“水”をもたらすもの1
とんとん。と戸を叩いてみる。
なにも反応がなかったので、少し強く叩きなおす。
それでも返答がないので、声をつけてみることにした。
「すみません。誰かいますかー?」
返事は一言も返ってこない。外に人の気配を感じるのに、だ。
桜はふう、と息を吐き出す。
「そうか。誰もいないならむしろ好都合かな。この木戸、火鉢の火種で燃やしちゃってとっとと逃げ―――」
「『花咲』の姫!」
慌てたような声に、がたがたと木戸を開ける音が続いた。
冷たい風がひゅるりと入り込んでくる。
同時に、桜の周囲が再び暗くかげった。
「なにか御用でしょうか、姫!」
必死な声で叫ばれて、桜は少し遠い目をする。
のっそりと立ちはだかったのは、それこそ熊男というのにふさわしい巨漢だった。
山のようにそびえる両肩と背中を窮屈そうに丸め、太い眉尻は気遣わしげにがくんと下げられている。二十代半ばほどの青年だが、おどおどと桜を見下ろす姿はあまり年上に見えない。
怖がられているというより、どうやら本気で敬われているらしい。
こちらがぎょっとするほど丁寧な応対をしてくれる、心臓に悪い男でもある。
萌葱の国から連れ出されたときに途中から合流した内のひとりなのだが、道中崇拝されるようなことは、たぶん何もしていないと思う。
振り返ってみても、ただ馬に揺られてへたばっていた記憶しかない。
熊男の相変わらずな卑屈さと妙な迫力に引いていると、周囲を見回っていたらしいもうひとりの見張りがやってきた。
「阿賀野、なにやってるんだ! うかつに戸を開けるんじゃない!」
「しかし黒崎どの、『花咲』は大事な客人で――」
「だが逃がすなと言いつかっているだろう。何かあれば若にどう申し開きするつもりだ!」
黒崎と呼ばれた男には、ここへ来てはじめて会った。
目つきは悪いがすくみ上がるほど鋭くはなく、声の通りは良いが重みがなく、動物に例えるとまだ若い野犬といったところだろうか。体格も、熊男と比べるとかなり小柄に見える。
野犬男は桜を前にすると、いつも胡散臭いものを見るようにして顔をしかめる。
まあ『花咲』の噂自体が胡散臭いので、仕方のないことだとは思う。
阿賀野という苗字の熊の態度のほうが変なのだ。
「別に、毒を撒き散らしたり鳥になって空飛んで逃げたりはしないわよ……」
やりたくてもできないし。
うんざりして桜が呟くと、野犬ににらまれた。
「それで。なにか用か『花咲』」
同じ見張りでここまで言葉遣いや雰囲気がちがうと、なんだか滑稽だ。
高圧的に呼ばれるのも、丁寧に「姫」と呼ばれるのも好きではない。
が、いちいち議論している暇もない。とりあえず不愉快な気分は置いておいて、桜は自分の用件を述べた。
「砂原直亮さまにお話があるのですが」
熊男と野犬男は顔を見合わせる。やがて野犬が言った。
「直亮どのは多忙だ。おれが聞こう」
「……昨日にお願いした薬草と鍋はどうなりましたか」
野犬が眉間にしわを寄せる。ぐるる、と唸り声が入りそうなしかめ面である。
「簡単に言ってくれる。この時期にどれだけ薬草が高価で手に入りにくいか知っているのか」
薬草が高価なのは知っている。手に入りにくいのも知っている。だがちゃんと出回っている品物のはずだ。仮にも宇佐の国の跡取り息子が揃えられないものではない。
……あの鬼め。なんでも用意すると言ったくせに。
桜は鼻白んだ。
「それじゃあ、鍋のほうは?」
「煎じる薬草もなしに、鍋だけでなにをしようというのだ」
「なにって、白湯を作るんです」
「水でじゅうぶんだろう」
「水がめの水ってどこで汲んだんですか?」
問えば、野犬はさらに渋い顔をした。
「少し山を登ったところに湧き水があるので、そこで」
そろりと熊男が答える。たいていの力仕事は彼がやっているらしく、今朝も水を汲んできたのは彼だ。
「うーん、それなら悪いのは水がめ? でもきれいだったけど」
「なに?」
「なんか、嫌な感じがするんだよねえ……」
独り言に野犬がぴくんと片眉を上げ、熊が、こちらはなぜかきらきらと目を輝かせている。
しまった、発言まで胡散臭かったか。桜は慌てて言い直した。
「どうも、水が変な臭いがするので」
それに、ほんのわずかに苦味がある。
自分ひとりなら我慢できる程度のものだが、さほのような病人には飲ませないほうがいい。なぜかそう感じる。
そんな水だと言ってしまえばそれまでなのだが……。
ふつう、水は甘いものだ。
海の近くでは少ししょっぱいこともあるが、それでも湧き水が苦いなど、あまり聞いたことがない。
「その湧き水のところに案内してもらえますか?」
「はあ?」
ふん、と黒崎某は鼻を鳴らした。
「お前は自分の置かれた状況がわかっているのか」
鍵は厳重、外には見張り。
これが『花咲』を逃がさないための措置であることは、さすがに桜にだってわかる。
「逃げる気はないんですけど」
無抵抗を表すためにひらひらと両手を振ってみせても、野犬の不審げな顔つきは変わらない。
桜を押しのけるようにしてずかずかと小屋の中に入り、片隅に置かれた大きな水がめに近寄ると、柄杓でぐびっと水を飲み干した。
そしてふんぞり返って言う。
「変なところは何もない。ならば水場に行く必要もなかろう」
「……いや、いまの味とかみてないでしょう」
「水は普通だ。問題ない」
「……」
なぜか、野犬のほうが怒っていた。というより、むきになっているようだ。
水を汲んできたはずの阿賀野は、大きな身体に似合わずおろおろしている。
ときどき『花咲』を見つめる、その畏怖と期待に満ちた目。
こちらはこちらで、何を考えているのかわからない。正直、分かりたくもない。
話にならない。
びしゃんと乱暴に閉められた木戸を前に、桜は深々とため息をついた。
「ああーもう。なるべく使いたくないのに」
仕方ないか、と呟く声は、誰の耳にも入らなかった。