一歯
地下鉄に乗り2回乗り換え、最後に私鉄に乗ること5分。3つ目の駅で降りたそこは最近ではめっきり見ることのないノスタルジックな風景だった。
乗用車がようやくすれ違うことのできるくらいの細い道路。申し訳程度にひいてある歩道の線。
「……えーと」
改札を出た先に周辺地図の看板をみつけ、該当の住所を探す。
駅からはそんなに離れていないようだが、このモザイク状に描かれている道……まるでダンジョンだ。いや、ゲームのダンジョンのほうがまだましじゃないだろうか?
「そこにコンビニがあるだろう」
彼女が唐突に口を開いた。
「あ……はい」
「その道を突き当たりまで行って右に4回曲がるとうちがある」
「右に4回……?」
言われたとおりに周辺地図の道を指で辿る。
「曲がり角2つしかないですよ」
「そこから先は地図に書かれていない。家と家の隙間だからな」
……
「わかりました」
幸い時間が遅いせいもあり、車は全くといっていいほど通っていない。
「行きますよ」
「頼む」
僕は彼女を誘導し、路地の奥へと歩き始めた。
突き当たりまで行くと、正面には土手が広がり、見下ろすと広い川が見える。
「次の角ですぐ曲がるんだ」
「はい」
どんどん細くなる街灯の光。
完全に寝静まっている町の姿は、まるで世界に僕と彼女しかいないような錯覚を引き起こさせる。
2つ目の角を曲がった時道はヒト一人が通るのがやっと、というくらいぐっと狭くなった。アスファルトは砂利道に変わる。
そして、完全な袋小路にその家はあった。レトロな日本家屋。
表札をしげしげと眺める。『古言王寺』。漢字は易しいのだけど、何て読むんだろうこれ。
「……あの」
「何だ」
彼女の手を引き戸に触れさせると、彼女は扉をそのまま開けた。
……て。その。鍵は……?
「鍵、かけてないんですか……?」
「……かけたことないな」
……何ですと?
「親父も鍵なんてかけてなかったぞ。……折角だ、上がって茶でも飲んでけ」
そのまま玄関に上がりさっさと歩いていく彼女。さすが見えなくても勝手知ったる自分の家か……などと思いながらも追及は後にしておずおずと三和土に入る。
「どうした、入って来い」
短い廊下の奥の扉から彼女が催促したその時、派手な落下音が響き渡った。
僕は慌てて靴を脱いで揃えて部屋の奥を覗き込む。
「……うわ」
感想が頭の中に思い浮かぶ前にまず感嘆符が出てしまう。
控えめに例えるなら、ジャングルの中に獣道が出来てるような……そんな部屋。
四方の壁に張り巡らされた、天井まである書棚。そこから溢れて部屋の中に所狭しと積み重ねられた書籍。書籍がない場所が通路。……
そしてその奥には……本の山に襲い掛かられ身体半分埋まっている彼女の姿があった。
「大丈夫ですか」
散らばった書籍を恐らく元にあったであろう場所に適当に積み重ねながら、僕は救助活動にかかる。
「あ……ああ」
「被害大きくなると困るんで動かないでくださいね」
僕はそろそろと動き始めた彼女の動きを制する。彼女は小さく、途惑ったように頷いてその場にぺたんと座り込んだ。
ある程度片付けたところで、彼女の腕を取って。
「どこです、きちんと座れるところは」
「すぐそこだ」
えーと。他所の家に上がりこんでいろいろ確認するというのも何だか妙な感じがするが非常事態なのだし、仕方ないだろう。
そう思って一番奥を覗くと……1箇所だけ床面を広くとってある場所があった。そこにお膳と小さい棚と、何かの作業台と大きい機械が鎮座している。
「……台所は」
「そこのカーテンの陰だが」
なるほど、ほんの少し開いたカーテンの隙間からステンレスがちょっとだけ覗いていた。
「お膳に座っててください。お茶淹れます」
「客にそんなことをさせる訳には」
「火傷させて病院につれてく破目になるのは嫌ですから」
そう言うと彼女は言葉に詰まった顔で、大人しくお膳に座り込んだ。その途端。
きゅるきゅるきゅる。胃が自己主張する音がステレオで鳴る。
思わず彼女と顔を見合わせ──どちらともなく笑い出した。
「……僕、晩御飯買ってきますよ。少し待っててください」
ひとしきり笑った後、僕は彼女に確認をとる。
「──あ、ああ、すまんな」
「いいですか、動いちゃだめですよ」
僕は彼女に釘を刺し、駅前のコンビニまで走っていった。
そのまま僕はコンビニで2人分の弁当を買い求め、彼女の家へ戻ってきた。
恐らく自分の分まで買ってくるとは思ってなかったのであろう。彼女は散々遠慮をし、対して僕は彼女に説得を行い『このままだと傷む、食べ物を無駄にするな』と止めを刺し、最終的に2人で一緒に弁当を食べた。
「ところで」
食後のお茶に口をつけて、僕は訊ねた。
「何だ」
「あの表札の名前は何て読めばいいんですか」
彼女はしばらく宙を見ながら考え込み──『ああ』、といって答えた。
「『こげんのうじ』」
「……こげんのーじ」
鸚鵡返しに呟くと、女の子はと得心したように頷いた。
「そう言えば名乗ってなかったな。俺は『古言王寺弥生』という」
……こげんのうじ・やよい。何と言うか……
「古めかしい名前だろう」
苦笑気味に彼女が微笑う。
「名刺を渡した時に1回で読めた奴はいない」
……うん、そうだろうな。
「珍しいとは思うけど」
当り障りのない返事をして、僕は自分の名前を言っていないことに気がついた。
「僕は笹賀瀬悠」
「『ささがせ』、か」
お茶をすすりながら、彼女が言う。
「悪かったな、今日は」
──意外な言葉に、僕は返す言葉を失った。
「……何故そこで黙り込む」
「いえ」
「……本気で言ってるぞ、俺は」
「嘘だなんて言ってないじゃないですか」
苦笑しながら僕がそういうと。
「ともかく──だ」
彼女は軽く咳をして、言葉を続けた。
「八つ当たりして悪かった。……それだけだ」
照れたようにあっちを向く。
「……どういたしまして」
そう言って僕はお茶を飲み干し──弁当のプラスチック容器を買い物袋に突っ込み、茶碗を流しに置く。
「あ、最後に頼みがあるんだが」
「何でしょう」
僕が応えると、彼女は謎の大きな機会を指差した。
「そこに、眼鏡が1つ置いてあるかみてくれないか」
眼鏡、眼鏡……あ、あった。
「スペアがあったんですか」
僕はその眼鏡を取ってレンズ越しに向こうを覗き込み──うわ、何て度だ──彼女に手渡す。
「スペアというか……5年くらい前に作った奴なんだ。壊れてしまった奴は更に視力が落ちてから作った奴なのでな──こっちはピンが甘いが、ないよりいい」
「とりあえずモノに衝突、ってのだけは避けられる、と」
「恐らく」
受け取った眼鏡をかけて、彼女が答える。……『恐らく』のレベルなのか。
「ところで僕も訊きたい事がもう一つあるんですが」
「何だ」
僕は先程の大きな機械を振り返り、訊ねた。
「この機械は……何ですか」
「ああ、それか」
彼女はこともなげに答えた。
「それは『活版印刷機』だ」
「『かっぱんいんさつき』……?」
聞き慣れないその言葉に、またもや返事が鸚鵡返しになる。
「初めて聞いたか?」
「はい」
率直に返事をすると、彼女は『そうだろうな』とでもいうように苦笑した。
「年代モノだからな。そいつは53歳。親父より年上だ」
そう言われて僕はしげしげとその機械を凝視した。
まるで古い映画にでてくる大道具のような、曲線を多用したレトロなデザイン。
「円圧印刷機だ。多分日本で稼動しているのはこれだけだろう」
「……動くんですか」
僕が尋ねると、彼女は胸を張って答えた。
「当り前だ。毎日動かしてるし、手入れもしてやってる」
「繁盛しているんですね」
「繁盛はしていない。実際のところ動かさなくてもいい日はあるが、こういった機械は逆に毎日使わなければ却って傷むんだ」
「ふぅん……」
確かにその印刷機は細かい擦り傷こそたくさんあれど、その表面は磨き上げられ、鈍く光を放っていた。
僕はその隣にある作業台に視線を移した。少し傾いた机、細分化された棚。中に入っているのは……
顔を寄せると、彼女が後ろから声をかけた。
「それは活字だ」
僕は棚の中を凝視する。そこには金属でできたちいさな判子のようなものがびっしりと並んでいる。判子と違うのは面が正方形であることと文字の周りに枠がないところか。
『活字』。でも『活字』って……
「『活字』って印刷された字のことじゃ」
「そもそもは『活字を使って印刷された文字』を『活字』と言っていたんだ。昔はコンピュータがなかったんだから」
ということは。本当の『活字』というのは、この一つ一つのことを言うのか。
未知なるモノを目の前にたくさん繰り広げられ、僕は少しわくわくする気持ちを抑えられなくなってきた。
「……これ、触ってもいいですか」
「落とさずに元の場所へ戻せるならな」
「わかりました」
恐る恐るその小さな金属片を手に取り、じっと眺める。ひらがなの『な』の字。形状は奥行きのある長方体になっていて、溝が数箇所ついている。
その文字を元の位置に戻し、ケースの表面をざっと見る。どういうルールで並んでいるのか最初は分からなかったが、右上から見ていくと最初はひらがなやカタカナ、記号。そして漢字……となっていたので恐らく下方向ないし左方向に行くに従って難しい文字になっていくのだろう。
そう思って辿っていくと……やはり左下方向に行くに従って画数が増えていく。ということは一番左下が一番難しい漢字に違いない。
僕は左下端に入っていた『活字』を手にとった。
……読めない。読めないけど……あまりの精密さに僕は見とれてしまった。
3ミリ角ほどの正方形の中に画数が20くらいある反転した漢字がバランスよく配置されている。彼女に話を聞いているときは『アナクロ』なんて思ってたけど……実物を見てしまうと、その呆れるほどの丁寧な仕事に圧倒された。
「ちゃんと戻しておけよ」
彼女の声に、はっと我に帰る。
僕は大きく息を吐いて、『活字』を元の位置に戻した。
「すごいですね」
「そうか?」
「あれ、どうやって作ってるんですか」
そろそろとお膳に戻りながら僕は彼女に訊ねた。
「俺も良く知らんが……鋳型だって言ってたな、親父が」
「『鋳型』?」
「ああいうカタチの型をつくって溶かした金属を流し込んで固めるんだ」
「彫るんじゃないんですね」
「非生産的だろそれじゃ」
……こんな道具を使う家内制手工業な仕事をする人に『非生産』という単語を使われるとまた妙な感じがするけど。
「その棚から使用する文字だけを拾って、並べて固定する。そうやってできた『版』を使って試し刷りをして正しく文字が並べられてるかチェックする。チェックが終わったら今度は版をがっちり固定して、印刷機にかけるんだ」
彼女はそこまで言うと……小さく『あ』と呟いた。
「今何時だ」
「今ですか」
僕は腕時計を見て答える。
「22時30分ですけど」
「終電なくなってるぞ」
──ちょっと待った。
「まだ11時になってないですよ」
「あの電車は終わるのが早いんだ。利用者が少ないからな」
僕は慌てて財布の中身を見た。ここから自宅まで、タクシーを使うしかないか……
「ハイヤーを呼ぶなら、そこに電話帳があるが」
思わず財布の中のお金を数える手が止まる。
「ハイヤー!?」
「この辺を流してるタクシーなんざいない。儲からないからな。どうしてもというなら電話で呼ぶしかない」
頭の中で計算する。タクシーにかかるお金がこれだけとして、ハイヤーでついでに深夜割増がかかって……
足りない。確実に5000円以上足りない。
僕が立ち上がったままお金のやりくりを考えてると、彼女が言った。
「お金が足りないなら泊まっていけ」
……
今度こそ完全に頭の中が真っ白になった。
今何て言いました?
「いやそんな訳には」
「帰る金がないんだろう」
ないですよ。ないですけれども。
「歩いて帰るのも大変だろうし」
「だけど、女の子の家に……大体ご家族に悪いですし」
「家族はいない」
……え。
「お袋は知らん。ずっと親父に育ててもらった。そんでもって一ヶ月前に親父がいなくなった」
──思わず言葉を失う。
「……2階に親父の部屋がある。貸してやるから使え」
「……」
「どうした。使うのか使わないのか」
「わかりました」
咄嗟に僕はそう返事をしてしまった。
「家に電話してきます」
「そこの電話を使ってもいいぞ」
「自分の携帯電話ありますから」
断って玄関に出る。外の空気は生温い。
携帯を正面に持って、大きく深呼吸して。自宅の番号をメモリーから呼び出す。
「……あ、僕。──ごめん、遅くなっちゃった。うん、高城の家。……」
もっともらしい言葉を並べ立て、今日は帰らない旨を伝える。
「──じゃ」
ぱちん、と携帯を閉じて大きく息を吐く。申し訳ない高城、そして母さん。
家の中に入る。鞄を取りに奥に戻ると、彼女は頬杖をついて窓のほうを見たまま言った。
「親父のでよければ寝巻きを使え。押入れの布団と一緒に入ってる。一応洗ってあるから」
「あ、ああ有難う」
使うかどうかはともかくとして心遣いにお礼を言う。僕は自分の鞄を拾った。
「もう寝るのか」
「そうさせてもらおうかと」
「そうか。──2階の正面の部屋だ。お休み」
彼女はこちらを振り向きもせずそう言った。
2階の階段を昇る。
段の端にはわたぼこりがかたまっていた。埃を舞い上げないよう、そっと足をかける。
1ヶ月持ち主が不在ということで薄汚れた部屋を覚悟していたが、正面のふすまを開けて入った和室は綺麗に掃除してあった。
部屋には小さな文机が1つだけ。僕はその横にそっと鞄を置き押入れのふすまを開け──何となく彼女の言葉の裏を理解してしまった。
下の段には布団が一式と男物の寝巻き。そして上段には──丁寧にアイロンがかけられたワイシャツ達と、開封しようとして中断した小さな仏壇が1つ。そして、伏せられた写真立てが1つ。
僕はその写真立てを手にとった。中にはモノクロの、穏やかに笑う年配の男性の姿。眼のあたりがとても彼女に似ていた。
……『いなくなった』、か。
僕は写真立てを伏せ、急いで布団を敷いてそっと押入れのふすまを閉めた。
布団の上に座り、所在なく中空を見て──そして押入れに向かって手を合わせ、僕は布団にくるまった。
目蓋の裏に窓の外を見ていた彼女の後姿が浮かび……消えた。




