“砦”の攻防1
明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお付き合い下さいませ。
報告を受けて城の台所を訪れた青嶺は目を疑った。
昨日まで青い顔をして寝ていた『花咲』と侍女のさほが、炊事場で元気に食事の支度をしていたのだ。
「あ、若様―。 いらっしゃいませ」
血の気のなかった頬に赤味がさして見えるのは、元気になったのか、それともかまどの熱のせいか。
のんびりと語尾がのびるしゃべり方は相変わらずだが、その割りに小さな細い身体でくるくるきびきびとよく動く。
火加減を見ていたかと思えば隣の鍋の中身を確認してかき回し、かと思えばいつの間にか後ろで器を並べている。
炊事場をこまねずみの様に動き回る姿が、おそらく本来のさほなのだろう。
侍女の働きぶりに驚いたのは青嶺だけではない。
「ちょっと“若様”」
ぽかんと口を開ける彼に、桜がため息混じりに言った。
「あなた雇用主でしょう。まだ休んでなきゃだめだって、彼女に言ってやって」
「……さほの主はお前だ」
「わたしじゃ聞いてくれないんだもの」
「大丈夫ですよ、ひ……桜さまー。わたし元気です」
かまどの前で両腕を上げ、ガッツポーズしてみせる侍女。
まるで別人である。
「それよりもひ…桜さまのほうが休んでくださいよう。昨日は一日中寝てらしたじゃないですかー」
「…さほの言う通りだな」
侍女の言葉で、矛先が桜に向いた。
まったく悪気のないさほのひたむきな眼差しと、鬼の情け容赦ない視線の両方が桜に突き刺さる。
とくに鬼の刃物のような視線にはだいぶ慣れてきた気がするのだが、痛いものはやはり痛い。
つい後ずさりしてしまいながら、それでも桜は何とか言い返した。
「わ、わたしは大丈夫です」
「そうか? 顔色がまだ悪いぞ」
「大丈夫だったら大丈夫なんです」
本音を言えば、まだ少し身体がだるい。
が、それを正直に告げるつもりはない。
言ったことに嘘はない。
実際起き上がれないほどの頭痛はすっかりなくなったし、寝ていなければならないほどつらくもない。安静にしても動いていてもその後の回復に差はないだろう。いま感じている桜の不調はその程度のものだ。
黒く鋭い双眸が、探るように細められる。
「無理してるだろう」
「してません」
「なんのために城に連れてきたと思っている」
「余計なお世話です」
「ちゃんと休んでろ」
「休むのはさほです」
寝ていたほうが楽なのは当たり前だが、これ以上周囲に情けない姿をさらしたくはなかった。だらだら床にいて妙な詮索をされても困る。
「わたしは、わたしじゃなくてさほの話をしてるんです」
「おれはいま、お前の話をしているんだがな」
「わたしは一日休めば治るって言ったでしょう。もう心配いりません」
「そう見えないから聞いている」
「だから、わたしは大丈夫ですってば」
堂々巡りである。
なんだか引けなくなってきた。どうして意地になっているのかは分からないが。
鬼ははあ、と苛立ちまぎれのため息をつく。
彼もどうやら引き下がる気はないらしい。
彼はいきなり桜の右手首をつかんだ。
「ちょ……なに……っ」
抗議しようとした言葉が途中で跳ね上がる。
「ふうん、これは痛いのか」
鬼の視線の先には、桜の右腕に巻かれた包帯。
中は山道で木から転げ落ちて擦りむいた傷だ。
それにわざとらしく顔を近づけ、宇佐の『青鬼』はうっすらと笑った。まさしく鬼の笑みである。
「お前にはこれもあるな」
「……っ」
腕をひねり上げられれば、誰だって痛いと思う。
「大人しくしていないと、傷口が開くんじゃないのか?」
こんな風に乱暴に扱われれば、どんなに安静にしていても開くと思う。
涙目できっとにらみ上げると、鬼はわざとらしく首をひねった。
「妙だな。おれの肩はもう治っているのに、お前の怪我はまだなのか」
「あなたが異常なのよ!」
桜は、相手が鬼だということも忘れて怒鳴った。
桜が手当てをした鬼の怪我は、とっくに傷口が塞がり包帯も必要ないほどに回復している。毒にしても、一昼夜もたてばあっけなく熱は下がり、あとはぴんぴんしていた。
いっぽうの桜の擦り傷は、あくまで“普通”に回復している。
出血は止まっているし、触らなければ痛みはほとんどないし、むしろかさぶたが出来てかゆいくらいだ。乱暴に引っ張られれば傷口が開く可能性もあるだろうが。
一般的に見ても、この回復具合は早くも遅くもないはず。
変なのは、鬼のほうだ。
確かに、桜は薬の塗布と同時に治癒能力を高める“力”を、鬼の肩に少しだけ注いだ。こっそりやったので、傍目には普通の治療にしか見えなかったはずだ。
なのだが、それにしても鬼の回復は早すぎた。
同じく“力”を注いださほがやたら元気そうに見えるのは、桜の手前少々無理をしてそう見せているからだと知っているが、鬼の回復力は本物だ。逆にどこかおかしいんじゃなかろうかと疑いたくなってくる。
桜が“力”加減を間違えた可能性は……かなりある。
だが彼女の“力”に傷や病そのものを治す効果はない。
本人の持っている回復力、あるいは生きようとする“力”を高めるもので、それが相手に備わっていなければまるで役に立たない代物なのだ。
つまり、日ごろから身体を鍛えていたり毒に慣らしていたりとさまざまな要因があるのだろうが、鬼はそれこそ鬼のように身体が丈夫だったのだ。
桜のささやかな助けなど、必要ないくらいに。
毒に動揺して秘密がばれる危険を顧みず“力”を行使してしまったわけだが、勝手にやった挙句、勝手に疲れた自分が馬鹿みたいだ。
むっと顔をしかめると、それを見た鬼もむっと顔をしかめた。
「まあ、どうせ包帯を替えようと思っていたからな。あとで確認させてもらう」
「……ただの擦り傷でしょう」
鬼の肩の手当てをしたのは桜だが、実は桜の右腕を手当てしたのは鬼だった。
薬が出来上がって鬼の肩の手当てをしようとしたら、「お前のほうが先だろう」と布を巻いて止血してあっただけの右腕に問答無用でその薬を塗りたくられたのだ。
おそらく、桜の反応が見たかったのだろう。
毒などの余計なものを混入していないかどうか、確かめる意味で。
もちろんそんなものは持っていないし入れていない。
鬼の手当ては、むしろ桜がやるより手際が良いくらいだったが、彼女は悲鳴をあげないようにするので精一杯だった。
この塗り薬、ものすごくしみるのだ。
傷口にしみると知っていて、積んできた薬草をたくさん練りこんだ。
これくらいの意趣返しは許されるだろう。しみるがそのぶん効果抜群なのだし。
――と、少し口元が緩んでしまったのがまずかったのかもしれない。
あらかじめ自分も使うと分かっていれば、もう少し薬草の配合を工夫したのに。
そのときの塗り薬はもうないが、顔はどうしても引きつってしまう。
気のせいか、右腕もなんだかひりひりする。
「梶山家のご子息さまにわざわざ見ていただかなくても結構ですけど? 手当てくらい自分でできます」
なぜか、鬼は意外そうな顔をした。
「あれくらい血が出れば、女なら大騒ぎするものじゃないのか?」
「……しないわよ。これくらいで」
どこのお姫様だ。
右腕を鬼の手からどうにか取り返した桜は、思い切り眉をひそめた。
まあ、豊国家の『花姫』あたりなら同じ傷でぎゃあぎゃあ泣き喚き、十日間寝込んでひと月自室に籠もりきりになりそうな気はするが。
日々の庭師の仕事で、小さな擦り傷切り傷などは日常茶飯事だ。
兄たちがうるさいので、いちおうその都度跡が残らないようにはしているが。
今回の傷も、範囲は広いが深くはないので、まあ大丈夫だろう。
目の前のこの男が、余計なことをしなければ。