“水”をもたらすもの3
「うう……」
ほぼ崖のような斜面を転がり落ちた桜は、呻いた。
身体のあちこちが痛む。雪と枯れ草がある程度の衝撃を吸収してくれたのだろうが、その冷たさがまた痛い。そのくせ右腕はひりひりと熱いので、擦りむいたのかもしれない。
「………ったく」
ため息交じりの声が下から聞こえ、桜はあれ? と内心で首をかしげた。
そういえば下が妙に柔らかく……暖かい。
そろりと顔を上げてみる。
とたん鋭い視線に突き刺され、息の根が止まるかと思った。
彼女が下敷きにしていたのは宇佐の『青鬼』だったのだ。
見張りの熊とか犬とかならともかく、なぜ鬼がここにいる。
桜をあの家に押し込めてから、まったく姿を見せなかったのに。
鬼の腹の上で硬直していると、耳元に雷が落ちた。
「何やってんだおまえは!」
「ご、ごめんなさい……」
慌てて降りようとするのだが、冷えた上にあちこちぶつけた身体はなかなか動かない。
もたもたしていると、彼は桜をくっつけたままのっそりと起き上がる。
鬼が親切に抱き起こしてくれるわけもなく、桜は重力にしたがってずるずると彼の太もものあたりにずり落ちた。
「簡単に逃げられると思うなよ」
雪よりもなお冷ややかな眼差しで、彼は言う。
「ひとりで山を越えられるとでも思ったのか」
この視線ひとつで逃げる理由にはじゅうぶんだと思う。やっとの思いで鬼の上から退いたのに、彼は座ったまま立ち上がろうとはしなかった。
緊張感のある、嫌な近さに彼の顔がある。
「おまえは」
まだなにか怒鳴られると思って身構えていた桜の耳に、疲れたようなため息が届いた。
「ほんとうに、何やってたんだ。あんな細い木に登って」
逃げる気あるのかおまえ。
あきれたように呟いた鬼に、むっとして言い返す。
「別に、逃げるつもりで来たんじゃないですけど」
「それならなぜここにいる」
「水が欲しかったんだもの」
間発入れずに返した言葉が、唐突に聞こえたらしい。鬼は眉をひそめた。
「……は? 水?」
「湧き水があるって聞いたから」
湧き水が、たしかにここにはある。
西峰城の飲み水を全てまかなっているほど水量は豊富で安定しており、逆に言えばそれ以外の水場がほとんどない。
「おまえのところの水がめにも、その水が汲んで置いてあるはずなんだが」
「変な臭いがするんだもの。少し苦味があるみたいだし。あんなものをさほに飲ませるわけにはいかないから、ちょっと確認したかったの」
飲み水のせいかどうかはわからないが、さほの容態はあまり好転していない。それどころか悪くなっているような気もする。
食事も水もそれなりに口にしているのに、だ。
青嶺は奇妙な顔をした。瓶の水なら彼も口をつけたが、別に匂いも味も気にはならなかったのだ。
もっとも、戦場での粗食に慣れている彼は、毒さえ入っていなければだいたいのものは口に入れられる自信がある。毒だって少量ならば平気だ。
「せめて白湯で飲ませようと思っても、鍋もくれないし」
「鍋? だから直亮に言えと」
「言ってもくれなかった」
桜は口を尖らせた。正確に言えば、直亮ではなく見張り連中にとりあってもらえなかったのだ。
「直接言う機会も与えてもらえなかった。なんだか忙しかったみたいで?」
「………ああ」
なにか思い当たったらしい。鬼が目をそらす。
「なんでも用意すると言ったのはそっちじゃない」
「それは……、悪かったな」
鬼は気まずそうに呟いた。珍しく歯切れが悪い。
話を逸らすように、彼はすぐに「それで」と続けた。
「水はどうだったんだ?」
「甘かった」
「は?」
「味が違ってた。嫌なにおいもしないし。ほんとうにここで水を汲んだのかしら」
湧き水の水は美味しかった。気は優しくて力持ちの水汲み係・阿賀野を疑うわけではないが、水がめの水と湧き水は別物のように思えて仕方がない。
鬼は探るように鋭い印象の目を細めた。
「じじいの差し金か?」
「え? なに?」
口の中でひそかに呟かれた言葉は、首をひねる桜の耳には届かない。
「―――で? 水を確認したあと、どうして戻らなかった?」
桜がいたこの場所は、湧き水からさらに山道を奥へと進んだ場所だった。
この辺りから急に道が険しくなり、山の尾根づたいに進めば萌葱の国にたどり着くこともできる。
だから、またしても「逃げた」と思われたのだろう。桜の軽装では到底無理な厳しい道のりではあるが。
「もしかしたらほかに湧き水とか、きれいな小川とかあるのかもしれないと思って探そうとして」
「木に登って探してたとか言うなよ」
「まさか」
桜はあわてて首を横に振った。
視線が痛い。そして冷たい。
「も、もう諦めて、水を汲んで帰ろうかと思ったんだけど。ふきのとうとか、山菜がちらちらと顔を出していたから、さほに食べさせてあげたいなと思って……」
ふらふらと人を馬鹿にしたような足跡がついていたのは、そういう理由だったらしい。
よく見れば、転がった傍に水差しがちょこんと置かれている。中に入っているのは水ではなく、何種類かの野草だ。
「それでここまで来たら、たらの芽を見つけたの」
しがみついていた木のそばには、たらの木が伸びている。見上げると新芽がなくなっていた。
だとすれば、一緒に落ちたのかもしれない。周辺をきょろきょろと見回しかけた桜は、いきなり手首をつかまれた。
鬼は高級食材の山の幸よりも、それを指さす桜の腕に注目していた。
「おまえ……怪我してるじゃないか」
「え? ――あ」
言われて、桜はその惨状に息を飲んだ。右手首からひじにかけて、ざっと擦りつけた様な傷が無数に走っていたのだ。
たらの木の棘にでもひっかけたのか、無残に裂けた着物の袖にはじわりと赤いしみができ、周囲の雪にも広がっている。
道理で腕が熱いしひりつくはずだ。予想外の出血をぼうっと見ていると、いきなり手首を引っ張られた。
「い、いいいいたっ」
傷が引きつれる痛みに、思わず悲鳴を上げる。
「さほの病を治せと言ったのはこっちだが、それでお前にどうにかなられては困る。それとも、花咲はこんな傷くらい瞬時に治してしまう力を持っているのか?」
「そんな便利な力はないって言ってるでしょう!」
奇跡のような万能の力が『花咲』の一族に備わっているならば、母親も、先代にして初代『花咲』である父親も、桜たち兄妹を置いてこんなに早く亡くなったりはしないだろう。
涙目で訴える桜を観察するようにじっと見つめた後、青嶺はため息をついた。
懐から手巾を取り出し、傷口に器用に巻きつけていく。傷の応急処置をされているのだと理解した頃にはあらかた終わっていた。
その手つきは妙に手馴れていて、しかも素早い。
「帰ったらちゃんと手当てしてやる」
桜が口を開くより先に、青嶺が立ち上がる。
無骨な仕草で、しかしごく自然に、彼は左手を差し出した。
「立てるか。それとも担いだほうがいいか?」
「た、立ちます」
少し意外な気分で手をのばしかけたものの、視界に入った鮮やかな赤にぎくりとして手を止める。
彼のくすんだ藍色の着物の袷が、赤く染まっていたのだ。よく見れば腹や袖のあたりにも血が飛んでいる。
視線に気がついた鬼は、「ああ、おまえの血だな」と無造作に自分の着物を払った。
当然ながら血痕が取れたわけではない。が、鬼はそれで気にならなくなったようだ。
「おれは怪我などしていない。担ぐのにまったく支障はないぞ」
「そうじゃなくて、その、汚してしまってごめんなさい」
宇佐梶山家の嫡男というだけあって、くたびれて薄汚れた着物に見えても素材はかなり上質だ。
借りている桜の小袖にしても、汚した上に破いてしまっている。
「血は慣れている。問題ない」
彼は怪我をしていない左腕を、おもむろに強く引っ張った。
「え、ちょっと……」
反射的に腕をほどこうとする。
しかしふたりの腕力と握力には絶望的な差があり、しかも身体がかじかんでいるのでうまく力が入らない。
抵抗らしい抵抗もできないまま、少しかがんだ鬼の肩に、桜はまたしても俵のように担がれてしまった。
「じっ自分で立つって言ってるのに!」
「やっぱりおまえ、冷えてるなあ。口が紫色だし」
これだけ近くにいればごまかしようがない。冷えた自分の頬がぐあっと紅潮するのを桜は自覚した。
雪が残る山道を春用の小袖で歩き、しかも転がって雪まみれになれば、寒くないはずがない。彼女は会話している間もずっと小刻みに震えていたのだ。
鬼に弱みは見せたくないが、止まらないのだからしょうがない。
「身体も動かないとみた。運んでやるから耳元で怒鳴るな」
言いながら、彼はそのまますたすたと歩き出してしまう。いつもよりはゆるやかな歩調だが、足取りに危ういところはない。
桜は慌てて叫んだ。
「お、お願い! 止まって!」
ぱしぱしと背中やら肩やらを叩く。せっかく採取した山菜や薬草を置いていかれては困る。それに水も汲んでいかなければ。
すると意外なことに、びくんと鬼の肩が強張った。
そんなに力を入れて叩いたわけではない。多少力を込めたところでいつもはびくともせず平然と構えているのに、そんな反応に桜のほうがびっくりしてしまう。
とっさに押し殺してはいたが、呻き声も確かに聞いた。
変だ、と思った。
そういえば、今日桜が乗っているのは左肩だ。
いつも荷物担ぎされる右肩を見る。すると、後ろ側にぼんやりとした赤色の小さな染みを発見した。さっき叩いたあたりだ。
桜のものではない。
明らかに衣の内側――鬼の身体からにじんだような、まだ新しい血。
「あの、お…梶山、さま?」
「青嶺でいい。なんだ、まだ何かあるのか」
腹に響く低い声は、これ以上の会話を拒否するような不機嫌さをにじませている。
それでも言わずにはいられなかった。
「わたしは大丈夫です。歩けますから、その……あなたも、怪我、してるんじゃないんですか?」
鬼が息を飲むのがわかった。
「もしかして、わたしの下敷きになったから……」
「ちがう」
即答し、彼はふう、と息をついた。答えてしまった。
つまり、怪我を認めてしまったのだ。
「簡単にばれたな」
意図して隠すつもりはなかったが、あえて話すつもりもなかったことだ。
「大したことはない。これくらいの矢傷は怪我の内には入らない」
「矢、傷……って」
それは矢が飛んできて突き刺さった傷、ということだ。
この前までは確かになかったはずの傷だ。
矢で負傷していた。だからこの鬼はしばらく姿を見せず、側近の直亮は忙しかったのだろうか。
桜を担いで平然と山道を歩くことができるのだから、彼の言う通り大したことはないのかもしれない。
けれど、ここは彼の国なのに。
戦場では、ないのに。
「宇佐の『青鬼』は恨まれてるからな。日常茶飯事だ。刺客は捕らえたが、雇い主を吐くことはないだろう」
きっと明日も雨だろう。そんな天気の話をするように、彼は淡々と言葉を吐き出す。
「萌葱がおまえを取り戻そうとしているのかもしれないぞ。嬉しいか?」
なんなの、と思った。
自分が命を狙われていたんじゃないの。どうしてこんなに平気そうなの。
肩の傷は血を流し、痛むはずなのに。
下ろせと言っているのに、動けると言っているのに、彼は桜を離そうとはしない。まるで、いま手を離せば小鳥のようにどこかへ飛んで行ってしまうとでもいうように。
意地でもやせ我慢でもないようだった。
ただ、慣れているのだ。この程度の矢傷など問題にならないほど。
桜の傷の処置が手早いはずだ。
急にがくんと彼の身体が傾いたので、桜はまたしても小さく悲鳴を上げた。降ろしてくれる気になったのか、あるいはもしかして倒れるのかと思いきや、彼は彼女を肩に乗せたままで水差しを拾い上げ、再び何事もなかったように歩き出す。
「あの……」
「だから、なんだ」
よっこらせ、と負傷した鬼は桜を抱えなおす。
「別に『花咲』に怪我を治せとは言わない。そんな便利な力はないんだろう?」
期待はしていない、と言いながら彼女を捕らえる腕がゆるむ気配はない。
「力は……ないけど」
唇をかみしめてから、桜は呟いた。
「採った薬草の中に、怪我に効くものがあるから……手当てはできるかも、しれない」
沈黙が下りた。
ざくざくざく、と鬼が大地を踏みしめる音だけが辺りに響いて、木々の間に吸い込まれていく。
「おまえが?」
危なげない足音に、訝しげな声が混じる。桜の言葉さえ、聞き違いかと疑っているような声音だ。
「わたしは『花咲』だから。薬草も植物でしょう。知識はあるんです」
「……『花咲』。おまえ、ほんとわけが分からん」
それはこっちのせりふだ。
口には出さずに桜は思った。
それになぜこんなことを口走ったのか、自分でもわからなかった。
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