“氷”の上の酒2
かたり、と戸が開いて顔を出した人物に、栄進は眉をひそめた。
「裕長? どうした」
『花咲』が離れの小屋から城内に移り、栄進ら見張りたちには彼女の部屋の近くに控えの間が与えられていた。通常ここにふたり、『花咲』の部屋の前にひとりが配置されている。
もともとむさ苦しい男ばかりの城である。数少ない若い女性が集まる『花咲』周辺の見張りは、いまや若い武士たちの憧れのお役目となっていた。
雪が残る屋外に焚き火ひとつで立たされていた頃は、むしろ哀れみの目を向けられていたのだが。
角裕長はいまの時間、部屋前の見張りだったはすである。
なにか不測の事態が起こったのか。それとも、またあの姫君が抜け出したのか。
萌葱の使者が滞在している今、本当はあちこち出歩いて欲しくないのだが。
「それがな……」
困り顔の裕長の脇から、小柄な少女がひょっこりと顔を出す。
栄進は「やはり」と頭を抱えたくなった。
離れを見張っていたときより体力的には楽になった。しかし気苦労が増えたと思うのは気のせいだろうか。
奥に座っていた阿賀野が素っ頓狂な声を上げた。
「ひ……っ姫さま!?」
栄進に押し掛からん勢いで阿賀野が廊下に顔を出す。
相棒の暑苦しさと落ち着きのなさに、逆に栄進の頭は冷えた。
「……桜どの。何やってるんですかあなたは」
静かに、そして冷ややかに言ってやれば、『花咲』はうっとひるんだようだ。
『花咲』の少女は、“姫”と呼ぶと「自分はそんな身分じゃないから」と本気で嫌そうな顔をする。
いちばん従順なようである意味いちばん融通がきかない阿賀野は諦めたようだが、彼女は周囲の人間たちには名前で呼ぶように頼み込んでいた。本当は“様”付けでさえ居心地が悪いらしい。
別に萌葱の姫を騙っているわけじゃなし、慕われているのだから“姫”でもなんでも勝手に呼ばせておけばいいのに。
最初とはまるで正反対のことを考えながらじっと見下ろしていると、裕長の背後から、さらに彼女の侍女たちまでおずおずと現れた。
その手には、漆塗りの盆を持っている。
「……いまが何時かご存知で?」
「遅い時間だというのは分かってるんですけど――」
少し眉根を寄せて呟く彼女は、全然分かっていない。
普通の人間が寝静まる時間に、若い女性が男を訪ねて来るとは何事だ。
自分たちは彼女を守る立場で、ここはその為の控えの間ではあるが、こんな時間に彼女が出没していい理由にはならない。
世間ではじゅうぶん若造の枠内に収まるはずの自分が、どうしてこんな年寄りじみた説教をしなければならないのだ。
なんて厄介なものを連れてきたんだと裕長をにらんでみるが、彼もその辺の想像はついているらしい。顔色が悪いのは寒さのせいだけではないだろう。
そんな見張りたちの思いにはまったく気付かない様子で、桜は侍女が持っていた盆を栄進に差し出した。
上には杯と瓶子が整然と乗せられている。
「これを差し入れしたくて、案内してもらったんです。すぐ帰りますから」
瓶子からふんわりと漂う甘い香りに、栄進は眉をひそめた。
「酒ですか」
「といっても甘酒です。温かいうちにどうぞ」
そういえば、食事の下ごしらえとは別になにやら作っているらしいと報告を受けていた気がする。
甘味があって身体が温まり、なおかつ酔いも回らない。仕事中の差し入れにしてはまずまずだと思うのだが。
「どうしてまた甘酒なんですか」
「ええと……」
なぜか彼女は言葉を濁した。
その間に、後ろの侍女――城に入ってから付いたほうのふたりが、びくびくっと肩をすくめる。
それで、大体は読めた。
つまり、この姉妹がまた米の炊き方でも間違えてしまったのだろう。だからこそその米を処分するために甘酒を作ったと。
芯が残っていようと糊状だろうと、いままではかまわずに食卓に並んでいた。
少々もったいないような気もするが、同じく胃に収まるのなら一緒だろう。そして口から摂取する以上は、舌が喜ぶほうが良いに決まっている。
城の食事事情が大幅に改善されたことは、この萌葱からの客人に感謝しなければならない。
が、あくまで彼女の扱いは客人だ。
「たくさん出来たし、あなた方にはいつも…その、ご迷惑をかけてますから」
栄進は鼻白んだ。
いちおう自覚はあったのか。
だったら部屋で大人しくしていてもらいたいものだ。
「阿賀野さんには、桜の花ももらいましたし」
「は、『花咲』の姫……!」
阿賀野は感極まったようにごつい手を胸の前でがしいっと組み合わせる。
ひとの頭蓋骨など簡単に握り潰しそうなその音に、『花咲』は栄進の影に隠れるように後ずさった。
「我々なんぞに、なんと勿体無い……!」
「た、ただの甘酒ですよ?」
「あああ有り難いことです!」
草木も寝静まる真夜中に近い時間だというのに、なんだこの暑苦しさは。
熊男の気迫にむしろ怯えている少女もまた哀れで、栄進は熊の丸い顔を押しのけた。
「我々のことより、お身体の具合はいいのですか? まだお休みになっておられたほうが良いのでは」
「あああそうです。そうですよ姫!」
「……わたしは何ともないって言ってるじゃないですか」
「あなたの“大丈夫”は信用するなと若より言われてるんです」
「………」
『花咲』の少女はむっと口を尖らせた。
確かに夜目にも頬には赤みが差し、ずいぶん顔色が良くなったように思える。
あれから気が進まない様子の彼女を侍医にも診せたが、診断は彼女が主張したことと同じだった。
すなわち、「ただ疲れがたまっているだけ」。
無理もない。
いきなり見知らぬ男たちに有無を言わさず隣国へ連れてこられ、閉じ込められ、しかも昼夜通して病人の看病をさせられていたのだ。
心身ともに限界だったのだろう。
だが彼女が抵抗する力もなくぐったりと青嶺の腕の中に納まっている姿は、日ごろ落ち着きがないだけにかなり衝撃的だった。
この娘の場合元気すぎるのは考えものだが、大人しすぎるのもそれはそれで気になるものだと思い知った。
あれが、すぐに治るようなものなのだろうか。
栄進は漆塗りの盆を取り、言った。
少し前なら、毒入りか、そうでなければ何か下心があると絶対に受け取らなかったのだろうと内心で苦笑しながら。
「お気遣いありがとうございます。ですが、夜に部屋を出られるのはどうかお止め下さい」
『花咲』の少女は眉根を寄せた。
「あの……」
「我々が若君に叱られます」
いや言葉では叱らないかもしれないが、代わりに放たれる刃のような視線できっと短冊切りにされる。
けっこう切実な思いだったのだが、『花咲』が気になったのは別のことだったらしい。
彼女は「わかりましたけど」とあっさり簡単に前置いて、言った。
「あの、その言葉はなんとかなりませんか」
「は?」
「……どうして急にわたしの扱いが丁寧になったんですか?」
「―――」
不安げな顔つきでじっと見上げてくる少女に、栄進は一拍遅れて「それは」と言った。
『花咲』と呼ばれる萌葱から連れて来た客人、としか知らなかった頃は、彼女の存在自体が気に入らなかった。
「怪しい存在と思われていることは知ってます。当然だと思います」
まさしく最初思っていたことを言われ、さらに肯定されて栄進は思わず口元が緩んだ。
「でもわたしだって好きで来たわけじゃ――――あの、黒崎さん?」
「……どうぞ栄進とお呼びください。黒崎の家は父が現当主ですので」
「栄進、さん……」
言いにくそうに顔をしかめる『花咲』に、とうとう栄進は声を出して笑った。
「最初の無礼はお許し下さい。たしかにあなたは得体が知れなかったもので」
「黒崎どの!」
言いすぎだと言わんばかりに阿賀野が怒鳴る。
だが目の前の少女に気分を害した様子はない。
「いまは、違うんですか?」
自分の事だというのに、むしろ信じられないような顔つきで彼女は窺った。
「あなたは若を毒から救って下さったでしょう」
「……いえ、あれは」
「あの方は将来宇佐の領主となるべき方。何かあっては我々が困るのです。少なくともあなたは若にとって害にはならない。それでじゅうぶんです」
むしろ側にいてやってくれ、と言えばこの少女はどんな顔をするだろう。
彼女は天女だとか女神だとか、そんな不確かな存在ではない。
あえて当てはめるなら、守り刀、だろうか。
普段は懐深くに隠し、常に身近に置き、いざというときには身を守る。
ほんとうは、彼女こそ自分たちを恨んでいいはずだ。
それなのに屈託のない笑顔さえ見せて、甘酒なんぞ差し入れてくる。
この場の誰よりも毒薬に詳しいはずの『花咲』は、例えどんなに相手を憎んでいようとも、甘酒に毒を入れることすら思いつかないに違いない。
少し、直亮の気持ちがわかったような気がする。
血なまぐさい世界に身を置く我らが『青鬼』は、『花咲』の傍らでときどき人に戻るのだ。
とろりと暗い水底から、澄んだ空気を求めて浮かび上がるように。
「若があなたを側に置く、その意味がわたしにも分かったということです」
「……よく分かりませんが」
『花咲』は首をかしげた。
「わたしよりも薬師か医師をもっと多く置いたほうがいいのでは?」
青嶺が負傷したときに侍医がいなかったのをまだ気にしていたらしい。
見当違いの言葉に、栄進は笑った。
「差し入れはありがたく頂戴します。ですから」
頼むから、とっとと部屋にお戻り下さい。
我ら見張りの、心の安寧のために。
栄進は、ぱちぱちと瞬きする『花咲き』にもう一度念を押した。