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花咲姫  作者: いちい千冬
花咲姫
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“砂”の落ちた跡2



 いま、鬼の形相で彼女の腕をつかんでいるのは、『青鬼』だった。


「――――あ、の」


 あの事件以来、桜は彼とほとんど顔を合わせていなかった。

 彼が会いに来ることもなければ、もちろんこちらから訪ねていくこともない。


 単に向こうが忙しいだけかもしれないし、単に会いたくないだけかもしれない。

 しかし顔を合わせないことが、桜には有り難かった。


 顔を見るのが、怖かった。

 見られるのが、怖かったのだ。


 そのはずだったのに、いざこうして鬼の強面に対してみると、どこかほっとしている自分がいる。


 いきなり押し入ってきた上に腕をつかみ上げられたこんな状況で。

 鋭く激しい物騒な視線も、まったく変わらないというのに。

 実際、侵入者を認めて悲鳴を上げかけたはずの口からは、ほっと息が漏れ出た。


 つかまれた左腕は痛まない。

 桜が見るからに身体を強張らせたので、少し力を加減してくれたらしい。

 しかしそれでも絶対に振りほどけなさそうな力強さと得体の知れない気迫のようなものを感じる…ような気がする。


「なにか、ご用…ですか?」


 相手が何も言ってこないので、桜はとりあえず口を開いた。

 少々間抜けなせりふだったかもしれないが。


「何をしていた」


 返ってきたのは、低い物騒な声。

 それは何かを警戒するように、あるいは何かに怯えるようにも聞こえる。

 ますます、わけが分からない。


「……べつに、何もしていませんが」


 身体に風穴が開きそうなほど見つめられても、桜はそう答えることしかできなかった。


 しいて言うならぼーっとしていた、だろうか。

 ぼーっと、右腕を見ていた。


 そこに暗紫色にくっきりと浮かび上がる手跡は、袖では隠し切ることが出来ずにぐるぐる巻きに布が巻かれている。

 腕の保護と、周囲からの痛々しい視線を避けるのが目的である。

 不必要に桜の目に触れないため、と東風先生から気遣われている部分もあるのだろう。


 だが、目隠しがあってもなくても、桜には同じことだった。


 まだ手首をつかまれているような錯覚さえ起こしてしまうことがある。

 鈍い痛みを伴った手枷のような跡は、決して逃がさないと言われているようだ。


 右腕だけではない。

 気を抜くと、顔や手足をかきむしりたくなる衝動に襲われることもある。

 そこに浴びた血は、とっくに洗い流し跡形もないというのに。


 あの後。

 おびただしい赤が地面を侵食する現場を目にしたさほは、悲鳴を上げて気を失った。

 阿賀野の亡骸と一緒に地面にへたり込んだ桜も足腰に力が入らずけっきょく鬼に運ばれたわけだが、頭の中は奇妙に冷めていた。同じく裕長に運ばれる侍女の心配ができるほどに。


 惨劇が怖くなかったわけではない。

 だが周囲が心配するほど、自分はおそらく怯えてはいない。

 阿賀野の死は、自分の浅慮が招いたことだ。だからそんな資格は、自分にはない。


 桜は、出来る限りいつも通りに生活していた。

 何かをしていないと、今のようにぼんやりとしてしまう。

 そして、思い出してしまうから。


 過保護な侍女たちに囲まれて一日のほとんどを自室で過ごし、炊事場や医務室にも顔を出す。負傷した栄進を見舞い、あの薬草畑にさえときどき様子見に出かける。


 いっさいの泣き言を言わず、涙も見せず、顔にぎこちない笑みすら貼り付けて。

 それがさらに周囲を心配させる結果になっていると、薄々分かってはいるのだが。


 もしかして――まさか、とは思うのだが――この鬼も、心配してくれているのだろうか。


「だが……」

 何か言いかけた鬼が、しかし結局はすぐに口を閉じた。

 決まりの悪そうな顔をして、彼はそろそろと桜の手を開放する。


「―――悪かった。怖がらせたな」

「いえ……」


 自由になった左の腕を中途半端に持ち上げたまま、桜は少し拍子抜けした。

 肩の力が、あっけなく抜けていく。

「いえ。怖くないです」

「………」


 鬼はわずかに目を見張ったようだった。


 出会ったばかりの頃におれが怖くないのか、と聞かれたことを思い出す。

 あのとき、彼女は胸を張って「怖いです」と答えたのだった。

 過去も今も、嘘は言っていない。


 ―――今ほんとうに怖いのは、そんなことではない。


 鬼は今回も彼女の答えに驚いたようだった。

「おれが何をしたか、覚えていないのか? おまえの目の前で阿賀野を殺したんだぞ」


 これには桜が驚いた。何をいまさら。

「だってあなたは宇佐の『青鬼』でしょう」


 流れている華々しい噂が眉唾だと今では知っているが、付けられたあだ名は伊達ではない。

 むしろ勢いあまって自分も殺されなかっただけましだと、桜は思っている。

 まし、と言えるような状況かどうかはわからないが。


 血が流れるのを見たのは、初めてではない。

 命の砂の最後の一粒が落ちる、その瞬間を目の当たりにしたのも。


 さすがにあんな唐突にあんな間近であんな鮮やかに大量の血を見せ付けられたのは、はじめてだけれど。


 平気です、と胸を張ることはできない。

 宇佐の『青鬼』がまったく怖くないわけではない。


 それでも。


「あなたはわたしを解放してくれたのに、わたしがあなたを怖がる理由はないでしょう」


 自分自身に言い聞かせるような言葉だった。

 鬼が眉根を寄せる。


「難しいことを言う。解放? おれはお前をここに連れてきた張本人だぞ」

「はい。だからお礼は言えません。それを責める権利は、たぶんあると思うので」


 眉間のしわが、いっそう深くなった。


「……責められた覚えはないが」

「相手が聞く耳を持っていないんだから、何を言っても無駄じゃないですか」


 何か言う前に「諦めろ」と言い放ち、無理難題を突きつけてきたのは鬼のほうだ。

 いちおうその自覚はあるのだろう。案の定、彼は憮然とした顔つきになった。


 それこそいまさらの話だ。


 目の前の鬼も、あまり…いや絶対過去にこだわる性格には見えない。

 現に、彼の口から過去に対する謝罪が聞けない。無意味だと思っているのだろう。

 阿賀野の件に関しても、彼を手にかけたことを後悔してはいない――それを、自身に許さないのかもしれない。

 命をひとつ奪う毎にいちいち後悔していたら、そもそも『青鬼』の異名は生まれない。


 それでも桜が彼を責めるのは認める、ということだろうか。


 そんな権利、桜にだってないというのに。

 むしろ逆だろう。


 先ほどの自分の言葉を思い出す。


 ―――なにか、ご用…ですか。


 真っ白な頭からようやくひねり出したものだが、あまりに間抜けだった。


 そんなことは、分かりきっているのに。

 むしろ、来るのが遅かったくらいだ。


 彼は、桜を問いただしに来たはずだ。

 今回の出来事は、以前に彼女が言った事柄では説明がつかないのだから。


 桜は泣きたくなる気持ちを抑えるために、苦笑いを浮かべた。


「ごめんなさい。わたしは、あなたに言っていないことがあります」


 鬼は、黒々とした双眸をつと細めた。

 顔が怖いのは相変わらずだが、思ったよりも怒っていないらしい。

 予想は、していたのだろう。


「このおれに、嘘をついたのか?」


 鬼にしては穏やかにも聞こえる声で、彼は呟いた。

 それも仕方がないと肯定しているかのようだった。


 桜は首を横に振る。

「お話し、していないことがあります」


「阿賀野の言った奇跡、とやらか?」


 びく、と身体が強張った。


 萌葱の領主ですら知らない事実。

 覚悟を決めたとはいえ、それを兄たちの許しもなく梶山青嶺に教えるのは、不安だった。

 豊国家ではなく、樹と槐、そしてこの世を去った父にひどく申し訳ない気分になる。


 それに―――。


 思い出すことがある。

 鮮血よりもなお熱くとろりとまとわり付くような、暗い眼差し。

 見えているようでまるで“桜”を見ない、見ようとしない非情な言葉。

 最期まで、いやその後までも彼女を捕らえて離さない妄執。


 怖いのは、彼らの中で桜が“桜”でなくなること。

 予想をはるかに超えて自分の存在が重くなり、そして人としての存在が希薄になること。

 それは、神のように。

 あるいは、ただの道具のように。


 父が繰り返し伝えていた危険は、おそらくこういうことだったのだ。

 誰も彼もが“力”を求め、あまたの手と人々の意思によって、桜は押し潰される。


 もし、奇跡さえどうでもいいと言ってのけた目の前の鬼が、同じ視線を向けるようになったら。

 桜の存在を認めてくれた彼が、“桜”を否定してしまったら。


 きっと、耐えられない。

 考えただけで震えが止まらなくなる。


 うつむいた桜は、藍色の衣をまとう長い腕がゆっくりと伸びてきたことに、気が付かなかった。

 ふわりと、温もりに包まれる。


「言いたくないのなら、言わなくていい」


 強くはない力で引き寄せられた肩は、気が付けば鬼の腕の中におさまっていた。


「阿賀野にも言ったが、おれはお前の“力”なんかどうでもいい」


 耳元で響く低い声も、夢かと疑うほどに柔らかく。

 そして揺るがない。


「だが、お前をここに連れてこれたのは、その“力”ゆえのことだ」


 鬼の腕の中で、びくんと肩が波打った。

 震えを押し留めようとするように、彼女をなだめるように、鬼の手にわずかに力が加わる。


「それがあるというのなら、お前を祖父に差し出さねばならない」


 どんなに腕の中が暖かくても、どんなに声が柔らかく響いても、桜の震えは止まらない。


「おれが、連れて行く」


 阿賀野に追い詰められたときの、彼の言葉を思い出す。

 壊れた人形のように、桜は頭をぎしぎしと振った。


「ちが、……できな―――」

「ああ。無理だ。わかっている。たとえ万が一できたとしても、お前は絶対にそれを使うな」


 ゆっくりと息を吐き出しながら、青嶺はもう片方の手で桜の頭を包み込んだ。


「お前は、お前でいろ」


 視界が、彼の衣の藍色ににじむ。


「青、―――」

 名前を呼べば、腕の温かみが増したようだった。


「祖父保経から、お前を護ってやろう」


 そう、約束していたな?


 耳元にするりと馴染んだ通りのよい声は、桜から恐怖を無理やり奪い去った。

 悪夢から覚めたように瞬きすれば、涙の粒が頬を転がる。


 こくんと頷きながら、桜は、呼吸もままならなかった口からふっと息を吐き出した。



 そして、いまだ震える唇で喘ぐように、言葉をつむぐ。




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