“水”をもたらすもの2
『花咲』の姫を迎えた家は、もとは城が出来る前の仮住まいの一部だった。
山のふもと、木々に埋もれるようにして建つそれは、こっそりと人を隠すのには調度よい物件である。冬は程よい風化で建物自体が周囲の景色に馴染んでしまっているし、夏は茂った木々が目隠しになる。
とはいえ、相手は得体の知れない『花咲』である。入り口はもちろん、窓や雨戸など内側から開かないように細工が必要だったし、天井から床下まで、逃げられそうな場所はすべて調べ、手を打っておいた。
もちろん、見張りも信頼の置ける部下をつけた。
のだが。
「なんだと、逃げられた?」
見張りの報告を聞いて、訪れた青嶺と直亮は顔を見合わせた。
「いつの間にか……縁側のほうに足跡を見つけまして、不審に思って中へ入って確認したところ―――」
「逃げられていたと」
直亮に先を言われ、見張りに立っていた阿賀野はすくみ上がった。
「も、申し訳ありません!」
「油断をいたしました」
隣で主君を前に忠犬のように背筋を正している黒崎も、憮然とした表情をしている。
「まあ、すぐに見つかるだろうが」
件の足跡が外部からのものではないと確認して、むしろのんびりと直亮は言った。
青嶺のほうも、いらついてはいたが慌てた様子はなく、ずかずかと屋内へ入っていく。
『花咲』の姫を迎えるために調えた室内は程よい暖かさで、軽い甘さのある香りがふんわり優しく満ちていた。
几帳を押しやると、綿の入った着物を丁寧に被せられた侍女がたったひとりですやすやと眠っている。
ちなみに、寝息は穏やかだが顔色はまだまだ病人のそれだ。
縁側のほうへ行くと、彼は片眉を上げた。
「おい直亮。戸は全部取り変えたんじゃなかったのか?」
「もちろんだ」
「腐ってるじゃないか」
「は? そんな馬鹿な」
直亮は言ったが、確かに雨戸は一部が黒ずんでおり、止め具がきれいに外された跡がある。外したのは、おそらく『花咲』の少女だ。
「……んん? 本当だ。変だな」
首をひねる直亮に、青嶺はため息をつく。
「おまえでもウッカリとかいうのがあるんだな。ざま見ろというかこのやろうというか」
「……いや」
「まあいいだろう。おれが追う。直亮はここで待機。おまえ、体力ないから」
「いや、おまえは今―――」
「大丈夫だ。なんともない」
言いよどむ側近を遮って、青嶺は断言した。左手で、右肩に触れながら。
直亮は主と縁側の腐食部分とを見比べて、軽く嘆息する。
「よろしく頼む。まあ、逃げられるとかより、どこかで滑り落ちていないかとか、冬眠明けの熊に遭遇してないかとか、そっちのほうが心配だしな」
「……そうだな」
青嶺もため息をついた。
「応援が必要なら呼べ」
「ああ」
見張りのふたりがそれぞれ同行を申し出たが、断っておく。
山歩きに慣れていない女ひとり。そんなに人手は必要ないはずだ。
足跡は、山の奥へと続いている。
☆ ☆ ☆
梶山青嶺は呆れていた。
正直なところ、拍子抜けだった。
無理やり連れてきたのだから、彼女がどうにかして自分たちから逃れたいと思うのは当然だ。
しかしただ逃げるだけでは、それは普通の人間と変わらない。
自分の度肝を抜くような何か。あっと言わせるような何かを、青嶺は『花咲』に求めていた。
求めなければならなかった。そうでなければ、さらってきた意味がない。
『花咲』の娘は、普通だった。
自分はただの庭師だと言いながら、薄紅色の上品な衣をその辺の『姫』よりもよほど品良く身につけ、震えていたくせに怖がる素振りを見せず、臆することなくこちらをにらむ姿が新鮮ではあったが。
花咲のものと思われる小さな足跡は、縁側を下りてからまずそばに生えている桜の大木に歩み寄り、なぜかふらふらと、山の奥へ入っていく。
奥へ向かうのは見張りの目を避けるためだと説明がついても、足跡が残るような道の端や、ときに道を外れた場所をわざと通り、それでも道から大きく外れようとしない、そんな足取りはさっぱり理解できない。
追っ手に対して親切すぎる。これでは追いかけてくれと言わんばかりである。
案の定というべきか、逃亡者はすぐに見つかった。
飲み水に利用している湧き水の出る場所から少し上ったところ。
「―――おまえ、なにやってるんだ?」
どうやって登ったのか。そもそもどうして登る気になったのか。『花咲』は山の斜面に生えた木の枝にしがみついていた。
いきなり声をかけられた少女は驚いてびくっと身じろぎし、当然のように体勢を崩してそこから落ちた。
ちょうど真下から見上げる格好だった青嶺をも巻き込んで。
長くなったので、切りました。
“水”は3までの予定です。