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花咲姫  作者: いちい千冬
花咲姫
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“空”に響く音1



 ぱかぱかと規則正しい軽快な音が響く。


 歩きや輿に乗るよりも高い目線に、流れていく山野の景色。

 まだ冷たい風が、花の甘い香りをかすかにまとってほほを叩いては通り過ぎて行く。


 桜は大きな栗毛の馬に乗っていた。


 地獄のようだった前回に比べれば、外の景色を楽しむ余裕があるくらい快適な旅である。

 袴をはかされた彼女は、今回は横座りではなくちゃんと跨っていた。身体の安定感は格段に良くなったのだが、お尻が痛いのは相変わらずだ。


 そして、相変わらずなことがもうひとつ。


「余計な力を抜け。野分(のわき)が走りにくいだろう」


 痛むお尻を庇うように両足に力が入ってしまっていることなど、後ろの乗り手にはお見通しだったらしい。

 耳元に、あきれたような声が落ちてくる。

 妙に通りの良いその声に、桜はいっそうぎくしゃくと身体を強張らせた。


 桜はひとりで馬を操ることができない。


 なにしろ宇佐に連れてこられたときが初めてだったのだ。

 時間が限られていることもありほかの移動手段が選べなかったので、そうなると必然的に誰かに乗せてもらうことになる。


 彼女の後ろには、栗毛の馬――野分の主人である梶山青嶺が乗っていた。


 ちなみに「絶対ついて行きますからー!」と言ってきかなかった侍女のさほも相乗りだった。

 こちらは馬の負担を考えて、休憩のたびに同乗する武士や馬が変わっていたのだが。


 一人乗りの馬と二人乗りの馬、どちらが疲れやすいかは明らかである。

 ところが桜の場合、最初からずっと青嶺と一緒に野分の背に揺られていた。


 野分は、素人の桜が見てもそうとわかるほど立派な馬だ。

 体格は大きく力強く、細かい傷あとはあるものの濃い色をした鬣や尻尾の毛並みは艶やかだ。威風堂々としたその姿に違わず、ひとたび戦場へ出ればどんな殺伐とした場所でも怯えずに突き進み、また人の言葉を理解しているのではないかというほど賢く機転がきくらしい。


 宇佐の『青鬼』が褒めるくらいだから、すごい馬なのだろう。

 だが野分だって生き物である。限界だってあるだろうし、いつか疲れて動けなくなるかもしれない。

 今回は目的地の風巻に着いて終わり、というわけではない。

 肝心なときに身動きが取れないようでは困るのだ。


 それに少数精鋭の一行は馬術にも優れた者ばかりだし、野分までとはいかないまでもそれなりに優秀な馬を連れている。

 桜が乗せてもらうのに不都合はないはずなのだが――。


 申し出てみても、桜がほかに乗せられることはなかった。

 ほかの馬に乗ろうとすると、なぜか野分までが抗議するようにぶるんと首を振るのだ。


 馬に好かれるような“力”はなかったはずなのに。

 首をかしげる桜に、併走する直亮が苦笑する。


「ほんとうに、主の気持ちが良くわかっている馬だね」

「うるさい」


 憮然とした声が鼓膜を震わせる。

 遠慮なくがっちりと腰に回る腕と、背中にじんわりと広がる温もり。


 それが、なんだかものすごく居たたまれない。


 馬に相乗りしている以上、身体がくっつくのは仕方がないことである。

 頭ではそうわかっているのに、変に慌ててしまう自分が恥ずかしい。きっと顔だってみっともないほど赤くなっているはずだ。


 そういえば宇佐に連れてこられるときも、ずっと青嶺に抱えられて野分に乗っていたのだった。考える余裕も元気もなかった前回のほうが気楽だったかもしれない。


 自分は厄介な“荷物”だろうに。

 宇佐の跡取り息子が、どうしてわざわざそこまでする必要があるのだろう。


 青嶺の態度もそうだが、周囲の反応がこれまた落ち着かない。

 誰も彼に意見しないのはまあ仕方がないとしても、妙にゆるくて(ぬく)い視線はなんとかして欲しいと桜は切実に願っていた。


 居たたまれない。ものすごく、居たたまれない。


 あまりの居心地の悪さに、無性に手足をバタバタしたくなる。

 暴れた挙句うっかり落馬でもしてしまえば最悪命に関わるので、必死に我慢していたが。


 青嶺の腹心の部下は、やれやれと肩をすくめる。

 桜の混乱ぶりを察しているのか、いっそ慈愛に満ちたような声音でなだめるように言った。


「最初から―――そう、最初から青嶺は君を誰かに触れさせるのが我慢ならないんだよ。ものすごく分かりやすいだろう」

「直……」

「申し訳ないけど、諦めてね」


 やたら楽しそうな顔つきで「申し訳ない」と言われても納得できない。


 忌々しげに青嶺が舌打ちした。

 だが腹心の言葉を否定するつもりはないらしい。


 大きな振動に思わず跳ねた桜の身体を、しなやかな腕が引き戻す。

 だからそれが落ち着かないんだって、と心の中で泣き言を叫ぶ。


「馬のことはいい。それよりもお前はお前の心配をしていろ」


 ため息混じりに青嶺が呟いた。


 熱い顔から、少しだけ血の気が引いた気がした。

 後ろにいるので彼の表情をうかがうことはできないが、きっと向かい合っていてもその顔を見る度胸は持てなかっただろう。


 なぜ、馬に乗っているのか。

 それは風巻へ、梶山保経のもとへ行くためだ。

 保経から、桜の身を護るために。

 桜のために、皆は動いてくれたのだ。


 ほんとうは、風巻なんて行きたくない。

 自分の“力”のみを欲している人になど、会いたくもない。


 思い出すのは、阿賀野が見せた暗い瞳と異常なほどの執着。

 同じかそれ以上の狂気を、保経は持っている。

 桜が応えることは、できないのに。


 気が付けば、右腕に触れていた。いまだはっきりと痣が残る、そこに。


 気が付いた青嶺の手のひらが、桜の左手を包み込む。

 柔らかく、力強く。

 大丈夫だから、とあやすように。


 桜は、ほ、と小さく息をついた。


 強く鋭い黒の双眸で、護ると言われた。

 この手が自分を離さないでいてくれるなら、と風巻に行くことを了承したのだった。


 全てを話してもなお変わらなかった青嶺の腕の中は、ひどく優しい。


 だからこそ、この腕は危険でもあった。


 ずっと、このまま―――このまま見えぬふり聞こえぬふりでまどろんでいられたら、と。

 これ以上を彼に望むのは傲慢なのに、あまりに力強くあまりに温かい腕の中にいると、自分勝手な願いが何度も頭をよぎる。


 だがそれはできない。

 誰が許しても、ほかでもない自分が自分を許せない。


 これは、自分の浅慮が引き起こした事態なのだから。



 桜の意思を嘲笑うように、ぽかぽかと優しい陽光が惜しみなく降り注ぐ。

 当初の目的を忘れそうになるほど、忘れたくなるほど長閑な昼下がりだった。





     ☆  ☆  ☆





 図らずも桜が野分から降ろされ、青嶺の手から離れたのはすぐ後のことだった。



 ぴく、と青嶺がわずかに身体を強張らせる。


 一行はある峠に差し掛かっていた。

 かつては水が流れていたらしいそこは、道幅こそ広いが、両側は触っただけで砂や小石がさらさらと落ちてくるようなもろい壁だった。すり鉢状の壁は、大人の胸の高さほどもある。

 木の枝や枯れ草が邪魔でじゅうぶんに見通すことができず、死角が多い場所である。


 襲撃者にとって、これほど待ち伏せに都合の良い場所はない。

 そして青嶺は、たしかに穏やかではない複数の気配を道の両側から感じ取った。


「裕長」


 低い声で、青嶺が桜の護衛を呼んだ。

 心得ている様子で、角裕長は速やかに轡を並べてくる。


 桜が野分から、裕長の馬へと移った直後である。


 風を切る鋭い音が鳴る。

 どす、と細長い何かが行く手に突き刺さった。


 矢だ、と桜がそれを認識する前に、同じものが立て続けに彼らの上から降り注ぐ。


「突っ切れ!」


 引き抜いた刀で矢を叩き落しながら、青嶺が怒鳴った。

 桜を乗せた裕長とさほを乗せた騎手がその言葉で馬の腹を蹴る。


「ひ、裕長、さ―――」

「駆けるのでつかまっていて下さいよ!」


 矢の飛んでくる方向や数からしても、敵は多数。

 いっぽうこちら側の数は、桜とさほを加えても十に満たない。

 明らかに劣勢だった。


 視界の端に、青嶺の側にいた直亮の馬がいななきとともに棹立ちになるのが見えた。

 かろうじて落馬は免れたようだが、馬が驚いただけなのか矢が当たってしまったのかはわからない。


 桜は、悲鳴を上げそうになる口をぐっとかみ締める。


 自分が文字通りのお荷物であることは理解している。

 だから足手まといにならないよう、護衛役の若武者の言葉に素直に従うだけだ。


 左右の森から鬨の声が上がる。



 それこそ矢のように駆け抜けた桜たちを追おうとする者は、いなかった。







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