“風”の行方3
今回流血表現があります。ご注意下さい。
「おい、何をしている!」
別の声がして、桜はぱっと振り返った。
離れの戸口に立っていたのは黒崎栄進である。
なぜここにいるのだろう。彼は、今日は西峰城周辺の視察に同行すると言っていたはずだ。
彼もまた自分を捕らえに来たのだろうか。
そう思うと、目の前が真っ暗になったような気がした。
しかし彼は同僚である阿賀野と護衛対象である桜を交互に見、そして首をかしげた。
桜のつかまれた手首に気付き、さっと顔色を変える。
「おい、強く握りすぎだ。何があったか知らんが、とにかく手を放せ!」
入り口に背を向けたまま、阿賀野は栄進を見ようとはしない。
栄進は、まだ同僚の異変にははっきりと気が付いていないらしい。
「あのなあ阿賀野」
栄進がふう、とため息をつく。
「お前の気持ちはわからんでもないが――」
阿賀野が勢いよく振り返る。
その手――桜を拘束しているのとは反対側の手に、ぎらりと光る刃物が抜かれていた。
桜の背中にざわりと寒気が走る。
「栄進さん―――っ」
ようやくのどの奥からまともに出た声は、悲鳴に近いものだった。
先ほどの白湯のように、鮮血がぱっと横に広がる。
赤い腹部を同じく赤に染まる腕で庇いながら、栄進は目を見開いていた。
何が起こったのか理解できないという表情だ。
「あがの……っ! これは、何―――」
「邪魔しないでいただこう」
淡々と阿賀野は言い、栄進を冷ややかに見やる。
彼はためらいもなくさらに刀を振り下ろした。
自分の刀をようやく腰から引き抜いた栄進が、それをぎりぎりで受け止める。
しかし怪我を負っている上、相手は西峰城でも一、二位を争う力自慢の大男である。刃を合わせたまま押しきられ、彼は横に吹き飛んだ。
「栄進さん!」
「………っく!」
栄進が唸る。尻餅をついたまま、なかなか身体を起こすことができないようだ。
「あ、がの……っ」
阿賀野は動けない同僚に目もくれず、桜を引きずっていく。
その馬鹿力に桜が敵うはずがない。
「や、やだ……っ」
強張り冷え切っていた目の周りが熱を帯びる。
視界が、じわりと滲んだ。
白い雪がほほをかすめる。
清らかで軽やかなものが、ひらひらと空を覆っていた。
まるで彼女をあやすように、なぐさめるように。
桜の言葉を聞いたわけではないだろうに、外に出たところで阿賀野がぴたりと立ち止まった。
「阿賀野保行」
底冷えのするような声が、大男の背中ごしに聞こえる。
決して大きくも強くもないその声は、不思議によく通った。
そして桜に突き刺さる、鋭い視線。
「………若」
阿賀野の声は、獣の唸り声のように低かった。
「やはりお前だったんだな、じい様の犬は」
阿賀野の持つ血に濡れた刀が、かたかたと音を立てる。
それを彼は自らの手に血の気がなくなるほど強く握りしめていた。
鬼がすらりと刀を抜く。
「それを返してもらおうか」
一切の感情を放棄したような声。
たったこれだけの言葉で、桜は強張っていた心と身体がふと緩むのを感じた。
鬼の声に気が抜けたのか、鬼の気迫に腰が砕けたのか。その場にへたりこみそうになる彼女を、阿賀野の太い腕が引き寄せる。
「何を。風巻の大殿から『花咲』を掠め取ろうとしたのはあなただ」
「本気で言っているのか」
鬼の声に、少しだけ苛立ちが混じったようだった。
「あの人はすでに狂っている」
「あの方の血を受け継ぐあなたがそれを言うのか!」
「身内だからこそ言わせてもらう。いまさらそれを連れていったところでどうなる」
「必要なのだ、あの方が、もとのあの方に戻るためには」
「無駄だ」
よどみなく鬼は言い放つ。
「あれは治るようなものじゃないだろうが」
阿賀野は嘲笑った。
「この方の起こす奇跡を、あなたは知っているのか」
びくん、と桜の肩が跳ねた。
「奇跡?」
訝しげな声に、桜は耳を塞ぎたくなる。
しかし鬼はあきれたように言った。
「そんなものに頼る気持ちは、おれにはわからん」
「……やはりあなたに『花咲』はもったいない。御前にお連れします」
「それで、それが無事で済むとでも?」
阿賀野は桜を見ようとはしなかった。
一歩、鬼が踏み出す。
すると気圧されしたように阿賀野が後退した。
「奇跡とやらのために、それを連れて行くのは許さん」
手放す気はないと、言ったはずだ。
心が、震えた。
白くかすむ視界の中で、青い衣をまとった鬼の姿がじんわりとぼやけていく。
気が付けば、桜は手を伸ばしていた。
「青―――」
次の瞬間、恐ろしい力で後ろへと引っ張られた。
ぎん、と間近で刃物と刃物がぶつかり合う音が響く。
背中越しに阿賀野が歯をくいしばる音が聞こえた。
「………ぐっ!」
「打ってこないとでも思ったか」
剣戟の音の合間に、場違いなほど静かで恐ろしく冷たい声が響く。
その間にも、阿賀野は桜を開放しようとはしなかった。
彼が体勢を変えるたび、あちこちへ引っ張られ、振り回されて目が回りそうになる。
だがいくら阿賀野が優れた武人でも、『青鬼』相手にそんなことが続くはずはない。
赤くうっ血した腕が痛み、乱暴に引きずられてふらふらになった桜は、一瞬足がもつれた。
どん、と大きな背中がぶつかる。
「あ……っ」
倒れる。そう覚悟したとき。
これまで以上の力で、桜は外側に腕を引かれた。
ひやりと冷たい風がほほをかすめる。視界が白く広がる。
―――――ざしゅっ。
くぐもったような、ひどく耳障りな音がした。
白い世界が、紅に塗りつぶされる。
疑うように目を見開く。
しかし視界を覆うとろりとした紅は、容赦なく桜の顔を、腕を、身体を濡らし染め上げていく。
紅の色は―――阿賀野の首から噴き出した、それは。
震えるほど、温かかった。