“病”癒す薬は2
侍女の寝顔を見ていて、自分のまぶたもだんだん重くなってきた時である。
とんとん、と控えめに戸口が鳴った。
「申し訳ありません。『花咲』の姫はいらっしゃいますでしょうか」
恐る恐るうかがう野太い声に、桜は少しあきれた。
囚われの『花咲』がいなかったら、一体どうするつもりなのだろう。
まあ、確かに一度抜け出しはしたのだが。
しかしすぐに返事をすることはできなかった。
寝入ったばかりのさほを起こしたくなかったし、そのさほがいつの間にか桜の着物の袖をきゅっとすがるように握りしめており、動けなかったのだ。
無防備な寝顔が、なんだかほんとうに可愛い。
年齢はさほのほうが上のはずなのだが、小さな子供の面倒をみる母親になった気分である。
薬のせいか、あるいは桜のただの願望か、寝顔も穏やかになったような気もする。
木戸の向こう側は、返事がないことにかなり動揺したらしい。
がたがたん、ばきっと通常より要領が悪くうるさい音を立てて、戸が開けられた。
桜が抜け出してから入り口の戸締りがいっそう厳重になったので、いちいち開けるのも大変なのだろう。
ばきって……どこか壊れていないといいのだが。まだまだ隙間風はつらい季節だ。
果たして入ってきたのは茶色い毛並みの熊――ではなく、袖なしの毛皮を羽織った阿賀野だった。
なんとなく大きな身体の後ろを覗いてみたが、野犬やほかの見張りたちの姿はない。
口元に指をあてて「しっ」と合図すれば、慌しく狭い木戸をくぐり、部屋に乗り込んで几帳を押しのけようとしていた熊男はびしっと凍りついたように止まった。
「も、ももも申し訳ありま」
「しー」
「も、」
軽くにらむと、今度こそ阿賀野は口をつぐんだ。
しゅんと背中を丸めた姿に、桜はため息をつく。
「……返事しなくて、ごめんなさい。さほを起こしたくなかったから」
「いいいい、いえ、ちゃんといらしたのですね。ご無礼を」
かなり信用がないらしい。
抜け出すときに外した縁側の木枠はすでにより堅固に修復され、見張りの数を増やされているというのに。
それにしても、この熊男は会う毎に挙動不審になっていくような気がするのだが。
ちなみに野犬男のほうは、桜が鬼に担がれて戻ってきてから、少しだけ態度が和らいだ。
どちらも、不可解だ。
無意識にでも何かしたんだろうか。
じっと見つめていると、耐えられなくなったように阿賀野は口を開いた。
「その、侍女どのの具合はどうですか?」
「あまり変わってないけど……」
そういえば、これまで治せ治せと言われてもさほの様子を直接聞いてくる人はいなかった。
それもまた変な話だと思いながら、桜はあどけない寝顔の侍女を見下ろす。
阿賀野は、同じ『青鬼』の下で働く者として彼女を心配しているのだろうか。
彼女が眠っていると知ってからは、こんな会話もちゃんと小声にしてくれる。
……もしかして、好きだったりするのかな?
どこか必死な形相の熊に視線を戻して、桜はつぶやく。
「すぐに治せなくてごめんなさい」
「い、いいえええ」
とんでもない、と首を横に振りながら、肩はがっくりと落ちている。
やっぱりさほのことが心配なんだろうか。
が、あまり戸を開けたままにしないで欲しい。
寒い空気が暖かい部屋にどんどん入り込んでくるのだ。
さほに被せた布団代わりの厚手の着物を、そっと引き上げる。
「さほの様子を見に来たんですか?」
「い、いえ。あいや、それもありますが……」
熊男は「しばしお待ちを」と言って一度外へと戻っていく。
すぐに戻ってきた彼の大きな手の中には、数本の枝が握られていた。
ほんのりと色づく小さな花と褐色の柔らかな葉がたくさん付いている。
桜は目を見開いた。
「……すごい。どうしたのこれ」
「お名前と同じだと聞きまして」
たしかにそれは桜の花だ。
ただし、こんな早春にはお目にかかれない品種の。
「山桜、よね。こんなに早く、どこに咲いてたの」
「山道で、見つけたのです」
桜が首をひねると、熊も不思議そうに首をかしげた。
切り開かれた山道の、日当たりの良いところならば気の早い花が開くこともあるかもしれないが…。
この家のすぐそばに立つ桜の巨木も山桜だったような気がするが、まだ蕾も小さかったのに。
「あの、お詫びを」
熊男が丸い背中をいっそう丸めてうなだれる。
何の、と聞く前に彼はがばりと彼女の前で土下座した。
「あ、阿賀野さん!?」
「あなた様は侍女どのの為に心を砕いて下さっていたのに、話をしっかりと聞くこともなく、危険な山道にお出しして挙句そんな怪我まで負ってしまわれて―――」
「ちょ、ちょっと……」
「くれぐれもよろしく頼むと、“お館様”より仰せつかっていたのに!」
「………」
さほのことを考えていたのは間違いではないが、勝手に抜け出して勝手に怪我を作ってきたのは桜自身だ。
彼らが取り合ってくれなかったのも主の『青鬼』が襲撃され負傷した直後だったからで、そんな余裕がなかったのだと今は知っている。
本人は平気そうな顔をしていたが、あれは毒矢による怪我だった。すぐに死ぬような種類の毒でなく、身体に入ったのも致死量ではなかったようだが。
それでも解毒もそこそこに山道を歩き回るなど、あの鬼は馬鹿じゃなかろうか。
毒が身体に回ったらどうするつもりだったのだ。
原因が自分だと分かっているので、鬼に言った通り怪我の手当てだけはちゃんと……真剣にやった。
すり潰した薬草と小言をたっぷりとつけて。
まあ主治医くらいはいるだろうから、処置に関しては余計なお世話だったのかもしれないが。
さらに騒ぎを聞きつけたさほが「自分もお手伝いを」とヨロヨロ起き出して来たので、なだめて説得して結局最後は“命令”し、再び寝かしつけて……というひと騒動を思い出し、桜はつい遠い目になる。
目を逸らしたところで、熊男の大きな手に握られた小さな花が目に入った。
「阿賀野さん」
「どうぞ呼び捨てになさって下さい、おれ…わたしなど!」
「……そういうわけにはいきません。それは置いておいて。つまりその山桜がお詫びの品ということですか?」
花を潰す勢いで再び平伏しそうになった熊を止めると、彼は少し照れたように頭をかいた。
「こんなもので許していただこうとは思っていませんが……」
「ですから、許すもなにも――」
「あなた様のために手折ってきたものです。よければお納め下さい」
ははーっと深々と頭を下げて桜の枝を差し出される。
とても受け取りを拒否できる雰囲気ではなかった。
拒否するつもりもなかったのだが、こうも大げさに捧げ持たれると逆に引いてしまう。
彼の羽織った毛皮の上着には、雪や水滴がたくさん付いている。
どこから持ってきた山桜かはわからないが、少なくともこの近所ではなさそうだ。
これは、罠だろうか。
誰かから、何かを聞いて、自分のところに自分と同じ名前の花を持ってきたとしたら…。
しかし手折ったばかりの山桜は欲しい……さほの為にも。
阿賀野の様子はとても必死で、こちらを試しているようには見えない。
おそらく桜が受け取らなければ、きっとずっとこのままの体勢で居続けるのだろう。
開けっ放しの戸は、そろそろ本当に寒い。傍らのさほも肩をすくめたような気がする。
はあ、とため息をついて桜が花の枝を受け取る。
阿賀野がそれにぱっと顔を輝かせたときだった。
「何やってんだお前ら」
恐ろしく低い声が雪のように降ってきた。
宇佐の『青鬼』が几帳の上から頬杖をついて、桜たちを見下ろしていたのだ。