“風”の行方2
おかしい、と思った。
けれどもなぜおかしくなったのかがわからない。
ただ、話していただけなのに。
熊のように大きく、強く、優しく、どこか臆病な阿賀野は、目の前の男ではなかったのだろうか。
「青嶺様のことは、どうでもいい」
主君の名前を口にするとき、彼はわずかに苦しげな表情を見せた。
そんな表情も、桜にはまるで見覚えのないものだ。
「『花咲』の姫―――」
いつもなら桜を前にして感極まったように震える声は、ひたすら平坦に響く。
「あなたは、人が良すぎるのです」
差し出そうとした白湯の器は、中の温もりとともに桜の手から零れ落ちた。
かちゃん、と壊れる音がする。
「どうか、御身を大事になさって下さい」
割れた器を片付けなければ。
頭のどこかでそう考えるものの、足は逆に一歩後退る。
「お願いです、どうか」
一歩、踏み出されて、さらに一歩後退る。
「これ以上誰もお気にかけないで下さい」
こつん、と自分の足が薪に当たった感触でさえ、桜の肩を跳ね上げさせた。
「あなたが、大切なのです」
どうしてだろう。
優しい言葉ばかりなのに、震えが止まらない。
「わたしはあなたをここからお救いしたい――囚われてしまう前に」
滑らかに放たれた「救う」という言葉も、桜には恐ろしいだけだった。
いつまでも抑揚のない口調に、心がどうしようもなくざわつく。
「このままでは、あなたは弱ってしまう。それは許されません」
暗い瞳が、とろりと桜を捉える。
阿賀野は―――ふわり、と切なげに笑った。
「あなたは――あなたのそのお力は、“あの方”に使われるべきものなのですから」
ああ、そうだ。
この瞳。
澱んだ歓喜。痛いほどの熱。
これだけは、変わらない。変わらなかった、ずっと。
頭が、真っ白になった。
「ち、から、って……」
しゃべり方を忘れてしまったように、口が震えて動かない。声が出てこない。
「知っています」
「……っ」
恭しく阿賀野は頭を垂れた。
まるで怯えた桜を見まいとするかのように。
「あなたは『花咲』の中の『花咲』と呼ばれるほどの“力”を持つ姫君」
さび付いて動かない桜の口よりも、阿賀野のそれのほうが早く言葉を紡ぐ。
彼女の言葉は聞けないとでもいうかのように。
「わたしは知っているのです。奇跡の方」
彼は懐かしむように言った。
「山桜の枝」
寒気がするほどひどく柔らかで、穏やかな声だった。
「あなたに以前差し上げた花は、どこから持ってきたものかお分かりですか」
「な、ん―――」
桜はかすかに眉をひそめた。
「萌葱からお連れした途中、狩小屋で休憩をお取りになったはずです」
彼は、先を促すように大きな手のひらを桜に向ける。
あのときは、馬に乗せられっぱなしでへとへとになって。
気が付けば夜で。
木々の音を頼りに、暗闇の中を抜け出した。
追われて、詰め寄られて、そして―――。
「あっ」
若い山桜の枝にすがりついた、のではなかったか。
思わず上げた声に、阿賀野は満足そうにうなずいた。
「わたしも、あの場所に潜んでいました。万が一にも若君があなたを傷つけることを阻止するため。『花咲』を逃がさぬため。そして『花咲』の“力”をこの目で確認するために。それがわたしの役目でした」
どこか誇らしげに彼は言う。
「あなたが去った後、あなたが触れた桜は、見事に花を付けましたよ。気付いておられなかったようですが」
どこに咲いていたんですか、と桜は彼に言った記憶がある。
山桜が咲くには、あまりに早い時期だったから。
あの若木だって、まだ蕾らしい蕾も付けていなかったような気がする。
いつも、父や兄たちに言われていた。
桜は、いつも気を張っていなければならないはずだった。
けれどあの時はとにかく動揺して、混乱して、悔しくて、それを鬼に見透かされているのも嫌で、とても握っていた枝の事まで気が回らなかった。
なにかにすがりたくて。枝に捕まらずに立っていることができなくて。
そんな不安定な心が、山桜まで不安定にさせていたことを知らなかった。
持った名前のせいか、あるいはそれがあったからこそ名付けられたのか。
桜は、桜の木に影響を与えすぎるという問題を抱えていた。
養分になりそうな“何か”を持っているのか、あるいは単なる植物の好意かいたずら心か。こちらの迷惑などおかまいなしに木は自由に花を付け、ときに実まで付ける。
時間も季節もまるで関係なしに、である。
―――けれど、“まだ”花が咲いただけだ。
心の中で必死に言い聞かせようとする桜をあざ笑うように、阿賀野はさらに続けた。
「あなたの反応を見るために桜の花を献上しました。しかし、そこに思わぬ収穫がありました。桜の枝は、あなたの手の中で一瞬にして塵に変わってしまった。侍女にその手を近付けると、彼女は瞬く間に元気を取り戻したではありませんか。まるで、打ち上げられた魚が水の中に帰ったかのごとき回復でした」
桜は、思わず目を閉じた。
そして自分の浅慮を激しく後悔した。
見られて、いた。
実際“力”の行使には手が光るわけでも音が出るわけでもない。
まだとぼけることはできたかもしれない。
しかし“力”の存在を妄信する者にとっては、その状況だけでじゅうぶんだっただろう。
「あの方の話は、本当だった」
嬉しそうに、そのくせどこかうつろな声で彼は呟いた。
「気は進みませんでしたが仕込んだ微量の毒にさえ、あなたは気付いた」
「どく?」
水がめに毒が入っていたと知らされていない桜は、これには眉をひそめた。
毒で思い出すのは、鬼が肩に負った矢傷だけだ。
傷は桜が手当てをし、微量とはいえ“力”を行使した。
しかし青嶺は梶山家唯一の嫡男である。
阿賀野が桜の力を見定めるためだけに主君に毒矢を放つ。
そんなことが、有り得るのだろうか。
「青、さま、は―――」
声にならなかった言葉を聞くことはなく、どう解釈したのか阿賀野は顔をしかめた。
「そう。若君でさえ、あなたを脅かす者にしか為り得ない。あれはあなたを縛る」
がくがくと震える足に、かまどの端が当たる。
中には、さほによって薪がたくさん放り込まれていた。
ごうごうと炎が踊っているはずなのに、ちっとも熱を感じない。
ひどく寒い。手足が冷たい。
身体の震えが、止まらない。
阿賀野はねっとりと熱のこもる声で言った。
「あなたは優しすぎるのです。誰も彼も救おうとする。だから誰もがあなたを手元に置きたがってしまう。あなたに興味がなかったはずの若君まで。あなたは、風巻の大殿のために宇佐へ来たというのに」
あなたは大殿・梶山保経様のものだというのに。
抜けていると言われても仕方がない。桜は今の今までその名前を忘れていた。
先代宇佐領主・梶山保経。
その名前を、桜はたしかに聞いていた。
『花咲』を連れてきたのは、その人物の指示だと。『花咲』に用があるのはその人なのだと。
いつからだろう。その名前を聞かなくなったのは。
鬼が、何も言わなくなったのは。
「あなたの“力”には限りがある。侍女ひとりにあれだけ体調を崩されたのだ」
淡々と事実を告げる声が、桜を追い詰める。
「あなたが本当に治すべきは、大殿様の老いと病であるはず」
予想できた言葉に、すぐにも桜は首を横に振った。無理だ。
老いを治す。寿命を操る。それだけは、絶対に出来ないこと。
しないのではない。出来ないのだ。
「長くは待てない。もう待てないと、仰せです」
声が出ない代わりに、ただ必死に首を振る。
阿賀野がゆっくりと手を伸ばしてくる。
「さあ、どうか、姫。わたしと一緒に―――」
とっさに、手に触れたのは柄杓。
白湯を汲んで鍋に入れたままになっていたそれを、桜は思い切り横になぎ払った。
「―――っ姫!」
熱湯をかけられて阿賀野がわずかに怯む。
わずかな量でしかなかったが、大きく無骨な手が反射的に顔をかばった。
と同時に、桜は柄杓もぶつけて走り出した。
ぎこちなくしか動かない足を、必死に前へ出す。
外へ出られるのは、大男の真後ろにある戸口だけなのだ。
脇をすり抜けようとしたところに容赦なく大きな腕が突き出された。
振り払おうとして、逆に骨がきしむほどの力で手首を拘束される。
「あっ……く!」
呻いても暴れても、力が弱まる気配はない。
「お願いです姫」
桜の腕をひねり上げながら、困ったように阿賀野は言う。
「こんなことなら風巻にすぐにでもお連れするべきでした」
次話は明日更新予定です。もうちょっと続きます。