“地”に沈み
桜は、最初“それ”が何なのか、わからなかった。
自分の知る『青鬼』と呼ばれる人物だとは思えなかった。
だってそれは、赤かったのだ。
彼女を突き刺す鋭い黒眼はその刃先を収めるように閉じられ。
ただ、力なくそこに横たわっていたのだから。
☆ ☆ ☆
襲撃者の標的が梶山青嶺だったことは明らかだった。
散り散りになった誰もが彼ほどの追っ手はなく、彼ほど多くの敵を相手に戦う必要もなかったのだ。彼ほどの重傷を負った者だっていない。
なぜ簡単に主のもとを離れてしまったのか。彼の盾になれなかったのか。
後悔と自責の念が頭をよぎる。
たとえ時間が巻き戻ったとしても、同じ行動を取るだろう自分が予測できたとしても。
動かなければ青嶺がその指示を彼らに出していただろうことが、分かっていても。
角裕長は、周囲に散らばる襲撃者であったモノたちを検分していた。
ほかの武士たちも西峰へ伝令に走ったり、息のある者たちを拘束したりと慌ただしく動いている。
「佐々垣の奴ら……!」
いったいどうしてこんな所に、と舌打ちしてしまうのを止められない。
西峰と風巻のちょうど間に位置するこの場所は、佐々垣から遠いということはないが、街道沿いに行くなら山をひとつふたつ迂回しなければならない。
どちらも現時点では宇佐の主要な拠点でなく、近くに大きな集落もなく、したがって他国の者も自国の者も頻繁に行き来しているわけではない。
地形的に隠れる所はたくさんあるので潜むには絶好の場所だが、しかしひと気がなさ過ぎて、本来なら山賊の類でも張り込む甲斐のない寂れた場所なのだ。
確実にこの時間この場所を、標的が通るという確証がなければ。
佐々垣の残党がこちらの動きをつかんでいたのは間違いない。
青嶺が風巻行きを決めたのは、つい昨日のことだ。
つまり、彼らの背後には迅速かつ正確にこちらの動向を把握できる人物がついているということになる。
他国の間者なら、西峰にも何人かは潜んでいるだろう。
だが彼らから報告を受け、短期間でこの場所に襲撃者を潜ませることができる人物となれば、さらに絞られてくる。
その心当たりが、ひとりだけ思い浮かぶ。
ひとりしか、思い浮かばない。
青嶺と『花咲』の訪問先でもある。訪ねることはもちろん知らせてある。
―――青嶺の祖父・梶山保経。
かつては彼こそが畏怖をもって鬼と呼ばれた、宇佐の英雄。
だが佐々垣の残党を領地に引き入れ宇佐の嫡男・青嶺を狙うその行為は、彼が英雄であろうとも許されるものではない。
「これはすでに、宇佐への反逆行為だ……」
信じられない顔つきで裕長が呟く。
砂原直亮は、青嶺の容態を確かめていた。
血染めの衣を剥いで身体の傷跡を確認し、竹筒の水で身体を清めていく。
すると、わき腹の刺し傷に水を振りかけたときにかすかに呻き声が上がった。
固く目を閉じた眉間にしわが寄る。
その反応に、直亮は無意識でほ、と吐息をもらした。
浅いながら息があり、胸板が上下していたことからいちおう生きているのだろうとは思っていたが。
どうやら彼の周囲や衣に広がる赤は、ほとんどが返り血のようだ。
実際見つかったいくつかの矢傷といくつかの刃傷は致命傷ではなかった。
ほとんどの者は物言わぬ骸と化し、それ以外の者でさえ当初の意欲を失い、呆然と、あるいは恐れおののいて宇佐の『青鬼』を見ている。
これだけの数の襲撃者をたったひとりで――いやひとりと一頭で、よくもあしらえたものだ。
ちなみに野分はかすり傷程度でぴんぴんしており、彼らが見つけたときには青嶺を護るように彼の傍らに立っていた。いまは彼から離れ道端の草を敵のようにもっしゃもっしゃと食んでいるが、頑として手当てを受けようとはしない。
直亮は眉根を寄せた。
泣く子も黙る『青鬼』が、この程度で意識を失っていることが奇妙だった。
戦ではもっとひどい怪我を負ったことだって、生死の境をさまよったことだってある。
こんな血の海の中で死体と見間違うほどに熟睡していて、心の底からあきれたこともある。今回もそれかと最初は疑っていた。
だが、身体中の血液を流し尽くしたのではないかと思うほどのこの顔色は。
すでに事きれたもののように冷えて強張った四肢は―――。
重苦しい沈黙がじわじわと広がりかけたときだった。
「直亮さん、止血は待って下さい! 毒消しを!」
叫んだのは桜だった。
怪我人にも負けず劣らずの顔色をした彼女の鋭い声に、はっと男たちが我に帰る。
そして、柄にもなく呆然としていた自身を叱咤した。
万一に備えてと朝東風に渡されていた薬を、直亮が荷物から引っ張り出す。
「呻けるくらいだ。ちゃんと飲み込め!」
大嫌いな苦い粉末を口にねじ込まれたせいか、あるいは続けて流し込まれた水が苦しいのか。
青嶺の眉間のしわが深くなる。
だがたしかに喉は動いた。
……体内にまわった毒にこれが効くのかどうかはわからないが。
「―――桜さま……」
ぎゅ、と桜の手を握ってくるのは、子供のように細く小さなさほの手だ。
今にも泣きそうな顔つきで、ひたすら桜を見上げてくる。
さほは、初めて出会ったときのように白く血の気のない顔をしていた。
周囲は阿賀野のときよりもすさまじいことになっているというのに、あのとき気絶した彼女がいま意識を保てているのが不思議なくらいだ。
そして、自分も。
桜がなんとか頭を動かすことが出来るのは、すがってくるさほの存在と、そして恐ろしい惨状の一部となっている鬼の存在ゆえだった。
周囲から、そして彼自身からも流れ出た赤が彼の青い衣を、褐色の地面を侵食する。
赤を吸いすぎて、それらは黒ずんでさえいた。
馬を替えて裕長と逃げた桜は、傷ひとつ付くこともなかったのに。
血を流して実際死にそうに見えるのは目の前に横たわる鬼だというのに。
自分の息が、止まるかと思った。
悟ってしまった。
肩の矢傷とともに負ったいつかの毒とは違う。
あきらかに、これは人の命を奪うために仕込まれたものだ。
自分が毒を受けたわけでもないのに、身体が冷えて強張って指一本動かすだけでぎしぎしと関節が悲鳴を上げる。
そのくせ、どれだけ身体をきつく押さえても震えが止まらない。
耳の奥で、さらさらと聞こえないはずの音が聞こえる。
生命が、奈落の底へと滑り落ちる音だ。
それは、決してただ人が抗うことなどできない、この世の理。
桜はこのときまで、青嶺が命を落とすような事態に陥るとは思っていなかった。
なぜか、有り得ないと思っていたのだ。
常に、むしろ望んで死に近い場所に身を置く者だと、知っていたはずなのに。
鬼と異名をとるほどに。
「桜、さま……っ」
さほが慌てたような声を上げる。
桜は、へたりと青嶺の傍らに座り込んだ。
ついさっきまで桜を包み込んでいた力強く温かな腕が、いまは動かない。
手放さないと言ったくせに。
護ると言ったくせに。
こんなにも無防備な鬼を、桜ははじめて見た。
桜が手を伸ばしても、触れても、まるで動かない。
「………っ」
―――認めたくない。
認められない。
嫌だ、と強く思う。
こんな鬼は嫌だ。
彼がこんな形で死ぬのは――――嫌、なのだ。
人の生命に終わりがあるのは、この世の理。
だが、その絶対の理を少しだけ曲げる“力”を、桜は持っていた。
持っているはずだった。
桜は顔を上げ、すがるように周囲を見回す。
だが土がむき出しになった山道の周囲には、桜の木は確認できなかった。
それどころか、西峰と出発してから飽きるほど見て来た野の花すらも見当たらない。
だが……諦めるわけにはいかなかった。
―――桜は人であって神様じゃないだろう。
父の言葉が、ふと頭をよぎる。
そう、桜は神様ではない。
神であれば、数え切れないほどの人を殺めてきた『青鬼』など助けようとは思わないだろうから。
数日前、阿賀野が命の砂の最後の一粒を落とすのを間近でただ見ていただけの自分が。
言ってみれば、阿賀野を見捨てた自分が。
青嶺の命を掬い取ろうと、彼に手を伸ばすのだ。
―――どんなに迷っても、身勝手でも、残酷でも。
―――桜は誰かを選び取り、そして誰かを見捨てなければならない。
救うことができる命を見捨てることに罪悪を覚えていた。
だが救うことも――救う命を選び取ることもまた罪深い事なのだと、思い知る。
とんだ偽善。
なんて傲慢。
天罰というものがあるのなら、絶対に桜の上に降りかかるはずだ。
それでも、と思う。
彼を救いたいのだ。
いや、救うなどとんでもない。ただ自分が彼を失いたくないだけだ。
かざした手のひらが、熱い。
持って生まれた“力”をふるうのに、桜ははじめて恐ろしさで身体を震わせた。
それでも、ためらいは欠片もなかった。
頭のどこかでこうなるような気がしていた。
彼に全てを打ち明けた、そのときに。




