最終話 警戒レベル9
「た、たおした!」
鎖を投げ捨て急げ急げと足をばたつかせる。一刻も早く少女の遺体から離れたい。疲労困憊の重い体に鞭を打つ。もし助かればここに沈んでいることを誰かに伝えると約束する。だからオレのことは見逃してくれ。
頭の中で必死によく知りもしないお経を唱える。漂流物を気にしている余裕もない。ぶつかろうが上に乗ろうが気にしている場合ではない。一目散にドアへと向かう。もう時間がない。濁流は未だ止まず水位は増す一方。天井が迫り頭を浮かせて泳ぐのも難しくなってきた。空気を大量に吸い込み顔をつけて泳ぐ。
必死になってドアの下に辿り着く。はしごに足をかけ上の方を掴んだ。
誰か……誰か……! 最後の力を振り絞りドアを殴るように叩く。水面と距離がないせいで大きく振りかぶることが出来ず打音は鈍い。そうだ、川に流されたやつらは三人。残りの二人は家に戻っていないのか? あんなやつらに助けを求めたくはないが、もしもあのドアを開けてくれたならオレは額を地面に擦り付けみっともなく礼を言うのだろう。
「たすけ……がぼっ……たす、けてっ……」
呼吸もままならない。ついに真上を向かなければ呼吸が出来なくなる。このまま誰にも気付かれず死ぬのだろうか。少女はオレを連れて行くのだろうか。シュリとはケンカ別れになってしまう。こんなことならさっさと言う事聞いて、ごめんねと抱きしめておくんだった。
最後を覚悟して頭に浮かぶのは、ころころと笑う愛しい彼女の顔。あちらに行く前に彼女の笑顔が見られたら良かったのに。
「ごめん、シュリ」
声にすることは叶わなかった。水位は地下室の天井に到達し全身の自由が失われた。ドアに手を伸ばすが体に力が入らない。これでお兄ちゃんはおしまいだ。君の勝ちだよ。オレを連れて行きな、ゆまちゃん。
「……くん! たっくん!」
生を諦めかけた時。ドタバタと激しい音、そして。
――バタンッ
「たっくん……! 見つけたっ……見つけたぁっ、掴まって!」
地下と地上を繋ぐ小さなドアが開き、暗闇が明けた。手が伸びて沈みかけていたオレの腕を掴む。
「君! 待ちなさいとさっきから、なに!? 人か! 代わってくれ! おい、こっちだ、早く!」
男性の声がして続いてばたばたと足音が耳に届く。
「君、聞こえるかっ?」
「返事してっ、聞こえる?」
体が引き上げられる。ライフジャケット姿の男性と、その後ろから涙でぼろぼろになったシュリがくしゃくしゃの顔を覗かせている。
問いかけにこくこくと頷くとホッとした空気が流れる。水面から出るとかなり疲れていたのか、体は鉛のように重かった。水から体が半分ほど上がった時、ずるりという感触を背中に感じた。
あぶなっ! 咄嗟に右肩辺りを掴んだ。
……危ない?
はっと、今しがた掴んだ物に目線を向ける。白い腕だ。
「うわぁぁぁぁっ」
「な、なんだっ」
引き上げられている最中だったが、地下入り口の縁に腕をつきばたばたと這い上がる。
近くにはあの人形が腰を下ろしていた。そいつを睨みつけると、男性の困惑する声を無視して後ろにしがみつく少女を床に投げ飛ばす。再度水中に振り落とすのは良心が咎めたのだ。
ベチャ、という音とともに彼女の姿が白日に晒される。青白い顔に細い手足。オレをここに呼んだ少女。オレに過去を見せた少女だった。地下で遭遇した遺体が覆い被さってきたと言うのか? 漂流物が多いせいで全く気が付かなかった。
「女の子だ! 要救助者、二名! 二名発見っ!」
「……げほっげほっげほっ」
「生きてる! 女の子生きてるぞ!」
「すごいたっくん! すごい!」
何が起きているのか。男性たちが無線で慌ただしくやり取りしている。背負っていた少女は床に叩きつけられた衝撃のおかげか、仰向けのまま水を吐き出しむせ返った。ひゅーひゅーと浅い呼吸を繰り返し、ゆっくりと周囲を見渡していた。少女は生きていた? まさか。
「ゆま、ちゃん……?」
少女はオレの口元をじっと見たかと思うと力なく笑った。そして人形に気付くとぐぐっと手を伸ばす。
「あり、が、と」
小さな声だったが、どうにか聞き取れた。人形に礼を言ったのか?
静止も聞かず起き上がったゆまちゃんは、男性たちの質問に首を傾ける。その場で唯一の女性だからなのか、シュリの服を掴んでいた。シュリもいつもより優しい声で語りかけるが、困った顔をするばかりで返事はない。臭い部屋で見せられた過去らしき映像を思い出す。
「もしかして、声聴こえないのか? ゆ、ま、ちゃ、ん。痛い、とこ、ない?」
「だ、いじょう、ぶ」
ゆっくり区切って話しかけると、口元をじっと見て、そして返事をしてくれた。
少女はすぐに担架に乗せられ、少し遠くに停めたらしい救急車へと運ばれた。この一帯で避難指示が出たとのことで、オレとシュリはお叱りを受けた。それでも少女を助けた功績の方が大きかったのか、あまり厳しいことは言われなかった。この後オレも病院へ向かい、念のため検査を受けるらしい。
少女を見送った後、着物姿の人形がいなくなっていることに気が付いた。
「ねえ、さっき聞いちゃったんだけど、あの子生まれる前に亡くなった妹がいるらしいよ」
「……そっか、」
あの時、そうだったのか。
「もしかしたら、その子がお姉ちゃんを助けてって、たっくんのこと呼びに来たのかも!」
シュリは素敵なことだと言いたげに頬を綻ばせる。オレをここに連れて来たのが人形なのだとしたら。生まれて来ることが出来なかった妹さんの想いがそうしていたとしたら。だとしたら、あの人形はどこに何をしにいったのだろう。
オレは行方不明の三人のところへ行ったんじゃないかって、そんな気がしている。
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