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金木犀のリレー

作者: ミケ
掲載日:2025/11/10

あの日の空を思い出すたび、胸の奥が少しだけ痛む。

運動会という言葉を聞くだけで、今でも胸がざわつく。

それは、季節の憂鬱とはちがう。

春の花粉や夏の暑さみたいに過ぎ去らない、“心の奥に沈殿する種類の憂鬱”だ。

もっと根っこのところに染みついている、“どうしても逃げられない苦手な日”という種類のものだ。


私は二年一組。クラス対抗リレーの第三走者。

バトンを受け取った瞬間に、差が縮まる地点。

みんなが知っている“抜かれる区間”が、私の担当だ。

最初のころは、それが偶然だと思っていた。

でも練習を重ねるうちに、誰もが確信していく。


「真帆(私)のところで抜かれる」と。


今日も放課後のグラウンドで、その“いつもの光景”が繰り返された。

私は必死で走った。腕を振って、息が切れるほど走った。

でも、後ろから迫る足音は、あっという間に追い抜いていく。

砂を蹴る音が遠ざかり、私の前には白い線と、自分の影だけが伸びていた。


「お前さ、また抜かれたじゃん。」


リレーの次走者、亮介が笑いながら言う。

冗談めかしたその声が、意外と刺さる。

でもそのあと、私の靴ひもがほどけているのに気づいて、彼は無言でしゃがんだ。


「ほら、転ぶなよ。」


その何気ない仕草が、なぜか余計に痛かった。

彼はクラスの人気者で、運動神経もいい。だから悪気がないのはわかってる。

けれど、「また抜かれた」の“また”が胸の奥に落ちて、小さな波紋のように広がっていった。


「ごめんね……次は頑張るから。」


口ではそう言うけれど、心のどこかで、次も同じだろうと知っていた。


夕方、帰り道。

金木犀の匂いが漂っていて、少し冷たい風が頬をなでた。

グラウンドで転んだときの膝の痛みが、まだ残っている。

明日は本番。快晴の予報。

「どうか、雨が降りますように」と、つい空に願ってしまう。


雨が降れば中止。中止になれば、みんな笑って終わる。

誰も責めない。誰も泣かない。

そんな夢みたいな日が来る気がしていた。

家に帰ると、母がリビングで洗濯物をたたんでいた。


「明日、運動会でしょ。弁当、何がいい?」

「なんでもいい」


思わず素っ気なく答えてしまう。

母は少しだけ眉をひそめたけれど、それ以上は何も言わなかった。

その優しさが、逆に胸に痛い。


部屋に戻って、机の引き出しから小さなストップウォッチを取り出す。

入学祝いでもらったものだ。

もう一度だけ、と思って家の前の道を走ってみる。

街灯の下、ひんやりした空気の中で、スニーカーの音だけが響く。


一歩、一歩。


走り方が悪いのか、足の運びが遅いのか、よくわからない。

腕をもっと振って、膝を上げて……頭でわかっても、体は思うように動かない。


タイムを測ってみる。

昨日より0.1秒だけ速かった。

でも、そんな数字は明日には意味を持たない。


リレーでは、みんな本気だ。私の努力なんて、きっと誤差の範囲。

夜風が冷たくて、肩が震えた。


「……もう、やだな。」


つぶやくと、胸の奥がじんわりと熱くなる。

涙が出そうになるのをこらえて、家に戻った。

お風呂の湯気の中で、ふと今日の亮介の顔が浮かぶ。


「またお前のところで抜かれたじゃん。」


あの笑い声が、何度もリピートする。

悪気がないのはわかってる。

でも、どうしてあんなに簡単に言えるんだろう。

“頑張った”なんて言葉、あの人の辞書にはないのかもしれない。


布団に入っても、胸のざらつきは消えなかった。

窓の外では虫の声がしている。

明日は朝早いのに、眠れそうにない。


天井を見上げながら、私は考える。

なんでリレーなんかあるんだろう。

なんで速い人と遅い人を比べるんだろう。

なんで「頑張った」で終われないんだろう。


そんな問いを繰り返すうちに、まぶたが少しずつ重くなっていく。

眠りに落ちる直前、心の中でひとつだけ決めた。


——せめて、転ばないようにしよう。


それだけでも、明日の私には精一杯だ。

窓の外、夜風がカーテンをふわりと揺らした。

明日の空が晴れるか曇るか――それだけで、世界の意味が少し変わる気がした。


※※※


翌朝、目が覚めた瞬間、喉が張りついて息ができなかった。

空気がもう、勝手に緊張しているみたいだった。

カーテンの隙間から差し込む光が、まぶしいほど白い。

空はどこまでも晴れていて、逃げ道なんて一つもなかった。


「……晴れたんだ。」


誰に言うでもなく呟いた。

枕の横には、昨日の夜に準備したハチマキがきれいに畳まれている。

赤い布が、朝日に照らされてまるで警告みたいに見えた。


母が作ってくれた弁当箱を受け取るとき、

「緊張してるの?」と笑われた。

私は曖昧に笑い返して、「うん」とも「違う」とも言えなかった。


本当は、怖いのだ。

走ることそのものが。


校庭に着くと、もう生徒たちの声でいっぱいだった。

スピーカーから流れる音楽が、少し割れて聞こえる。

砂のにおい。白線の匂い。笛の音。


どれもが、私にとっては“憂鬱の象徴”みたいだった。

友達の美咲が、同じ組の旗を持ちながら手を振る。


「真帆!緊張してる? 大丈夫、練習よりうまくいくよ!」

「うん……ありがとう。」


そう答えながらも、手のひらはもう汗で湿っていた。

うまくいくなんて言葉、信じられない。

でも信じようとする自分がいる。

それが少し、苦しかった。


プログラムが進んでいく。

玉入れ、綱引き、応援合戦。

どれも心ここにあらず。

笑顔を作るたびに、頬の筋肉がこわばるのが分かる。


昼休み。

クラスメイトたちは楽しそうに弁当を広げていた。

笑い声、カメラのシャッター音、担任の冗談。

全部、遠くに聞こえる。


私は木陰で小さなパンをかじりながら、足を伸ばしていた。

手のひらの上でバトンを転がす。

アルミの冷たさが、少しだけ落ち着かせてくれる。

(転ばなきゃ、それでいい……)


午後、アナウンスが響く。


「これより、クラス対抗リレーを開始します!」


観客席の歓声が、一気に熱を帯びる。

鼓動が速くなる。

自分の心臓の音が耳の奥で鳴り響く。


スタート地点に並ぶメンバーたち。

亮介が私の方をちらっと見て、いつものように笑った。


「バトン、落とすなよ。」


冗談のつもりなんだろう。

でも、胸の奥で何かがチクリと痛んだ。


「うん、落とさない。」


それだけ答えて、深呼吸する。

手のひらに力をこめる。

足の裏の白線が、やけに眩しい。


「位置について——よーい!」


ピストルの音が響く。

風が一斉に動く。

一走、二走とバトンが渡っていくたび、心臓が早鐘を打つ。


私の順番が近づいてくる。

息が浅くなって、手が震える。

次の子がこちらに向かってくるのが見えた。

その瞬間、世界がスローモーションになった。


「真帆、行けっ!」


バトンを受け取った瞬間、時間が軋んだ。

冷たい金属の感触が、掌から心臓へまっすぐ伝わってくる。

砂を蹴る。風が顔を切る。世界が音を失う。


走る。とにかく、走る。

頭の中は真っ白だった。

観客の声も、笛の音も、何も聞こえない。

ただ、前を走る背中だけを見ていた。

近い。届くかもしれない。


けれど、次の瞬間——

抜かれた。

後ろからの風圧と足音。

気づいたら、横を一人の女子がすり抜けていた。

瞬間、視界の端が白く光った。


「まだだ!」


自分に言い聞かせるように叫ぶ。

足が痛い。肺が焼ける。

それでも、腕を振る。

(抜かれたっていい。最後まで、走るんだ!)


次の走者——亮介の姿が見える。

彼が手を伸ばす。

私は必死でその手にバトンを渡した。


受け取った彼が一気に駆け出す。

風を切る背中が、すぐに遠ざかる。


立ち止まった瞬間、膝が笑った。

喉が痛い。心臓が爆発しそう。

でも、走り切った。

今までで一番速く走れた気がした。

結果なんて関係ない。

今だけは——そう思いたかった。


けれど、現実は残酷だ。

リレーの最終結果が放送される。


「二年一組、三位。」


歓声の中、私の胸だけが冷たく沈んだ。

亮介がこちらに歩いてくる。

汗をぬぐいながら、少し息を切らしていた。


「またお前のとこで抜かれたな。」


軽く笑って言った。

その笑いが、風に混じって遠くで揺れる。

だけど、私にはもう、笑えなかった。


喉の奥で何かが熱くなる。

息を吸っても苦しい。

視界の端で、白いハチマキが風に揺れている。

亮介の声は、いつもと同じ調子だった。

軽く笑って、冗談みたいに言う。


胸の中で、何かがゆっくりと弾けた。

——その瞬間、私はついに口を開いた。


「……うるさい。」


世界が止まった。風も音も、全部遠くに消えた。

喉の奥で何かが煮える。

それが言葉になるまで、ほんの数秒――けれど永遠のように長かった。

気づいたら、叫んでいた。


「うるさいって言ってんの!!」


空気が一瞬で変わった。

まわりのざわめきが止まり、風すら息を潜めたようだった。

亮介が驚いた顔をする。

でも、もう止められなかった。

ずっと、ずっと溜めてきたものが、一気にあふれた。


「私だって、好きで抜かれてるわけじゃない! 毎日走って、毎回抜かれて、それでも走ってるんだよ! 悔しくて。情けなくて。泣いた夜なんて、数えきれない。でも、そんなの誰も知らないでしょ!」


声が裏返った。

胸が痛い。

けれど、止まらない。

今止めたら、何も変わらない気がした。


「放課後、こっそり走ってた。誰もいない校庭で、一人で。靴の底が擦り切れるまで練習したのに、タイムがほんの少ししか縮まらなくて。それでも続けたんだよ。……だって、“少しでも速くなりたい”って思って。みんなの足を引っ張りたくなかったから!」


亮介は何か言おうとして、言葉を飲み込んだ。

私はそれを見て、さらに声を震わせた。


「それなのに、なんであんたはいつも簡単に言うの!? “また抜かれたじゃん”とか、“もっと頑張れ”とか! あんたにとっては、ただの一言かもしれないけど、私にとっては、それが一番つらいの!!」


視界が滲む。

頬を伝うのは、汗か、涙かわからない。

でも構わなかった。

もう誰の目も気にしていなかった。


「走るの、怖いんだよ。スタートのピストルが鳴るたびに、心臓が止まりそうになる。“次こそ抜かれませんように”って祈りながら走って、でもまた抜かれて。そのたびに、クラスのみんなのため息が聞こえる気がして。……そんなの、どれだけ苦しいかわかる!?」


亮介が、ただ黙って立っている。

まわりのクラスメイトも誰も声を出さない。

それでも私は、止まれなかった。


「それでも逃げなかったんだよ。怖くても、恥ずかしくても、ちゃんと走った。今日だって、前より速く走れた。抜かれたけど、最後まであきらめなかった。なのに、“またお前のところで抜かれた”って……どうしてそんなふうに言うの?」


言い終えると、喉が痛くて息ができなかった。

足も震えていた。

それでも視線だけは外さなかった。

亮介が私を見る。

さっきまでの軽い笑みは消えていた。


風が吹いた。

砂ぼこりが舞う。

遠くで笛の音が鳴る。

世界がゆっくりと動き出したように感じた。


「……悪かった。」


亮介の声は、驚くほど小さかった。

でも、はっきり聞こえた。


「お前、今日……一番速かったぞ。」


その言葉が、風の中に溶けた。

一瞬、何を言われたのか理解できなかった。

胸の奥に、熱いものが広がる。

目の奥がじんと痛む。


「……うそ。私、抜かれたのに。」

「抜かれたけど、最後まで追ってた。俺、バトン受け取ったとき、思ったんだ。“こいつ、本気だ”って。」


亮介が少し笑った。

それはいつもの軽さじゃなく、少しだけ照れたような、静かな笑顔だった。

言葉が出ない。

ただ、涙がぽろりと落ちた。


風が頬をなでた。

白いハチマキがひらひらと揺れる。

声援のざわめきが再び遠くから聞こえ始めた。

運動会は続いている。


でも、私の中では、何かが終わっていた。

ずっと自分が嫌いだった。

遅い自分、責められる自分、何をしても届かない自分。

でも今、少しだけ思えた。


——私、ちゃんと走った。


「ありがとう」と言おうとしたけれど、声にならなかった。

代わりに、小さく息を吸い込んで空を見上げる。

まぶしいほどの青。

その真ん中を、ひとすじの雲がゆっくりとほどけていった。


運動会は、やっぱり憂鬱だ。

でも、“うるさい”って言えたあの瞬間の自分を、私は、少しだけ誇らしく思う。


※※※


運動会が終わるころ、空の色は少しだけ金色に染まっていた。

校庭に流れる音楽は、朝の勢いをなくして、どこか遠くで薄く響いている。

応援席のテントが片づけられ、砂の上に散らばったハチマキと紙コップが風に転がっていく。


私は靴の砂を払って、グラウンドをあとにした。

胸の鼓動はもう落ち着いていたけれど、まだどこか現実味がなかった。

あの“うるさい”という言葉を、あんな大声で言ったのは生まれて初めてだった。


夕方の風が頬を撫でる。

汗の跡が少し冷たく感じる。

校門の方へ歩いていくと、後ろから足音が近づいてきた。


「なぁ、真帆。」


振り返ると、亮介がいた。

ハチマキを首にかけ、髪が汗でぺたんと額に張りついている。

さっきよりもずっと静かな顔をしていた。


「さっきは……悪かった。」


その目は、昼の喧騒を全部置き去りにしたみたいに静かだった。

私は首を横に振る。


「ううん、いいの。私のほうこそ、言いすぎた。」


そう言って笑おうとしたけど、頬が引きつった。

でも亮介は、何も言わずに小さく頷いた。

少し沈黙が流れたあと、彼がポケットから何かを取り出す。

それは、銀色のバトンだった。

リレーのあと、片づけの先生に頼んで持ってきたのだろう。


「お前に、渡しとこうと思って。」

「え?」

「今日のバトン。……お前、あの時ほんとにすげぇ顔してたから。」


私は受け取った。

まだ少し温かかった。

指先に残るそのぬくもりが、胸の奥まで染みてくる。


「ありがとう。」


それだけ言うと、亮介は「じゃあな」と手を振って去っていった。

背中が夕陽に照らされて、オレンジ色に光っていた。

その姿を、私はしばらく黙って見送った。


校門を出ると、金木犀の香りがまた風に乗ってきた。

朝と同じ香りなのに、どこか違っていた。

風はもう、冷たくなかった。


空には薄い雲がかかっていて、夕焼けが滲んでいる。

道端の電柱の影が長く伸びる。

その上を、カラスが二羽飛んでいった。


世界が少しずつ夜に変わっていくのを、私はぼんやりと見つめた。

ポケットの中のバトンをぎゅっと握る。

ひんやりとした金属の感触が、なぜか心地よい。


きっと明日になれば、今日のことも、また少し曖昧になる。

みんなの記憶の中では、“二年一組三位”という結果だけが残るだろう。


でも、私の中では違う。

今日だけは、私の“努力”が確かに存在した。

あの数秒間、誰のためでもなく、自分のために走っていた。


思い返せば、いつも誰かの期待を背負っていた気がする。

“クラスのために”“迷惑かけないように”“頑張らなきゃ”――

そんな言葉で、自分を縛っていた。


でも今日は違った。

走っている途中で、ふと心の奥から声がした。


——「私、負けたくない。」


その瞬間だけは、本当に自由だった。

抜かれても、倒れても、構わなかった。

ただ、自分の足で走っていた。

それだけで、今は少し誇らしい。


家の前に着くころには、空がすっかり藍色になっていた。

窓から母の声が聞こえる。


「おかえり! どうだった?」

「三位だった。でも、楽しかったよ。」


口にしてみて、驚いた。

本当にそう思っていたから。

玄関で靴を脱ぎ、部屋に戻る。

机の上のノートを開いて、最後のページに“運動会”と書く。

その下に、小さな文字で書き足した。


「走るのは、怖い。

でも、逃げなかった。」


ペンの先が震えた。

涙が出そうになったけれど、今は泣きたくなかった。


窓の外を見る。

夜風がカーテンをふわりと揺らしている。

風の音が、まるで拍手みたいに聞こえた。


私はバトンを机の上に置いて、ベッドに腰を下ろした。

明日からまた、いつもの日常が始まる。

授業、部活、友達とのおしゃべり。

きっと亮介も、何もなかったように話しかけてくるだろう。

それでいい。

私はもう、逃げない。

心の中で、そっと呟いた。


——ありがとう。

——頑張ったね。


それは誰かに向けた言葉じゃない。

自分自身への、初めての“お礼”だった。


電気を消すと、部屋は静まり返った。

真っ暗な天井を見上げる。

昼間のあの青空が、まぶたの裏に浮かぶ。


雲ひとつない、あの空の下で、私は確かに走っていた。

運動会は、やっぱり憂鬱だ。

けれど、あの日の“うるさい”と叫んだ自分を、

私はこれからもずっと覚えているだろう。


夜の静けさの中で、ふと息をつく。

風が遠くで、木の葉を揺らしていた。


いつか、誰かが「私、走るのが遅い」とうつむいていたら、

そっと言ってあげたい。


——大丈夫。

——遅くたって、全力で走れるよ。


外では虫の声がしていた。

夜の風が、今日を優しく包みこんでいく。

私は目を閉じて、深く息を吸った。

胸の奥で、何かがやっと呼吸を始めた。

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