発端
その音は、朝陽に混じって脳の中へと入り込んできた。
金属同士がぶつかって鳴る、小さな音。それは絶妙なリズムで延々と続いていく。
僕はのっそりと起き上がった。
視線の先には黙々と僅かな光を元に仕事をしている女の子の姿がある。
そして僕は……彼女の仕事を邪魔しないよう、ただ静かにその背中を見つめていた。
†
事の発端は3日前まで遡る。
僕はといえば、予備校へ向かうため学校から直接駅に向かっていた。普段なら自宅へ戻って私服に着替えてから出かけていくのだが、この日は委員会が長引いたためその余裕がなくなってしまったのだ。
「……ふぅ」
何とはなしに溜息を吐く。普段よりゆっくりと僕は歩いていた。
かったるい。
まだ高校2年生ではあるが、来年の大学受験に備え両親は僕にテレビCMでも有名な某大手予備校への入学を勧めた。被扶養者であり特に将来に対して見通しもない僕はその勧めを素直に受け入学試験を受けぎりぎりのところで合格し、以来サボることもなく毎週決まった時間に隣町にあるその予備校へ通い続けている。
いい天気だった。気温は暑くもなく寒くもなく、ほどほどに気持ちのいい風が吹いていて。あまりの気持ちよさに、ちらっと『エスケープしてしまおうか』なんて考えが浮かんでくる。
歩みを止め、空を見上げ──
そのせいで僕は気付かなかったのだ。向こうから全速力で向かってくるその存在に。
いきなり何かがぶつかって、僕は後ろに転がった。
──え?
目の前にあるのは空。右下から左上へ光を反射しながら飛んでいく物体。
それは大きく弧を描いて車道に落ち……タイミングよく走ってきた乗用車のタイヤに潰された。
何だ? 僕は車に轢かれたその残骸に視線をやる。
ぐしゃぐしゃに折れ曲がったフレームと粉々に砕けた透明な──あ、眼鏡(のなれの果て)。
「……ったぁ……」
そして、足許から聴こえる声。多分女の子だった。
『多分』なんていうと失礼な奴だなぁと思うかもしれないが、何と言うか……
髪の毛は、長い。というかいつ切りに行ったんだ、というような長さ。前髪もサイドもなく、多分邪魔っけだからという理由で結んでいるような髪。
大きめを通り過ぎてぶかぶかのコートとカッターシャツにどこにでもあるようなジーンズ。
「あの、大丈夫……?」
恐る恐る声をかけた。すると。
女の子は周辺の地面を触りながら何か探している。僕は途惑いつつも、彼女に訊ねた。
「何か……?」
「眼鏡、落ちてないか!?」
ということは。そこで轢かれたのは彼女の眼鏡。
「……車道に破片になって転がってるけど」
──ぴたっと彼女の動きがとまる。
僕は彼女を助け起こすために身体を起こそうとした。その時。
女の子は、立ち上がろうとするその足を両手でがしっと掴んだ。──へ?
「逃げるなぁぁぁぁ!」
……はい?
意味の分からないその言葉に頭が真っ白くなる。
「眼鏡壊したって……どうしてくれる!」
……あの……それ、僕が怒られることなんでしょうか。大体壊したの僕じゃないし。ぶつかってきたのはそっちだし。
そう思いつつ、とりあえず彼女をなだめようと試みる。
「逃げませんから、落ち着いてください」
「と言って、離したら逃げるだろう」
「逃げませんよ。悪いことした記憶ありませんし」
そう言った途端。彼女の目が更に釣りあがる。
「悪いことしてないだと……?」
「はい」
しかしこの率直な受け答えは逆に彼女の逆鱗に触れてしまったらしかった。
「俺は被害を被ってるの! 眼鏡壊れたら困るんだよ! どーにかしろよ!」
「どーにかしろって……そりゃ余所見していた俺も悪かったかもですが、全速力でぶつかってきたのはそっちじゃないですか」
「しかたねーだろ、納品遅れるって急いでたんだから──って! こんな問答やってる場合じゃねーんだよ! 納品! ──おい、お前」
彼女は掴んでいた制服のズボンを掴んだまま、言う。
「とりあえず○○印刷と△△印刷と××出版まで俺を連れて行け」
「……は?」
「眼鏡、壊しただろ。俺、今回りのものの輪郭全くわからねぇんだよ。だから道が全く分からなくなっちゃったの!」
「って僕……その会社全く知らないですよ」
「これ」
彼女は大事そうに抱え込んでいた大きい茶封筒3通を僕に示した。
「それぞれに会社の住所と電話番号が書いてある。○○印刷、△△印刷、××出版の順に俺を連れて行け」
「……△△印刷がここからだと一番近いですけど」
住所を見比べながらそう言うと、彼女は言った。
「○○印刷の納品時間が17時なんだよ。△△印刷が18時」
時計を見る。うわ、あと30分くらいしかない。
何か僕の責任じゃないような気がするけど──いや、絶対僕の責任じゃないけど。こうなったら仕方ない、彼女と封筒を連れて出版社めぐりをするしかないようだ。
だってさ。こんな女の子を放っておいて翌日交通事故なんかで新聞にてご対面、なんてことになったら後味悪いじゃないか。
こうして僕ははからずも、初の予備校エスケープを余儀なくされたのであった。
†
「すまんな引きずりまわして」
「……いえ」
時計を見ると、約21時。あたりはすっかりネオンの光に満ちている。
あのあと彼女は僕の制服の肘を握りながら、僕に3軒の出版社を案内させた。
僕は怒ることに慣れていない上に抗議するタイミングを失った状態で、促されるままに彼女を連れて行った。
それぞれの建物の受付の前で、彼女は打って変わった笑顔で封筒をそれぞれの社員に渡した。真横についている僕については臆することなく『臨時のアシスタント』だと言い切り、打合せと称する席にも同席を要求された。ついでにその場で『書記』になって彼女とクライアントの話を丸写ししたり。
そんなこんなで全ての訪問を終えようやく一息つけた今、僕は未だ彼女の横にいた。
最後に訪問した会社から少し離れた、駅へ向かう大通りの歩道を歩きながら、彼女が話し出す。
「俺の仕事は信用第一なんだ。ただでさえ仕事が少ないのに、納品が遅れたら仕事そのものがなくなっちまうだろう」
彼女は唐突に立ち止まり、周りをきょろきょろ見回して……僕に尋ねた。
「ガードレールはどれだ」
「はいはい」
僕は彼女の腕を取って、ガードレールに触れさせる。彼女はそれを確認し、身体の向きを変えガードレールに腰掛け、肩からかけた水筒を取り出した。
水筒の蓋を開け、それをカップ代わりに注ぐ。
麦茶に見えるそれに口をつけるとそのまま大きく息を吐いて、彼女は空を見上げた。って、まったく見えていないだろうけど。
それぞれの出版社へと彼女を案内する間。彼女はひっきりなしに階段に爪先をひっかけ、よけられるはずの看板にぶつかりまくり、まだ車が走ってる車道へ踏み出そうとした。なるほど、眼鏡が壊れたための被害は深刻なようだ。
「……いるか?」
唐突に水筒の蓋に注がれたお茶を差し出され(正面より角度が微妙に斜めだったのはご愛嬌)、僕は慌てて答える。
「いや、自分で買います」
「そうか」
彼女はそういうと注いだお茶をそのまま自分で飲み干す。僕は正面にあった自販機でコーヒー缶を買い、そのまま彼女の隣に腰掛けプルトップを開けた。
そのまま僕は訊ねた。
「……仕事って何をしてるんですか」
彼女を観察する。落ち着いて見た彼女は、自分とそうそう年齢が変わらないように思える。
「しゃしょく屋」
「料理作るんですか」
「それは社員食堂」
すかさず突っ込んでくる彼女。大きく溜息をついて。
「……まあ、知らなくてもしょうがないな。俺だって親父がそんなものの職人じゃなかったら知らなかっただろうし」
水筒の蓋を固く閉めて彼女はガードレールから降り、ジーンズの後ろを軽くはたいた。
「今は市場の印刷物はディーティーピーとやらを使って作ってるんだろうが、その技術が発達する前には、鉛の合金を使った長方体の頂面に、文字を左右逆浮き彫りにしたもので文面を打ち出していたんだ」
身振り手振りで彼女は僕に一生懸命説明する。
「……アナクロですね」
それに対する僕の返事があまりにもあっさりしていたのが不満だったのか、彼女は膨れたように言う。
「それしか方法がなかったんだろ。とにかくそうやって芸術的に美しい本を作っていたわけだ」
「はぁ……」
でも僕には全く想像がつかないので、そんな返事しか出てこない。
「うちはディーティーピーなんぞでは表現できないであろう美しい文字(多分に主観)を使いたい人間のために、文字を打ち、それを出版社や印刷屋に納品してるんだ」
そんな僕に訴えるかのように彼女は誇らしげに胸を張り──一瞬で見る見る間にしおれていく。
「……だというのに」
うつむいたまま、地の底から響くような声で。
「どこかの馬鹿のせいで眼鏡が壊れた……」
やっぱり僕のせいなのか。
大きく息を吐いて、僕は改めて話を切り出した。
「そうそう、その話なんですけど」
「何だ」
不機嫌そうに答える彼女。
「ぶつかってきたのはそちらですから」
「……」
──あれ。反応が返ってこない。
「……あの?」
思わず心配になって顔を覗き込んだ途端。
「ああそうだよ、悪いのは俺だ──!」
いきなり顔を上げた彼女の叫び声で鼓膜が悲鳴を上げた。
「……」
逆切れ!?
「昼間のアルバイトが終わってやれやれ疲れたなと欲求のままに軽く横になった途端熟睡し挙句30分近くも家を出るのが遅れた上に回りも良く見ず走っていたのは俺だ──!」
相当の声量で怒鳴る彼女。……あの、人目が気になるんですけど。
と思ったら。
「かといって、眼鏡がないままでは最低1週間は仕事にならんし、作るにしても俺の眼鏡は特注だから5万円はかか……」
段々声のトーンが下がってきて。
「ふえぇぇぇぇ」
今度は大声で泣き出した。
……ちょっと待てぇぇぇ!
さすがにこれは僕も焦った。大体傍目から見て、男女が話していて女の子が泣いてたらそれは男のせいだということになってしまう。
「ちょ、ちょっと落ち着いてくださいよ」
とか何とか言ってみるものの、女の子の嗚咽は収まりそうにない。
参ったなー。
僕は空を見上げ、大きく息を吐き……学校の鞄を漁る。えーと、えーと……あ、あった。体育の授業が中止になって全く使ってなかったタオルが。
「はい」
ひとまずそれを彼女の手に握らす。
彼女はタオルをじっと見て……丁寧に四つ折りにして、そのまま顔に押し当てた。
そのままがしがし顔を拭いて、裏っ返して再び鼻と口を覆う。
子供っぽいその仕草に、思わず笑みが零れる。
「……じゃ、帰りましょう」
『──え?』
彼女はそんな表情で僕を見る。
「もう今日は眼鏡屋は閉まってますから、新しいものを用意するにしても明日にならなきゃ作れません。それにそんなんじゃ、自分で家に帰ることもできないんでしょ?」
「……」
「家の住所、教えてください。連れて行きますから」
彼女はじーっと僕をみて──タオルの奥から小さい返事を返した。
「……すまん」
その時僕は不覚にも、彼女を「可愛い」と思ってしまった。
「さ、いきますよ」
慌てて僕は彼女に背を向けて、駅の方向へ向かって歩き始めた。
制服の肘がまた引っ張られる。
月の明るい夜だった。




