とともに散った桜の花びらのように。


 桜の口から、ふ、と息が漏れる。


 それだけで揺らいで消えてしまいそうなほど、彼女の姿がひどく儚いもののように思えてしまう。


「さくらさ―――」


 見ていられない、とばかりにさほが口を開く。手を伸ばす。

 しかし直亮はそれを制した。


 邪魔をしてはいけない。とっさにそう思った。


 知っていた。いや、勘付いていたというべきか。


 桜が青嶺の胸に手を当てたときから、桜が青嶺に何か(・・)をしているだろうことは。


 それはおそらく死に瀕した青嶺を救う行為であり。

 そして、桜に大変な負担を強いる行為だ。


 彼女は『花咲』なのだ。

 枯木に花を咲かせ、荒野を緑に変え、人も植物も、あらゆる病を、死人でさえも治してしまうという噂の。


 寝言は寝て言え、と鼻で笑えるほど馬鹿馬鹿しい噂だ。


 だがその噂の全てが嘘ではないことを、すでに直亮は知っている。


 『花咲』が梶山保経も執着する『癒し手』である可能性は、ある。

 いやおそらくは間違いない。


 人の寿命を操る術だ。彼らが望めばこの世を思いのままに動かすことも可能なはず。

 それを一領主の庭師などにおさまり、ひた隠しにしていた理由は。


 簡単だ。それが楽に施せるような術ではないからだ。


 おそらくは、術者の心身すらも著しく損ねてしまうような。


 桜から打ち明けられたであろう青嶺でさえ口をつぐんでいるのが、その証拠だ。


 いまの桜の様子を見ていれば、嫌でもわかる。

 彼らも感じている圧迫に首を絞められてでもいるかのように、彼女は息を吸い吐き出す行為ですらままならないようだった。


 わずかに、青嶺の顔色が戻ったようにも見える。

 だがそれに反して桜からはどんどん生気が抜けていく。


 にも関わらず、彼女はその大きな瞳に青嶺の姿を映し続けた。


 じっと。ひたむきに。

 まるで目を離してしまえば、彼の命の火がかき消えるとでも言わんばかりに。


 青嶺の命を繋ぎ止めている“力”は、果たして彼女にとっての“何”なのか。


 それに思い至ったからこそ、さほも声を上げたのだろう。


 駆け寄ることを止められた忠実な侍女は、涙さえ浮かべて直亮をにらむ。


 非難がましい視線を甘んじて受けながらも、彼は動かなかった。

 桜の身体を思えば桜を青嶺から引き離したほうがいい。それは彼も察していた。

 その上でただ見ているだけの自分がどれだけ非道であるかも、わかっていた。


 だが自分は『青鬼』梶山青嶺の忠実な部下だ。


 青嶺を失うことこそ、直亮には何を犠牲にしてでも阻止しなければならない事柄だった。


 それが『花咲』という肩書きを持つ、小さく儚い少女の命だとしても。


 それを青嶺が望んでいなくても。


 いまさら自分が鬼となることに、ためらいはない。



 唐突に、直亮の脳裏に桜吹雪が思い浮かんだ。


 花を思わせる甘い香りが鼻先をかすめたからかもしれない。



 今にもしおれ消えてしまいそうな少女以外、この場に花など見当たらないというのに。




     ☆  ☆  ☆




 目を閉じてもいないのに――少なくともその自覚はないのに真っ暗になった視界に、桜ははっと我に返り、慌てて唇を噛む。


 ぴりりとした痛みに、ぼやけていた意識がわずかに鮮やかさを取り戻す。ほんのわずかに、ではあったけれど。


 おそらく口内にも不愉快な味と匂いが広がっているのだろうが、こちらはまったく気付けにもならなかった。

 傍らにあきれるほどの傷を作り、なおかつそれ以上の返り血をまとった鬼が寝ているからだろう。


 意識が彼方へ飛びかけてはいたが、痛みや気持ちの悪さはあまり感じなかった。


 以前鬼やさほに“力”を使ったときに比べると、拍子抜けするほどだ。いま自分の歯で傷つけた下唇のほうがよっぽど痛い。

 あれはほかの生命を一時とはいえ自分の身に受け入れる弊害というか、悪酔いのようなものだと聞いていたから、外から取り込んでいない今はそれがないのだろう。


 それでも、もちろん全く平気というわけにはいかない。


 ひどく身体がだるかった。


 そしてひどく眠い。


 少しでも気を抜けば、血みどろの『青鬼』の上でもおかまいなしに突っ伏してしまいそうだ。




 ―――こら、やりすぎだ。



 頭の中で、長兄・樹の渋い叱責がひらめく。

 あれは萌葱の国の屋敷。霞桜の木の前だ。


 父が亡くなった後は、兄ふたりが桜の先生だった。

 だがどれだけ手取り足取り教えられても、時間をかけても、桜は“やりすぎ”る。


 そしてその後、当然のようにぐったりしてしまう。

 前後不覚で倒れなくなっただけ、まだ成長したといえば成長したのかもしれない。

 やりすぎ度合いも少なくなった……と、思いたい。


 ―――相変わらず、大雑把だねえ。


 くすくすと次兄が苦笑する。

 兄妹の中でいちばん細かい“力”加減に長けたえんじゅが、がっくりとうなだれた桜の手をとった。

 きゅ、と握手をするようにひとまわり大きな手の平に包まれれば、清々しい緑の香りとともにいくらか身体が軽くなる。


 ―――こんなに危なっかしい桜は、まだまだ目が離せないよ。


 どことなく嬉しそうな言葉にむっとしたが、事実なのだから言い返せない。



 初代『花咲』である兄妹の父が亡くなって、兄妹は『花咲』の名を継いだ。


 兄妹で継がなければ、到底父には及ばなかったのだ。


 桜が表に出られない――出してもらえない、とも言うが――ぶん、若輩と呼べる年齢の兄ふたりがいろいろと苦労しているのも知っている。

 だから、早くふたりに近づいて、早く彼らの力になりたいのに。

 焦れば焦るだけ、成果は芳しくなかった。


 一族の血に宿る“力”は、その存在を知った人々を狂わせる。

 求める人々が争い、奪うことも厭わない。

 生身の身体と人並みの心を持つ存在である以上、もちろん一族だって無傷では済まない。ほかの手に渡るくらいならばいっそ、と考える輩もいるのだ。


 だからこそ、彼らは持って生まれた“力”を隠匿する。

 “力”を行使するための訓練は、むしろ“力”を抑えるための訓練と言える。


 だが、否定はしない。


 桜も、自分が持つそれはひどく危険なものなのだと繰り返し繰り返し言い聞かされて育った。

 だが与えられたこの“力”を絶対に使ってはならないとは、誰も言わなかった。


 よく考えろ、とは何度も言われたが。


 桜は、手のひらを青嶺の胸にずっとかざし続けた。

 かざすどころか、むしろぐいぐい押し付けていた。



 その下に隠された心の臓から、彼の生命があふれ出すのを押し留めるように。

 彼がいらないとさえ言ってのけた不可視の“力”を、無理やりねじ込むように。


「く………っ、は―――」


 鬼の口から、しぼり出すような吐息がこぼれた。

 溺れた者が息を吹き返すのにも似ていた。


 そのとき桜の指の間から落ちるばかりだった命の砂が、ひたと止まるのを感じ取る。


 だが安堵のため息をつく暇もなかった。


 逆に、桜の意識は急速にとろりとした暗闇に飲まれていく。

 ひたすらだるい身体は、すでに指の一本も動かすことができない。


 動かそうとも思わない。


 もう……眠ってしまおう。


 身体が、今度こそぐらりと傾ぐ。


 逆らうことなく、潔く重くてかなわないまぶたを閉じた。


「さく―――」


 誰かが、あるいは誰もが思わず息を飲んだそのとき。




 ふわり、と。


 崩れる彼女を受け止める腕があった。


 それは藍鼠ではなく木賊とくさ色の袖。


 鬱蒼とした木々が生い茂る山の中に迷い込んだかのような、季節はずれの濃い緑が香る。


「………こうなるような気がしていたんだ」


 この上もなく優しく抱き止め、桜の姿を覆い隠すようにすっぽりと腕の中に包み込んだその人は、忌々しげに呟いた。





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